主体性、自主性の功罪 ー「受け身」ではだめなのかー【野口芳宏「本音・実感の教育不易論」第12回】
教育界の重鎮である野口芳宏先生が60年以上の実践から不変の教育論を多種のテーマで綴ります。連載の第12回目は、【主体性、自主性の功罪 ー「受け身」ではだめなのかー】です。
執筆
野口芳宏(のぐちよしひろ)
植草学園大学名誉教授。
1936年、千葉県生まれ。千葉大学教育学部卒。小学校教員・校長としての経歴を含め、60年余りにわたり、教育実践に携わる。96年から5年間、北海道教育大学教授(国語教育)。現在、日本教育技術学会理事・名誉会長。授業道場野口塾主宰。2009年より7年間千葉県教育委員。日本教育再生機構代表委員。2つの著作集をはじめ著書、授業・講演ビデオ、DVD等多数。
目次
1 教師の自由研究への不評
校長初任の思い出である。「野口先生が今度の校長だ」という噂とともに、「きっと国語の研究をやらされるぞ」という噂も広がったようだった。私は、初任以来ずっと「右手だけは常に国語教育の綱を握る」と心に決めて歩んできたので、それは無理からぬ予想ではあっただろう。
だが、私はもともと、自分にその気がないのにやらされる仕事は「本物にならない」と考えていたので、私自身はそう考えてはいなかった。しかし、教員は公務として、自分の望まない「やらされる仕事」にも当然従わなければならない。私はそれらについては「左手で」関わり、利き腕の右手は「常に国語教育の綱を」と自戒してきたのだ。左手だから「適当に」という訳ではないが、常に自分のテーマは持ち続け、磨き続けようとしてきたということである。
さて、校長初任校の研究テーマは、「各自が今までやりたくてもやれずにきた研究テーマを主体的、自主的、自発的に決め、それぞれが自由に実践研究をする」という、「各自の自由研究」とした。
これは、学校経営方針の「自主、自立」という子どもの理想像とも合致するので、好テーマと言える。どの先生方もほっと胸をなで下ろし、喜んでくれるに違いない。私は、そのように想像していた。
ところが、これが意外なことに頗る不評を買う結果になって驚いた。「やっぱり、今までのように研究テーマを統一してくれた方がいい」「教科や領域を絞った方がよい」ということなのだ。よくよく聞いてみると「自分が特別に研究したいことなんてない」「何をどうすればいいのか分からない」「今までそんな研究はしたことがない」というような理由だった。「右手で握り続ける綱」など大方の教師が「ない」というのだ。私は驚きもしたが、「そんなものだろうか」とも思った。これは恐らくどの学校にも通ずるごく一般的な傾向なのであろう。では、絞るべき一つの教科、領域は何にするか、ということになると、いろいろな意見が出て中々まとまらないのはどの学校にも通ずることだ。つまり「不平や不満、文句」は言うけれど、「では自由に」ということになると腰が引ける、というのが偽らぬ学校現場の実態なのだ、と改めて私は思わされたことである。
だが、私は、そうであるならなおさらのこと、「校長が私だからこそできる」未経験の「自由研究」に挑ませたいと決めた。在任の2年間をそれで貫いた成果を、これまたありきたりの研究紀要でなく、「実践ノート」と銘打って収録し、雑誌に紹介したところ、多くの希望者があって喜ばれた。当時にあっては注目された実践であったからだろうが、小稿の目的は別にあるので、これ以上の報告は割愛する。
2 子どもに求める「主体性、自主性」
戦後の学習指導要領が一貫して子どもに求めてきた理念に「主体性」「自主性」がある。特別の教科 道徳についての中教審の答申の中の次の文言は、「解説」の2ページでも特に大切なこととして引用されている。
特定の価値観を押し付けたり、主体性をもたず言われるままに行動するよう指導したりすることは、道徳教育が目指す方向の対極にあるものと言わなければならない。
ここでも「主体性」が強調されている。「言われるままに行動するよう指導したりすること」は、どうやら「よくないこと」「やってはいけないこと」らしいから、私などは随分戸惑ってしまう。
子どもを教育する場面では、「主体性」を求め、育てることが常に賞揚されているのに、その指導者である教員自身の「主体性」に至っては冒頭に紹介したとおりなのだ。大人でさえ、教育者でさえ身についていない「主体性」なるものは、それほど子どもらに大切なことなのだろうか。
前にも書いたことなのだが、子どもという存在は、「知識も経験も乏しい未熟体」をその本質とする。この言い方には反発されそうだが、そうであるからこそ「教育」が必要になるのだ。間違いあるまい。その「未熟体」の「主体性」や「自主性」や「自発性」を過大評価するのは危険であるよりも誤認、誤解だとは言えまいか。
さらに言えば、戦後70年に余る日本の教育は総じて「よい実り」を生む「良い方向」に進んできたと言えるのか。反対に、むしろ「良くない方向」に進んできてはいないか。
多くの場で、「日本の教育はこのまま進んでよいと思うか」と問うと、ほぼ全員が「否」と応ずる。私も同感である。
では、その元凶は何か。どこに要因があるのか。私は、ずばりそれを「子ども過信」「子ども天使観」「子ども中心主義」という考え方にあると考えている。そんなことを考えていた私が、はたと膝を打った論考に出合ったので抄録しつつ、私の考えも記してみたい。これこそが「不易の論」だと思う。
