連載『大村はま先生随聞記』―担当編集者が見た最晩年の横顔― #8 方法か?道か?

日本の国語教育のパイオニア、大村はまが亡くなってから20年の時が流れた。小学館の『教育技術』誌記者として3年間大村の担当をした記者が、編集者の目から見たこの稀代の教師の素顔を10回にわたって描き出す連載第8回。
執筆/横山英行 (元編集者・「大村はま記念国語教育の会」常任理事)
目次
戦前の教育と戦後の教育
たった三年間の大村はま先生の担当であったが、この質問だけは先生にしておいて良かったと思える質問がある。それは、
「長く戦前と戦後の教育を通して見て来られて、どういうところが一番変わりましたか?」という質問である。
この質問には間違いなく、大村はま先生しか答えられない。20年前当時も、戦前戦後の教育を通して見てこられた方というのはそう多くは生存しておられなかったし、長さの点でも当時97歳の大村先生は最長だと思われたからだ。
先生はまた、例によって間髪を入れずに答えられた。
「そうねえ。何しろ戦前は、みんな学ぶということに憧れていたわね。渇いた砂が水を吸うようにと言いますか、何しろ世界のことをもっと知りたい、もっと学び何でも身につけたいという憧れに満ちていたわね。今は、先生これを知ったら何ができますか? とか、どういう資格が取れますか? とか、どこの大学に入れますか、でしょ。そこのところが、大きな違いね。」
私はすぐに我が意を得たりと思った。何となく想像していたことが図星であったから。そして教育と言うのは、確かに今目の前の一々の、個々の評価も大事だけれど、こういう長いレンジで観た“教育の流れ”、“教育の移ろい”、“教育の文化”として見つめることもまた大切であるのだと思った。
そこでいささか調子に乗ったのか、私は先生にこんな質問までした。
「それは、戦前と戦後とでは『評価』の仕方も変わったということでしょうか?」
「変わったと思う。今、評価と言うと何だか点数を付けるとか、成績を付けるとか、値段を付けるとか、そんな風に取られているでしょ。でも、私たちが戦後の教育をスタートした時には、違っていた。CIE(アメリカ教育省)のオズボーンさんがおっしゃったのは……評価とは、教師は授業の中からより良い指導のための指針を見出すこと。生徒は授業の中からより良い学習のための指針を見出すこと。何しろ『指針』ということをおっしゃった。」
「それはアメリカ教育省の考えとしてそうだったということですか? それとも、戦前も戦後も、大元の考えは変わらないということですか?」
「変わらないと思う。戦前はそういう言葉では言わなかったけれど、その言葉を聞いた時、私もそれが“評価”ということだと思った。お国も時代も関係なく、そう受け取った。」
私はこの大村先生の言葉を聞いていて、思った。変わったのは終戦直後のことではなく、終戦直後まで“戦前”は持続していたのだ。しかもそれは戦後の進駐者であったアメリカ教育省の教育方針(評価観)とも合致するある種の普遍性さえ帯びていたということになる。それが一体どこから、何をきっかけとして変わっていったのか?──
私は、国語教育に関しては戦前と戦後とで、漠然とこういう感覚も持っていた。それは、戦前の教育は「読み方」「書き方」「話し方」「文法」というように、どちらかと言えば実際の技芸を教え見ることに中心があり、書字にしても作文にしても懇切丁寧に見る、表現中心・アウトプット中心の国語であった。それは大村先生の戦後の「話し合い」指導などにまでつながっている、あくまで表現の力や人間を観る国語なのである。
それに比べて戦後、とくに近年は、個々の技芸や表現、人間性というよりは、分析能力や情報処理力のようなものが中心となり、これは実生活でも手書きの書字はワープロ作業となり、良い作文を書くことよりも〇×問題、五択問題、文法問題、読解問題などを正確に答えるための膨大な情報をインプットすることが中心の試験主体の国語になった気がする。
ともすると、自身で満足に作文も書いたことがないのに、他人が書いた文章を分析し評価し解答するというような曲芸も成立し得る国語ということになる。
この点については、私は残念ながら大村先生に踏み込んだ質問をする機会を逸したが、大村先生は戦前からの国語をベースにそれを戦後へと改良発展させていかれた国語教師なので、うかがわずとも答えは明白であったろう。のみならず先生は、戦後にますます加熱した「受験教育」「乱塾時代」の波を受けて、つまらぬ誤解から最高学年(=受験学年)は持たせてもらえぬという憂き目にまで遭っておられるから、この大村はまの扱いに、戦後の国語教育というものの有様がそのまま反映しているとも言えるのではないか。
