インタビュー/川上康則さん|「これまでの「働き方改革」の弊害を踏まえつつ、教員一人一人がそれぞれの働き方を考える【今こそ問い直す!先生を幸せにする「働き方改革」とは③】
全国の学校で、今進められている「働き方改革」。ともすると時短ばかりが強調されがちですが、本当の意味で教師の仕事にやりがいや楽しさを感じられる改革になっているのでしょうか。学校教育のオピニオンリーダーの方々に改めて「働き方改革」の本質を語っていただきながら、子供も先生も皆が幸せになる「これからの教師の働き方」について考えていきます。連載第3回は、杉並区立済美養護学校主任教諭の川上康則先生にお話を伺いました。
〈プロフィール〉
川上康則(かわかみ・やすのり)
1974年、東京都生まれ。公認心理師、臨床発達心理士、特別支援教育士スーパーバイザー。障害のある子供たちに対する教育実践を積むとともに、小中学校等からの相談にも応じている。「教室マルトリートメント」(東洋館出版社、2022年)、「教師の流儀 正解のない問いを考える」(エンパワメント研究所、2024)、「マンガでわかる はじめて特別支援学級の担任になったら」(Gakken、2024)など著書多数。
目次
2015年以降、子供たちに何が起きているのか
今、子供たちに何が起きているかを確認しておきます。
まず、不登校の児童生徒の増加です。小中学校の不登校の児童生徒数は、1998年以降、2014年までは年平均増加率が0.3%程度で推移していました。ところが2015年以降は年平均13.0%の増加率となりました。その間に不登校の定義が二度変わったため、数字上での単純な比較はできませんが、それでも直近の10年間で、小学校は5倍、中学校は2倍に増えています。
加えて、特別支援学級の児童生徒数も増加しています。その推移を見てみますと、2014年までは10年で10万人増加するペースでしたが、2015年以降は5年で10万人増加しました。
これらの二つのことが起きた原因として考えられるのは、教室が子供にとって息苦しい場所になったのではないか、ということです。
では、その息苦しさは何によって生み出されているのでしょうか。私は教員の「働き方改革」にも関係があると考えています。いずれの場合も、ポイントになるのは2015年前後のようですので、その頃から現在に至るまでに、学校現場やそれを取り巻く環境においてどんなことが進んできたのかを振り返ってみます。
①ストレスチェック制度の導入が職場環境の改善に結びつかない
2014年に労働安全衛生法が一部改正され、2015年12月からストレスチェック制度が義務化されました。その目的は二つあります。一つは、労働者自身のストレスへの気付きを促進すること、もう一つは、ストレスの原因となる職場環境の改善につなげることです。
学校では、毎年夏休みなどの健康診断の時期に合わせて教員がストレスチェックシートに記入することになっています。しかし、「ストレスチェックシートを書いて、職場環境が改善した実感がありますか?」と周囲に尋ねると、ほぼ間違いなく全員が「ない」と答えます。それどころか、むしろ「ストレスチェックシートに記入することがストレスだ」と感じている人のほうが圧倒的多数です。ストレスを訴えても何も改善されなければ、そう感じるのも当然です。
職場環境の改善ができない場合、労働者は業務内容や雇用条件に納得できなくなり、不満が高まることが分かっています。そして、人材の流出が進んだり、就労希望者が減ったりして、業界全体が衰退することもあります。学校はまさに今、その状態なのだと言えるのではないでしょうか。
②長時間勤務問題への着目と「予定通りに進めたい」気持ちの高まり
2013 年のOECD(経済協力開発機構)の調査を通して、日本の教員の仕事時間は週53.9時間と参加国平均の38時間を大きく上回る結果が示されました。多忙であることが実際に数値で示されたのです。
2015年から「業務改善の取組状況調査」が始まり、教員の長時間勤務問題がクローズアップされるようになりました。この頃から「ワーク・ライフ・バランス」という言葉を耳にする機会が増えました。
やがて、2018年から教員の「働き方改革」を求める動きが加速します。教員の職場環境を変えようと思ったとき、目に見える形で結果が分かりやすいのが「勤務時間を短縮すること」だったのでしょう。「定時退勤」「ノー残業デー」などの標語が職員室内に貼り出されるようになっていきました。
確かに、早く帰ることへの意識づけになっている部分はあります。しかし、本来であれば「削減すべき業務を洗い出し、徹底的になくすこと」とセットでなければならないところを、業務内容の量や質はほぼ変えられず、ただ退勤時間を早めることばかりが進められたという実情でした。
その結果、多くの学校で実際に削減されたのは「子供たちとの良質なコミュニケーションを確保する時間」や「子供のことを理解し合うための教員間の対話の時間」だったのではないでしょうか。
こうなってしまうと、どうしても「余計なことには時間をかけたくない」「予定した通りに授業を進めたい」という意識が強くなります。「やっつけ仕事」や「やった感ばかりが空回りする状況」も生まれやすくなります。
教室内で、子供との良質なコミュニケーションを確保する時間がとれなければ、短時間で子供をコントロールしようとする指導を求める傾向が強くなります。教師の示す枠に無理に当てはめようとする威圧的な指導が増えることも考えられます。
