伝説の教師 大村はまの国語授業づくり#11 話し言葉、話し合いの土台としての「対話」を味わう

日本教育史上突出した実践を展開し、没後20年を経た今も伝説として語り継がれる国語教師、大村はま。現役時代の教え子であり、その逝去の二日前まで身近に寄り添った苅谷夏子さんが、今、改めて大村はまの国語授業づくりの 「凄み」を語る連載です。「AIとの対話」についての考察が興味深い第11回。もし大村はまがAIと対話していたら、どんな感想を抱いたのでしょうか。
執筆/苅谷夏子(大村はま記念国語教育の会理事長・事務局長)
目次
はじめに
国語教師大村はまは、戦後に中学教師として再スタートした直後に出会った国語教育学者・西尾実(1989~1979 大村より20歳ほど上)を師と仰ぎ30年以上にもわたって緊密な交流を重ねた。西尾の方も、現場で誠実に、確実に実践を積み重ねていく大村の、現場でしか生まれない知見に深い関心を寄せ続けた。単純な師弟関係を超えた、尊敬し合い引き出し合い、求め合い、補い合う理想的な関係性が築かれていた。
西尾が大村に示し続けた国語教室の最重要なキイワードの一つは、「真実のことば」であり「対話」だった。たとえばこんなふうだ。
真実のことば、本当のことばを交わす
「つまらないことを聞くと、真実のことばが言えなくなる。それからあんまりむずかしいことや、あんまり考えられないようなことを聞くと、何か言わなければ悪いと思う子どもが優等生のなかにいて、その優等生が…けなげに何か言う。けなげさはいいとして、そのとき、ほんとうの心を、心から伝えるという態度ではなくなってしまう。何か言わなければ悪いと思っていっているのであって、そういうのは真実のことばではない。そういうことばを平気で使うような教室にしてしまうと、もう教室は死んでしまう。」
(『日本の教師に伝えたいこと』より 西尾のことばを紹介する大村の文として)
「分かり切っていることを、分かり切った調子で、得々と言ったりするのは、避けなければなりません。…そんなことばは言えば言うだけ真実のことばから遠くなるのではないか、という気がします。」
同書より大村はまのことば
この「真実のことば」という表現は、一つ間違えると道徳的な、哲学的な、場合によっては宗教的な色彩さえ帯びてしまい、難しいことばだと思う。「真実」という抽象語が大仰で扱いにくいのだ。けれども西尾や大村が言っている真実とは、自分の心(心ということばもまた、情緒的すぎる性格を持ち、またもや変な回路にはまりがちなので、気をつけたいが)、自分の目、自分の考えにまっすぐにつながった、誇張も擦り寄りも妥協も、もちろん「私の考えは別としてこの場ではこういうことを言っておけばいいだろう」という変な切り離しもない、「私のことば」そのもの、といえるかもしれない。大村は「本当のことば」という表現もしている。
この「真実のことば」「本当のことば」は、ことばのあり方としてはこれ以上ないくらい真っ当で本来的なものに違いない。ことばはそういうふうに素朴に自分と直結したものであるときに、もっとも自然で、無理がなく、本来の力を持ち、考えをちゃんと背負って進む力になるはずであるのに、時とともに周辺に妙に複雑な回路が次々に発生して、そのシンプルな基本が埋没しがちになっているのだろう。特に教室という場では、子どもたち自身も知らずのうちに「求められた答」を言うべきだと考えるようになり、正解を求めてことばが自分から離れていく。だから、わざわざ西尾や大村が警鐘を鳴らす必要があった。鳴らしても、警鐘を耳にした人々があまりピンとこない様子であったのは残念なことだ。教室に「真実のことば」「本当のことば」を!と言われても、いや、普通にそれはいつもやっているから、と早々に「処理済み」の箱に投げ込んできたようなものだ。そのくらい、ことばが自分にとって真実なものか、本当のものか、切実なものか、という判断は、自分では下すことが難しいほど、言語生活は複雑になりすぎているのかもしれない。あるいは、日常の煩瑣な用を足し、期待される役割に合わせることに精一杯で、ことばに確かな目を向けることができなくなっているのだろうか。