3 小ざかしい自力よりも受動性
ものごとは、受け身の姿勢で取り組んでいてはならない。主体的であるべき。
「今月の思いこみ」p. 25
上は、小学館の月刊PR誌『本の窓』に、平成27年から29年に連載された小池龍之介氏(僧侶)の平成27年11月号のテーマである。
「私たちは子どものころから、自主的であれとか、主体的に動けとか、そういった教育を受けて育ってまいりました」という書き出しで論考が始まる。これは、そのまま戦後70年の教育の総括と言ってもよかろう。
この冒頭に対して小池氏は続ける。
そうした価値観の延長線上には、受け身の姿勢でものごとを待ち受けているのは、愚か者ややる気のない怠惰な者のすることだ、という考え方があるように思われます。
これもまた、戦後の教育思潮を総括しているように私には思われる。この底流には「言われるままに行動するように指導」され、そのようにしたために、戦争、敗戦という悲劇が生まれたのだ、という戦前、戦中の教育思潮への反動的思考があるようにも思われる。
まずは、「受け身である、イコール怠惰」というイメージから「吟味」を始めている。
そして、小池氏がしている執筆も、講演も、出演も、依頼を「引き受ける、きわめて受動的」なものだと書く。檀家から頼まれるお寺の仕事もするが、「何かしらの仕事をし続けているのは怠惰とは言えまい」と氏は言う。「私が主体的にどう思うかは置いておいて、自分に運命として課された試練に、ちゃんと付き合い切ってみようと思っているから」しているのだそうだ。よく分かる。
続けて、大略次のように言っている。
「ランチをとるのも、掃除をするのも、よいタイミングでやり終えたという満足感と充実感が残り、次になすべき課題を求めるようになる。つまり、より受動的になり、次の仕事が見えてくるのだ」──要するに、空腹や、片づけたいという思いを受けとめて、それに従っていることの連続が日常であるが、それは「受け身」イコール「怠惰」という考えが誤りであることの証しだという訳である。
疲れてきた時には「休む」というのが「受け身」であり、望ましいのだ。ところが、「締め切りに間に合わないから」と、「主体的に」なって無理をすると、「休め」というややきつい指令が「体調を崩す」という形で下りてくる。すると、「療養」という形の「受け身」にならざるを得ない。「主体性、自主的」よりも「受け身」の方が総合的には社会的貢献になるのだ。
やがて元気になったら、それは自然が再び我々に「元気で働け」と指令を下したことになる。それに従って働くのは「受け身」なのだ。氏は次のようにまとめる。
ですから「受け身」とは、刷りこまれたイメージとはずいぶん異なり、たしかに休む時は休むのですが、働く時は、その時その時の最適のリズムで、働き切るのです。
うん、うんと頷きながら、背中を押されるような思いで読み進めると思い当たる。執筆が思うように進まない時がある。一休みすると、あるいは諦めて別の仕事をしてから再び取りかかると、意外に効率が上がることがある。これは、私の力というよりも自然からの指令に私が「受け身」になったことによる功なのだ。小池氏は言う。
よく、他力本願なのは自分でやらないからダメだ、などと言われがちなのですが、本当の意味で「自力」という小ざかしさを捨てて、「他力」という自然の力に身を委ねるようにすることが大切です。
これが「受動性の秘訣」だと小池氏は言うのである。
4 主体性、自主性が裏目に
主体性、自主性、自発性、個性の尊重等の重視が、戦後70年を一貫している教育思潮だと言っても大きな誤りはあるまい。その潮流が育てた子どもの行く先、行く末がどうなってくるか。それは、大方の心ある人々が「このままでは先行きが心配」と応ずる言葉が雄弁に物語っている。
昔は、ずっと長く、「親や先生の言いつけを守りなさい」「親や先生の言うことを(主体性を持たず言われるままに)素直に聞きなさい」と言われてきた。それが不易の共通の子育て原理として共有されていたのである。
ところが、戦後は、そのような「唯々諾々はだめ」ということになって「主体性、自主性、自発性」という「個」の尊重が主流となり、親や先生の言うことを聞き入れない我がまま者や勝手者がのさばり、のさばる力のない子は「ひきこもり」を始めた。
どちらも、「新しい教育理論と実践」に毒された犠牲者、被害者ではないのか。私はそのような子どもらを本当に気の毒で、かわいそうに思う。親や先生の言うこと、教えてくれることには従おうという「受け身」の素直さが育てられていたならば、もっと潑溂とした、無邪気で元気な、子どもらしい子どもの時代を過ごせたことだろうに、と思わずにはいられない。
小池氏の次の言葉を嚙みしめたい。
本当の意味で「自力」という小ざかしさを捨てて、「他力」という自然の力に身を委ねるようにすることが大切です。
ここで言う「他力」「自然の力」という言葉は、そのまま、親や教師という先達と同義と考えてよい。いつの時代でも「先達はあらまほしき」であり、先達に導かれてこそ、人生は充実するのである。素直な「受身になる主体性」こそが、子どもらのあるべき姿なのではないか。
執筆/野口芳宏 イラスト/すがわらけいこ
『総合教育技術』2018年3月号より