「纏まる」教育の再興を ー「学級崩壊」「家庭崩壊」からの警告ー【野口芳宏「本音・実感の教育不易論」第26回】
教育界の重鎮である野口芳宏先生が60年以上の実践から不変の教育論を多種のテーマで綴ります。連載の第26回は、【「纏まる」教育の再興を ー「学級崩壊」「家庭崩壊」からの警告ー】です。
執筆
野口芳宏(のぐちよしひろ)
植草学園大学名誉教授。
1936年、千葉県生まれ。千葉大学教育学部卒。小学校教員・校長としての経歴を含め、60年余りにわたり、教育実践に携わる。96年から5年間、北海道教育大学教授(国語教育)。現在、日本教育技術学会理事・名誉会長。授業道場野口塾主宰。2009年より7年間千葉県教育委員。日本教育再生機構代表委員。2つの著作集をはじめ著書、授業・講演ビデオ、DVDなど多数。
目次
1 「纏まり」の崩れ現象
「纏(まと)まる」と書いて、『明鏡国語辞典』では次のような解説がなされている。
①別々にあったものが集まって一つになる。また、統一のとれた集まりになる。
・全員が一丸となって──
・髪がうまく──らない
・土器が──って発見された
・──った金が必要だ
②思考・資料などの整理がつき一つの形に落ち着く。
・クラスの意見が──
・この報告書は分かりやすく──っている
・旅行の計画が──
③話し合いなどの決まりがつく。
・交渉が──
これらによれば、「纏まる」は善であり、望ましいことである。よく「纏まっている」クラスは安心できるし、「纏まっていない」クラスは心配である。
その「善」であり、「望ましい」筈の「纏まり」が、この頃かなり崩れてきているように思えてならない。例えば「崩壊」という言葉の多用現象が一つの象徴である。「学級崩壊」「学年崩壊」「学校崩壊」などとも言われ、「家庭崩壊」などとも言われる。「崩壊」という言葉が使われる前には「荒れている」という言い方がなされ、「あのクラスは少し荒れている」というように言われていた。「崩壊」よりはやや和らぎがあるように感じられる。「崩壊」は激しい。
「崩壊」とは言われないまでも、現象としては「纏まり」の崩れが増えているようだ。例えば、昔は学校の全職員が楽しみにしていた「職員旅行」がほとんど宿泊を伴ってなされていたものだが、この頃はそれが減っているらしい。宿泊はおろか、日帰りのそれも「希望者」で実施しているところもあるようだ。また、一つの学期が終わると、やれやれということで「反省会」や「慰労会」「懇親会」などの名称で全員が飲み食いの会を楽しんだものだが、それすらも「強制」はできなくなっているとも聞く。
校長は一つの学校のリーダーとして様々の指導をしてきた存在であるが、退職をすると「退職校長会」に全員が加入して、あれこれと旧懐の情を交わし合ってきていた。ところが、その会に「非加入」という例が、ちらほらと見られるようになってきた。「もういい」「一人で自由にしたい」ということらしい。「縛られたくない」とも聞く。「みんな仲良く」「伝統を大切に」と教えてきた立場の、これが校長の考えか、といささか疑問に思うところである。
夫婦の別居や離婚、破綻も多くなっているようである。親子の間にも、そのような傾向が生まれ、しかも増えているように見える。田舎の生まれで若い時は都会に出て働き、結婚をし家庭を持った人も多い。やがて、田舎を守ってくれていた親が高齢になり、親の面倒や家や農地の管理もしなくてはいけない立場になってくる。そこで、田舎に帰りたいがという話になると、妻の側が子供も巻きこんでそれを渋る。とどのつまり、独り身になって帰郷という例も散見されるようだ。
善であり、望ましい筈の「纏まり」が、このような形で漸増しているらしく、それは悲しく、淋しく、残念なことだと私は思う。
2 「纏まり」の崩れは教育の責任
さて、それらの「悲しく、淋しく、残念な」現象も、帰するところは「教育のあり方の問題だ」ということに落ちつく。
「落ちつく」と書いたが、それは高齢になった教員仲間や飲み友達の間でのことだ。
そうではなく、「社会の問題」と言う人もある。そういう考え方も誤りではないだろうが、私はそうは思わない。少なくとも教員としては言えまいと思うからだ。「教育は国家百年の大計」とも言われることも考えに入れてみたい。
「社会が悪い」「家庭が悪い」という言い方はよく耳にする。だが、社会や家庭の構成員は人間である。その主たる担い手は大人であるが、いきなり大人になる人はいない。全ては赤ん坊として生まれ、乳児から幼児、子供、若者を経て大人になる。その子供の時代は主として学校教育を受けつつ成長していく。その「学校教育」が成功すれば子供は立派な大人になり、その立派な大人が家庭を作り、社会を作るのだ。つまり、家庭や社会の担い手である大人は、例外なく「教育」によって作られ、「教育」の所産として存在する。このように考えることによって教育は重責を担う誇り高い職業として成立することになる。
「家庭の責任」「社会の責任」もむろん存在するが、大人づくりの根本は教育にある。教育基本法第1条「教育の目的」の末尾は「──心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」という文言で結ばれている。「国民の育成」こそが教育の「目的」なのである。そうであることに気づけば、家庭や社会の責任だという言い方は、一つの責任転嫁であり、言い逃れということになるのではないか。私はそのように考えるのだがいかがなものか。
3 「纏まり」を崩す教育の風潮