対話で本当のことばの味わいを経験させる
そんな中で、西尾が大村に求めた切り口が「対話」だった。「大村さんの教室は、話し合いを大事なものと位置付けて、準備もてびきも十分に重ねて味わわせようとしているが、でも対話というものが出来ていないのではないか」と、あるとき西尾が明確に指摘し、大村ははっとしたという。
「(第三者の聞き手のいない、二人きりの対話というものをしないと)腹の底から話すという習慣がなくなって、いつでもある程度思っているらしいことを、自分の心に見極めたり、つきつめたりせずに、口にする癖がついてしまう。そうすると、もう真実のことばが話せなくても平気で、自分は何か言っていればいいような気持ちになって、真実のことばを育てることができなくなる。だから、『対話』でほんとうに本心の本心を言うというのはどんな味わいのものなのか、それを経験させるように」
『日本の教師に伝えたいこと』より
教室の中でこその対話
さらに西尾は、「『対話』を国語教室の授業の中でこそ味わわせたい、本気になってことばと取り組む、その場でこそ「対話」の味わいも意義も体得させるべきだ。でも、さすがの大村さんの教室でも、そこができていない」と言った。
西尾の核心を突いたこの指摘を、大村は真正面に受け止め、本気になってこの大きな課題を自分の目標とした。けれども1クラス40人を超える教室で一対一の対話を生むことはもちろん容易ではなかった。それは、教える仕事をする人ならだれでもすぐに同意できることだろう。一対一になるために他の子どもたちを安心して放っておける状況を作り、時間を確保することは難題だった。大村は最晩年にこの課題を振り返って、「結局、最後までほんとうにはできなかった。西尾先生に申し訳ないことでした。もちろんずっとそれを心にかけて、対話の機会を自然に持つことができる単元学習を目指していました。ある時期からは、それが単元を構想するときの最初の大事な観点になっていた。それでも、実際に教室で対話をすることは、容易なことではなかったですね。」
大村はまの「一人ひとり」を育てる仕事の象徴として仲間たちが「黄金の椅子」と名付けた素朴な木の椅子は、この「対話」の場を生む道具だったのだ。これを大村はひょいと抱えて、注意深く教室を見まわし、今この場で、もっとも対話が生きるはずの、対話が必要な、あるいは対話こそがいい道標になるはずの子どもの傍らに置いた。

静かな押さえた声で、対話はスタートする。
転校生として入って、2年半を大村国語教室で過ごした私も、大村との「本当の」対話の機会を、ほんの数回ではあったが得たことを記憶している。単元学習では、それぞれの生徒が自分だけの材料や課題意識、目標、スタイルを持って仕事(「仕事」という感覚を中学生も持っていたことを懐かしく思い出す。「作業」ではちょっと全体感が表せないし、つまらない。自分が担った一人前の「仕事」だった)を進めることが多かった。そういうデザインの学習を大村が作り上げていた。だからこそやりがいがあった。自分の仕事は自分だけが把握していて、これが十分な形ででき上らないと、クラス全体のプロジェクトの中で役割を果たせないし、全体の出来を左右することになる、という感覚を持つ。そういう設計の単元学習である場合は特に、自分の仕事を自分と同じくらい真剣に見つめる仲間も相談相手も、大村しかいなかったのだった。だから隣に椅子をそっと置いて、大村が対話をスタートさせると、それは単なる励ましでも、「声かけ」でもなく、形だけの巡回でもなく、真剣なやりとりにならざるを得なかった。
対話は同じ熱量の仕事なかまとして
ここで大事なのは、対話といっても「人生とは」「生きるとは」とか「自分とは」とか言った哲学的対話を指しているのではないということだ。もちろんそれも大事ではあるけだろうが、それをダイレクトに深掘りすることを大村は自分の国語教室の基本にはしなかった。
