「授業」と「授業の外」の充実(下) ー「先生と教え子」と「師匠と弟子」ー【野口芳宏「本音・実感の教育不易論」第49回】


教育界の重鎮である野口芳宏先生が60年以上の実践から不変の教育論を多種のテーマで綴ります。連載の第49回は、【「授業」と「授業の外」の充実(下) ー「先生と教え子」と「師匠と弟子」ー】です。

執筆
野口芳宏(のぐちよしひろ)
植草学園大学名誉教授。
1936年、千葉県生まれ。千葉大学教育学部卒。小学校教員・校長としての経歴を含め、60年余りにわたり、教育実践に携わる。96年から5年間、北海道教育大学教授(国語教育)。現在、日本教育技術学会理事・名誉会長。授業道場野口塾主宰。2009年より7年間千葉県教育委員。日本教育再生機構代表委員。2つの著作集をはじめ著書、授業・講演ビデオ、DVDなど多数。
目次
5 父の生涯を導かれた「師」
先の稿で二人の私の師について記したのだが、「師」にかかわって忘れ難い思い出がある。私事になるが、私の父も小学校の教師であったが、私の母の結核感染に遭い、止むを得ず職を退いて農事、家事に就かねばならなくなった。当時の結核は不治の病である上に強い伝染力を持っていたので、母は松の風と波の音しか聞こえない20キロも離れた避病院に隔離された。父は思いもかけなかった災厄の真っ只中に放りこまれ、7歳の私と生まれたばかりの妹を父の実家と姉の家とに預けて、単身農事、家事、看病に明け暮れることになった。
望んで教師の道に入り、力いっぱいの実践に専念し、子供からも父母からも慕われていた父にとって、この災厄の中での苦悩は想像を絶することであろうが、その父を励まし、力づけ、常に温情を持って導いて下さった恩師があった。父が師範学校に学んでいた折の片桐綱三郎先生である。
献身の看病も効なく私の母は32歳で他界した。私も妹も母のない子になったが、もし父に召集令状がくれば私たちは孤児になってしまう。思い余った父は、恩師の片桐先生の娘さんに私たちの母になってもらえませんかと懇願した。先生はすぐに「迎えに来い」とのお便りを下され、父は鉄兜を二つ持って新潟県新発田市に出向いた。
今から75年も前のことである。その継母は今101歳を迎えて健在、私は継母を菩薩と仰いで及ばずながら孝養に努めている。
さて、閑話休題、「師」とは何か、ということである。父の人生を見ながら、私もまたいつか父のように「生涯の師」に巡り合いたいと思いつつ長じた。──だが、小、中、高、大学と過ごす過程では残念ながらそれほどの間柄になる師との出合いは私にはなかった。寂しいことだったが仕方がない。「縁」はそう易々とは生まれないものなのであろう。だが別に「合縁奇縁」という言葉もある。私は、偶然、初任の地で生涯に亘る3人の師と出合うことになった。この三方からどれほど人生の教示を戴いたか知れない。
まずは、東京帝大医学部を出られた内科医平田篤資先生、二人めが苦学、精励の暁に文検で中等教員の書道科免許を取得された高校教諭の齋藤翠谷先生、そして3人めは千葉県師範学校を出られ、後に母校の附属小学校教諭を長年務められた国語教育の師、高橋金次先生である。
この三方を私はふだん「先生」とお呼びしてはいたものの、実感としては「師匠」とお呼びする方がずっとしっくりする。

6 「先生」と「師匠」の違い
「先生」と「師匠」とは同義語のように見えるが微妙に、あるいは大きく異なるところがあるように思うのだ。不明にして、両者の違いを明白に述べた文献に出合ったことがない。まずは手許にある辞書によってその違いを探ってみよう。要所のみ引く。
「先生」について『広辞苑』を見る。
①学徳のすぐれた人。自分が師事する人。また、その人に対する敬称。
②学校の教師。
③医師・弁護士など、指導的立場にある人に対する敬称。
④他人を、親しみまたはからかって呼ぶ称。
『明鏡国語辞典』を見る。
①師として学問・技術・技芸などを教える人。
②教師・師匠・医師・弁護士・代議士など、学識のある人や指導的立場にある人を高めていう語。
③他人を親しんで、また、からかっていう語。
「師匠」についての『広辞苑』の説明。
①学問・技芸などを教授する人。
②芸人の敬称。
『明鏡国語辞典』の説明。
①学問・技芸などを教える人。特に、歌舞音曲などの遊芸を教える人。
②落語家など、寄席芸人の敬称。
以上では「先生」と「師匠」はほぼ同義と解され、ニュアンスの違いは分かりにくい。そこで私なりの両者の違いを述べてみたい。
「師匠」に教わるのは「弟子」である。「先生」に教わるのは「児童、生徒、学生」まとめて「教え子」と言う。
「弟子」は「師匠」を目指している。「弟子」は「師匠」に憧れ、見習う。師は弟子が目指す目標である。これに対して「教え子」は必ずしも「先生」を目指してはいない。自分の成長に先生の指導を役立てようとは考えても、将来に直結してはいない。
一般に「弟子」は、「師匠」を深く尊敬し、師の導きには絶対に近い服従を当然とする。「師事」とは、「師に事(つか)える」ことであり、「事える」というのは「かしずく」「奉仕する」の意である。師を疑ったり、批判したりすることはありえない。そういう場合には「破門」される。破門とは、師弟の縁を絶って門人から除くことだ。いわゆる「師弟関係」とはそういうものであり、「先生」と「教え子」の関係とは明確な違いがある。「先生と教え子」の関係は、一般に1年とか2年の短期間である。だが、師弟関係は長期間に及ぶ。また弟子入りの頃には起居を共にするという形で、弟子は師匠の身の廻りの世話などもした。
そういう師弟関係のありようの中から、弟子は師の考え方、生き方、人としての在り方などを教わり学び、体得していった。師の起居の日常から感化を受け、影響を受けた訳だ。「先生と教え子」の関係とはこういう点からは大きな相違が浮かび上がる。