子供の教育を預かる専門職として義務教育期間中の「教員」が任命されている。その専門職としての教員が、具体的な教育を実践していく上で大きな影響を受けるのが教育に対する考え方である。社会的には、思潮とか、もう少し砕けて風潮という言い方もされる。むろん法治国家としての公教育は大きく教育行政のあり方によっても影響を受ける。それら風潮や行政の大きなうねりの中に、「纏まり」を崩す近因とも遠因ともなる気がかりな事柄があるのでそれらのいくつかを挙げ、考え合ってみたい。読者諸賢の御批判を受けたい。
①みんなちがって、みんないい
これは、金子みすゞの童謡「私と小鳥と鈴と」の中に出てくる一節である。それは、「個性尊重」「個性重視」の教育思潮と相俟って随分広く知られ、親しまれたフレーズである。童謡の中の文脈では、十分に納得できる「善なる思想」として受容できる。ところが、このフレーズだけが独立してひとり歩きを始めると、とんでもないことも生じてくる。
ある公立校の校長が大変なみすゞびいきで、とりわけ先の言葉に惚れこんだらしい。この学校の全校集会は何とも締まりがなく、びしっとしたところがない。私語や脇見や動きも多く、校長の話が行き渡らない。これでは拙かろうと、そのことが職員会議で話題になった。その時に、校長が先のフレーズを引用して、「子供のそれぞれのよさを大事にしたい」と述べ、事態の改善には至らなかった由である。
ここからは、「纏める」「纏まる」ということへの「ためらい」「違和感」「恐れ」のようなものが感じられる。「縛り」「押しつけ」「統一」は「よくないこと」という「思いこみ」も見てとれる。「みんなちがって、みんないい」ことも場合によっては確かにあろうが、全てがそれでよい訳ではない。
「ならぬことはならぬのだ」という毅然たる強制、強要、教育が必要なことも、またあるのだ。別して基礎教育期においては。
②個性重視の行き過ぎ
教育行政文書の中に「個性」の重視や尊重に特に触れて強調している文面はないようだ。が、学校の現場では根強く「個性」の尊重という観念が行き渡っているように思われる。食べ物の好き嫌い、勉強も教科ごとの得意、不得意、また、行動上の積極性や消極性、粗暴や反抗などまで「個性」という言葉でくくられ、「個性」は教育の対象ではないという考え方まで出ているようなのだ。個性をできるだけ尊重するという考え方も、行き過ぎれば教育放棄、教育不能論にまで発展しかねない。
子供の個性という概念もあるだろうが、その前に子供はまだ未熟であって、「発達の途上」にある存在なのだという前提を持つべきだ。教育によって望ましい発達・開発をしていかなければならない時期なのだ。
我がままや身勝手な言動を抑え、協調性や自制心を高める教師の側からの働きかけを必要とする時なのだ。「学級崩壊」などという現象も、担任の指導力如何によってかなりの予防ができる筈である。クラスとして「纏まる」ことの大切さ、楽しさを、教育によって一人一人の子供に分からせていかねばならない。
③教えることへのためらい
子供の「主体性」を重んずるあまり、次のような「常識」がかなりの現場にある。
ア、子供に思考、判断をさせることが大切だ。教師からの指示は努めて控えたい。
イ、教師の教えこみ、詰めこみはよくない。
ウ、努めて子供相互の考え合い、話し合いに委ね、教師は長い目で見守るべきだ。
エ、多様な考え方をできるだけ受け入れ、拒絶や否定は努めて避けたい。
これらの考え方、教育観は、ともすると「成り行き任せ」あるいは「傍観」「放任」に堕しかねない。私は、むしろ次のような考え方のほうが正しいと思うのだが如何か。
オ、教えないことは知らない。子供が知らないのは子供の責任より、教えない親や教師の責任である。
カ、必要なこと、大切なことはどんどん教えるべきだ。教えて育てるのが教育だ。
キ、知識も経験も乏しい子供同士の考えや話し合いには限界がある。開発的な助言や指導をもっと強化すべきである。
ク、「纏まり」や「協力」「団結」の良さを、事実、実態を通して理解させたい。
4 「纏まり」という原点への回帰
「纏まり」の重要性を改めて強調、共有すべきである。都会では疾(と)うに消滅してしまっているであろう「地域の纏まり」が、田舎でも消滅しつつある。子供会、婦人会、祭りや盆踊り等々への参加者減が深刻だ。「個」と「多様性」の重視が、「統一」「協調」「纏まり」「団結」を蝕んでいる結果ではなかろうか。
こんな調子でいくと、「国家としての纏まり」「日本人としてのアイデンティティ」などまでが覚束なくなるのではないかと、心配になってくる。
韓国の親しい教師の肝煎りで韓国に3回ほど、講演に招かれたことがある。その初回は学校に行く道路を跨いで横断幕が掲げられるほどの歓迎ぶりで、400人ほどの人が集まった。
私は韓国語は全く分からないので、促されて壇上に上がると進行係が大きな号令をかけ、聴衆が一斉に起立した。私はてっきり私への礼をしてくれるのだと思い、直ちに起立をした。次の瞬間、音楽が響き、全員が左胸に手を当てて斉唱した。不動の姿勢で、それは荘重と言うにふさわしい一時であった。全員による韓国国歌の斉唱である。私は、最敬礼をしてこれに応えた。
これが、韓国の教員の大きな集会の常識なのだと、後で知らされた。日本ではほとんど見ることのできない「纏まり」が生む「美学」の一シーンだった。
今や誰もが「異常」とは感じていない「自由」「個性」「多様性」等が生み出している「纏まり」のなさが、日本の社会に広まりつつある。教育者としてこれをどのように受けとめ、対応すべきだろうか。
執筆/野口芳宏 イラスト/すがわらけいこ
『総合教育技術』2019年5月号より