大村は、子どもが一生懸命になって考えを進め、仕事を実らせようとしている「実の場」(これも大村の重要なキイワードの一つだ)で、むきになってというくらい真正面から、ブレのない、たしかな言葉を交わす、この味わいを教えようとした。そういうとき、主題は、思春期には言語化が難しく、他者と共有することなど容易にはできない「自分とは」というような話ではなくて、目の前の仕事のことになった。すべての子どもの掌に収まるサイズの仕事、言葉がちゃんと追いつく課題を選んだのだ。
自分と同じくらい本気の先輩と、狂いのないことばで、いま大事と思っている仕事について、具体的に、個別的に、つっこんで語りあう。このプロ同志の本気の対話は、他ではなかなか味わう機会のないものだった。そして、大村は準備を怠らず必ずこちらの熱意や疑問や課題意識に最大限に寄り添い、そこに熱量の差がなかったのはたいしたものだった。大村の熱量の方がよほど大きいこともあったろうが、そういう時は、大村の熱が気づけば生徒に乗り移るようなことが起きたように思う。大村は生徒のことばをしかと受け止めては、豊かな言葉で応じて多彩な案を提示したり、資料を一緒に探したりしててびきをした。直径1メートルほどの小さな場で散発的に行われたこうした対話は、記録には残っていないが、あの国語教室の核心部分でもあった。
ことばに着目した対話の確かさ
こうした対話で、ことばの専門家として大村が相手を引き受けていたことで、交わされることばは、ふわふわと感覚的に流されていくことがなかった。ことばという錨を要所要所で投げ込みながら、風を読み、地図を見、周囲をよく観察して進路を見定め、おもむろに錨を挙げてまた進める。そのとき、ことばが実に頼もしい役割を果たし、しかも「それらしい、もっともらしい、自分には本当にはよくわからないけれども、なんとなくそれらしいことば」を決して良しとせず、自分の身についたことばの味わいを手放さずに錨として使った。それが自分にとっての「本当のことば」だ。この体験こそが、ある意味では大村が子どもたちに手渡した最も重要なものだと言えるかもしれない。
こう見ていくと、西尾や大村の示した、対話が話し言葉の世界の基本になること、国語教室でこそ対話というものの味わいをしっかりと知らしめたいという姿勢は、言語生活を育む方針として根本的なものだと言えるだろう。「ことばを交わす」そのことの基本を押さえ、価値も良さも手ごたえも、確かに体験させ、体得させる。これは、日常の言語生活では容易に味わえない、プロの仕事だと言える。国語教室が担うべき仕事だろう。
こうした対話を実現することは、大村はまにとっても、日々の教室の営みの中で容易なことではなかったのだが、21世紀も四分の一を過ぎた今、対話というものが暮らしの中で別の姿で立ち現れた。生成AIとの対話だ。

生成AIとの対話を始めてみて
この3か月ほど、私は、以前書いた本を英訳する必要があって、初めて生成AIを本気で使った。ずっと懐疑的であり、避けてきていたので、最初はおそるおそるであった。生成AIを利用するための事前の学習というものをほぼしないままスタートしたので、プロンプトと呼ばれるような定型的指示などは使っていない。とりあえず下訳があれば便利かもしれない、というくらいの気持ちで始めたことだった。
ところがすぐに生成AIが予想を超える相手であることがわかった。
始めるにあたって、ひとまず、初対面の、背景も実力も、考え方の癖もよくわからない、でもことばだけは通じる相手だと考えて、進めたい仕事を伝えることばを書きこんでみた。さて、それでどうなったか。即刻返答が来る。その返答が人間とのやりとりと何ら遜色なく、要点を決して外さず、こちらの意図をすばやく飲み込み、広範囲の情報の海からうまい具合に的確な例を引っ張り出してきたりする。私の求めと食い違ったり、曖昧だったりするときには、その修正を試みる。修正の仕方にも知恵や工夫が必要なことがわかってくる。人間同士の対話でも同じだろう。だんだんといいチームになって対話が深みをましていくのがわかった。驚くのは、AIは必ずこちらと同じほどの熱量で仕事に当たるということだ。そこは大村はまといい勝負だった。人間同士では必ずしも当たり前ではない「一緒に一生懸命」という状況は、かなり嬉しいものだった。