メリー・スレッサーへの憧憬
これはもちろん戦前のことになるが、先生はこんな話もしてくださった。少女時代に先生は、姉と武者小路実篤らの「新しき村」について徹夜で議論したと言う。
「お姉さんは憧れと希望をもって新しき村を見ていたと思う。きっとうまく行くと言っていました。けれど私は、うまく行かないだろうと言ったんです。」そう話された。
当時の青春の臨場感が伝わって来るとともに、すでにして少女時代から、物事を批判的に冷静に検討する大村先生のクールなリアリズムが伝わって来る。姉妹はともに横浜の牧師の家庭に育ったクリスチャンであったが、大村先生は単純に“信ずる者は救われる”を信じて安心するようなクリスチャンではなかった。後に教育の道に進まれてからも、教育の現場にキリスト教の思想を持ち込んでそれで教導するというようなことは一切なさらなかった。
とは言っても、若き大村先生の中にキリスト教精神の灯が灯っていなかったわけではない。共立女学校の時には、メリー・スレッサー(19世紀後半にナイジェリアで活動したスコットランドの女性宣教師)の『命がけ』を読んで感銘を受け、一時は自分もそうした献身的な伝道や福祉の道を志そうとする。しかし厳しく自分を見つめると、自分にはそういう能力や資質がない、それを貫ける性格の強さもない。父からも、「こういう活動には資金を調達できる才覚がなくてはダメだ」と諭されて断念する。結局、『命がけ』についての感想文が当時の若い国語教師・児玉愛子先生に誉められたこと、捜真女学校で理想の国語教師・川島治子先生と出会ったこともあって、国語の方へぐんぐんと惹かれていくことになる。それが生涯の仕事となるわけだが、「結局自分は、教育というものを通して、メリー・スレッサーの方向へ歩を進めていったのではなかったか」と大村先生は語られた。

この若き日の「伝記」または「自叙伝」との出会いは、その後の大村はまの単元学習の展開にも、一本の中心軸を与えているように思う。即ち「伝記」から「自叙伝」へ、さらに「私の自叙伝」へと展開していく流れである。
まずは福沢諭吉の伝記やハインリッヒ・シュリーマンの伝記に取り組むのであるが、さすがに大村はまの「伝記」の授業は平凡ではない。わかりやすく、予定調和的に脚色された児童生徒向け(ある面で「教科書」的な)伝記の解釈などで終わるのではなく、福沢諭吉やシュリーマン自身が書いた「自伝」に、つまりは臨場感あふれる、実際に則した、嘘偽りのない、オリジナルな、私による「私自身」に“比べ読み”で肉迫させつつ、人間の真実を直視させるのである。
この段階を経ると、今度は複数の自叙伝をクラスの銘々が担当として責任をもって読み発表するという段階に入る。東京開都百年の時に行った実践「東京を築いた代表者たち」の時などは、もちろん読み取りの観点は豊かに与えつつ、各人が自分だけに与えられた人物を読み、それを基盤に百年記念の文章を書くという実践を行う。「書くために読む」ことの試みである。
そしてこの過程の最後に位置するのではないかと思えるのは、『私の履歴書』の実践である。当時、日本経済新聞に連載されていた著名人46人の履歴書について、クラスの各人が一人ずつを受け持って読み、自分の責任において考えたことを書き、発表するのである。この実践の肝は銘々が発表の前にまず自分自身の「履歴書」を書き下ろしてみるところにあった。履歴書を書いた著名人の心を追体験してみてから発表に臨ませたのである。
たかがまだ十数年の人生だとしても、実際に自分自身の履歴を書き下ろすとなると、心には多くのことが去来する。このことを書こうか書くまいかと、様々な葛藤も生まれ、結果書かれずに終わっていく多くのこともある。
「そういう果てしのない題材の選択とダイジェストの果てに、今目の前のこの『履歴書』があることを知ってもらいたかったんです。」と大村先生はおっしゃった。
先生の「学習記録」、「個人文集」などの実践の精神も、おそらくはここに帰するのであり、「個人文集」については、「何とか三年生までに宗教的なことがらについても、とらわれなく考えることができるまでにしたい」とおっしゃっていた。
「宗教や文学などということについてもね、ある程度の批判的な力をもって書いたり話し合ったりできるところまで、義務教育では力をつけておきたい。」とも言われた。