下訳でいい、と思って依頼した英訳も、最初からかなり良いものを提示してきた。作者として違和感のある点を個別に示すと、すぐにその違和感を解決するための提案が複数だされ、こちらの意図を説明しながらさらに練り上げていき、本気でのつっこんだ編集会議が始まった。日本語のニュアンスの把握も精密で、英語の力はそれ以上のように見えた。途中からは編集会議そのものの対話が繰り広げられ、時にはふと気づくと生成AIが相手であることを忘れていた。
生成AIは対話型AIであり、迅速に便利に使えるプロンプトというものは存在するが、そんな型に頼らなくても対話は成り立つようにできていた。個別の仕事に対して、しっかりとこちらの意図や目的、好み、背景となる事実などをことばとして提示すれば、AIは見事に優秀な対話の相手になったのだ。大村はまは21年前に亡くなったが、生きている間にこれを経験させてあげたかったと思った。大村は何と言っただろうか。
結局ことばが鍵であること
特にAIは、ことばに細密に、正確に着目する力がたいしたものだった。さりげなく出てきたささいな一語に着目する力を持っていて、そこを支点にし、ヒントにして、対話を展開する様子は、大村も「たいしたものね」と言うに違いなかった。疲れることも飽きることもなく、すでに終えたはずの仕事を白紙に戻しても拗ねたりもせず、彼は実にこつこつと変わらぬ熱意で対話を続けた。
しかし、だからこそ、こちらの言語力が深く試されることになることも痛感された。既成のプロンプトで済むような用事であれば別にいいが、もっと個別の、自分だけの目当てをもった仕事をしたいとき、それを相棒としてのAIにいかに正確に的確に、全体像を確かに伝えつつ、良い順番で細部の情報を示し、仕事を進めやすくするか。細部の変更が全体をゆがませないか。どこかに狂いや誤解が生じたら、どう修正するか。それは、こちらの責任だ。人間が言語力を発揮すべき場だ。
AI利用拡大がもう現実のものになっている中で、楽をして良い成果を得ようと呑気に頼る、というのは大きな誤解であって、自分らしく使いこなすためには、確かに課題を見極め、構造的に捉え、言語化し、うまく伝達できる自分でなければならない。それを、はっきり認識できた。実は、人間相手の方がよほど融通が利くこともわかった。情報の欠落や展開の飛躍を、人間はずいぶん大胆に補う力がある。AIは、仕事が正確なだけにそういう瑕疵を乗り越えるのが不得手なようだ。
このように書いてみると、AIを使う力は、実は人間同士の対話を実らせる力と、本質的には大きな違いはないという気がしてくる。私たちは、子どもたちのことばの力をますます確かなものに育てていかなければならないのだろう。山ほど最新のプロンプトを覚えるなどということより、よほどその方が大事だ。AIはこの後も対話型のものとして進化していくだろうが、それはことばという対話の土台こそが自在に応用可能なものだからなのだ。
AI利用をするうちに、私たちのことばが一段、確かに刻まれる方向、それが言語生活を一段豊かなものにする可能性、それを期待したいと思うようになった。対話の練習相手がAIになるのかもしれない。疲れを知らない、熱心な相手として。
ただ、今回、AIとの対話がキイボードでの文字入力を使ったものであったことは、人と人の声を介した、身体表現を含む対話と大きな違いがある(生成AIとのやり取りを音声を介して行う技術はすでにあるが、まだ一般的ではないだろう)。その違いにはさらにしっかり注目していきたい。そして、話し言葉の対話を味わうために、教室はもちろん大事な場であり続けることだろう。
生成AIに引っ張り上げられるという怖さ
しかしその一方で、生成AIとの対話で私が持つようになった大きな懸念がある。気づかないうちに微妙に引っ張り上げられる、という感覚だ。対話のルールとして生成AIは、こちらの考えを否定せず、それどころか熱心に肯定し、褒め、一段高いところに位置づけ、評価してくれる(大村はまは、そういうことはしなかった。褒めるべきときにしか褒めず、時には否定することもあった。それが言葉の精度を上げる上で大事だったからだ)。「仕事を進める上で、いちいち褒めるのはマイナスになるので、褒めなくていい」とこちらがルールの変更を指示しても、やはり肯定的な姿勢は大きくは変わらなかった。こわいのは、「一段高い視点から、こちらの考えを立派にまとめ、位置づけ、評価する」という部分だ。書きこんだひとことを見逃さず、即座に取り上げ、抽象化し、価値づけて投げ返す。この呼吸は見事なもので、たぶん多くの人がこの罠に落ちていることだろう。奇妙な達成感が生まれる。生成AIがそこで示してくれる「ちょっと斜め上」のかっこいい考えは、きっかけは自分から出たものでもあるから、即採用したい、嬉しい成果物と考えたくなる。
しかし、それは、本当に自分のものなのか。オリジナリティ云々の話をしているのではない。自分がほんとうにわかって、到達し、掴んだものと言えるのか。メモなしでも、目の前の人にちゃんと伝えられるほど、自分に根差した考えと言えるのか。そこが怪しい。時には、元はたいした意図のない発言だったにもかかわらず、一種の誤解からAIの眼鏡に叶い、立派な文言に変身することもある。そういう時も、根っこが自分のなかにはない、「瓢箪から駒」であることに目をつぶりたくなる。「なんか、予想外の展開になったけれども、これでいいや」と思いたくなる。こういうことが起きるのだ。
こちらの発言に高下駄をはかせるような対話は、生成AIを相手にすると頻繁に起きる。こういう事態に、これから育つ子どもたちはどう直面していったらいいのだろうか。高下駄のおかげで背が伸びて、少しいい景色が見られたからといって喜んではいられないのではないか。つい喜びたくなるが、それは人にとって良いことなのか。そこに不安はないのか。そこで生まれた、自分一人では生み出しえなかった見栄えのする、ちょっとかっこいいことばは、「真実のことば」と言えるのか。自分から離れたことばのうすっぺらさを見抜く目があることが心配にならないのか。
人との対話の場合でも、他者の介在がきっかけに少し高い景色が見られることはあり、それは対話の醍醐味ではある。けれども、AIのいかにも正しそうな、万能そうなパワーが、不自然なほどの手際で人を上に引き上げる。これは、生成AIの設計思想の問題でもあり、AIと人間との関係を考える上での一つの課題になることだろう。私たちは、私たちの考え、私たちのことばの主人でいることを手放さずにいられるのか、ということかもしれない。
これから、「私のことば」と「私がAIに作らせたことば」をどう分けていけばいいのか。ちなみに、英訳の仕事ですっかりAIアシストに慣れ、情報検索も便利に使うようになった私も、日本語の文章の作成にAIを関わらせたいとは全く思わない。なぜなら、そこでAIが出してきたことばは、きっと憎らしいほど整ったものになるだろうし、もっと怖いことに私の考え方に沿ったものであるに違いないが、私はそれを捨てることも使うことも難しいという立場に置かれ、もっと悪いことには目にしたとたんに影響を受けざるを得ないだろうから。それは避けたいと思う。
国語教室がことばを育てることを専門とする場所であるならば、こうしたことにも本格的に目を向けるべき時代が来ているのかもしれない。
まとめ 生成AIを使って、対話について考えたこと
1,AIを相手にする場合も、ことばが鍵であったこと。人対人の時以上にそれが逆に見えてきた。AIとの対話を通じて自分の考えがより鮮明に見えてきたり、逆に不鮮明な点に気づくことができたりして、言葉を磨かざるをえなくなること。対話の意義もそこにあると、機械との対話で気づかされたこと。結果として、人との対話をより豊かなものにする方向に役立つのかもしれないということ。
2,AIによる「上方への引き上げ」を自分の成果のように思ってしまうことの危なさ。自分の出したことばを、引き上げ、飾って、それらしく整えてもらったものを、自信をもって「自分のもの」と言っていいか。その判断は自分でできるのか。そこに不安はないのか。
対話から話し合いへ
大村はまや西尾実が対話を重視したのは、ことばの原点であるというだけでなく、「話し合う」ことの基本形でもあるからだった。AIとの対話がさらに広がっていく今も、その位置づけは変わらないだろう。
話し合うことは、人間の社会で非常に重要であるにもかかわらず、深刻な弱点でもありつづけている。一対一の対話ですら、深く、確かなものにするのはなかなかできないことだが、多様な大人数が参加し、時に深刻な不一致や容易ならざる問題を扱うような話し合いのとき、どういう力を持った人が集まり、どのように話し合っていけば、「話し合った甲斐のあるもの」になるのか。司会者に指名されたら発言する、多数決で採決する、というようなルールで満足できることではない。
それを一教室で求め続け、子どもたちに手渡しつづけた大村の話は、次回の最終回で書きたいと思う。

<大村はま略歴>
おおむら・はま。1906(明治39)年横浜市生まれ。東京女子大学卒業後、長野県諏訪市の諏訪高等女学校に赴任。その後、東京府立第八高等女学校へと転任。すぐれた生徒たちを育てるが、戦中、慰問袋や千人針を指導、学校が工場になる事態まで経験する。
敗戦後、新制中学校への転任を決め、後に国語単元学習と呼ばれるようになった実践を展開。古新聞の記事を切り抜いて、その一枚一枚に生徒への課題や誘いのことばを書き込み、100枚ほども用意し、駆け回る生徒を羽交い締めにして捕まえては、一枚ずつ渡していったと言う。1979(昭和54)年に教職を去るまで、単元計画をたて、ふさわしい教材を用意し、こどもの目をはっと開かせる「てびき」を用意して、ひたすらに教えつづけた。退職後も、90歳を超えるまで、新しい単元を創りつづけ、教える人は、常に学ぶ人でなければならない、ということを自ら貫いた。著書多数。
2005年、98歳10ヶ月で他界。その前日まで推敲を進めていた詩に、「優劣のかなたに」がある。
<筆者略歴>
かりや・なつこ。1956年東京生まれ。大田区立石川台中学校で、単元学習で知られる国語教師・大村はまに学ぶ。大村の晩年には傍らでその仕事を手伝い、その没後も、大村はま記念国語教育の会理事長・事務局長として、大村はまの仕事に学び、継承しようとする活動に携わっている。東京大学国文科卒。生きものと人の暮らしを描くノンフィクション作家でもある。
主な著書に『評伝大村はま』(小学館)『大村はま 優劣のかなたに』『ことばの教育を問い直す』(鳥飼玖美子、苅谷剛彦との共著)『フクロウが来た』(筑摩書房)『タカシ 大丈夫な猫』(岩波書房)等。

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灯し続けることば
著/大村はま
「国語教育の神様」とまで言われた国語教師・大村はまの著作・執筆から選びだした珠玉のことば52本と、その周辺。自らを律しつつ、人を育てることに人生を賭けてきた大村はまの神髄がここに凝縮されています。子どもにかかわるすべての大人、仕事に携わるすべての職業人に、折に触れてページを開いて読んでほしい一冊です。(新書版/164頁)
大村はま先生の貴重な講演動画!「忘れ得ぬことば」大村はま先生 白寿記念講演会 5つのことばがつむぎ出す、国語教育の源泉【FAJE教育ビデオライブラリー】〈動画約60分〉がこちらでご覧いただけます。