また、予定通りに授業を進めようとするあまり、「すぐにできる」「必ずうまくいく」などインスタントなスキルで一斉に画一的な教え方で学ばせようとする傾向も強まります。本来であれば、多様な学び方が認められれば教室にいられたはずの子供たちであったとしても、「この子は難しい」「この子は手に負えない」「この子の学びの場はここ(通常の学級)ではない」と、半ば無自覚に排除されるような流れが特別支援学級の在籍児童生徒の増加につながっているのではないかと思わずにはいられません。
教員のストレスへの丁寧な手当て(ケア)や学校現場ならではの仕事のやりがいは置き去りにされたまま、ただ時短だけが求められることが、子供たちに負の影響をもたらすことにつながっていないでしょうか。
「教員の『働き方改革』が、不登校の増加や特別支援学級の在籍児童生徒の増加に影響を与えているのではないか」という視点からの議論がほとんどなされていないのが残念なところです。
③教育機会確保法の施行の優先目標は「安心できる学校づくり」であるはずなのに
2016年に教育機会確保法が成立し、2017年2月に施行されました。これは不登校など様々な理由で十分に義務教育が受けられなかった子供たちに教育の機会を確保するための法律であり、不登校特例校(その後「学びの多様化学校」)の設置などが認められました。この法律をきっかけにして「学校に行かないことは問題行動だ」と不登校を否定的に捉える見方が大きく変化してきました。「登校を促すことだけが解決ではない」という方向性が示されたことも大きかったと思います。
この法律の基本指針において、不登校対策の冒頭に「安心して教育を受けられる魅力ある学校づくり」が掲げられています。つまり、家庭に続く「セカンドプレイス」としての学校の心理的な安心感の検証がまず先にあって、そのうえで、「サードプレイス」としての新たな居場所も確保していきましょう、という方向性が示されています。
子供たちにとって、今の学校の教室の雰囲気や教員の関わり方や振る舞いの改善が急務であったにもかかわらず、それらは置き去りのままです。各自治体が目指したのはむしろ「新たな居場所」の拡充の方向性でした。
これも、②の働き方改革のところで述べた「勤務時間の短縮」と同じで、見えやすいところばかりに光が当たり、結果が明確になりにくい部分は手つかずの状態のままであるということが言えるのではないでしょうか。
④全国学力・学習状況調査は、大人都合の教室内のルールの強化につながっていないか
教室内には、その学校や個々の教員ごとのルールが存在します。2000年にOECD 加盟国が参加する国際的な学習到達度に関する調査(PISA調査)が始まり、2003年に日本の順位が大きく下がる、いわゆる「PISAショック」が起きました。「日本の子供たちの学力低下」として報道等でも大きく取り上げられ、2007年から全国学力・学習状況調査が開始されたのは記憶に新しいところです。本来は「調査」を目的として始められたものが、各都道府県の平均得点がランキング化されるように結果が示される形になり、上位の県の学校では「学級の規律」や「授業のルール」の統一・徹底が行われているようだ……ということから、2010年頃から「授業のルール」「学習のスタンダード」などの取組が全国各地の学校に拡大されています。
ルールもスタンダードも、「一定の質を保つことができる」という意味では大切なものかもしれません。しかし、このやり方だけが「理想」であり、唯一の「正解」であると捉えてしまうと、一つのやり方や考え方を画一的に求めることになります。そして、ルールになじめない学びのスタイルをもつ子供は、「みんなは従うことができている、どうしてあなたはできないのか」と指導される流れも生み出される危険があります。つまり、「ルール」の存在が、子供を「責める道具」と化すことがあり得るわけです。
子供の学びというものはもともと多様であり、学習への参加の仕方にもいろいろなバリエーションがあってよいはずのものです。しかし、こうした大人都合のルールの設置と使われ方が、ここまで述べてきた「働き方改革」がもたらしているのであろう教室内の重く苦しい空気感と絡み合うことで、「そのやり方になじめない」「求められるのがしんどい」子供にとっては、それが認められないという状況につながります。こうなると、子供たちには「教室に入らない」「学校に行かない」という選択肢しか残されていないということになっていきます。
このように、「働き方改革」も含めてさまざまな事象が見えにくいところですべてつながり合い、影響し合って、最終的に子供たちにその問題のしわ寄せが行っているのではないかと考えています。
⑤ #教師のバトンは何をもたらしたか
ここまで述べてきたように、職場の労働環境の改善がなかなか進まない、ストレスの解消ができない、業界全体が「なり手不足」問題に苦しんでいるという状況を考えると、学校教育という業界は、もはや「斜陽化」していると言わざるを得ません。
ある産業が斜陽化・衰退化に向かう場合、その業界全体でブランディングを行う必要性が高まります。名古屋大学の内田良教授によれば、業界のブランディングには、二つの方向性が考えられると言います。「持続可能モデル」と「魅惑モデル」です。
「持続可能モデル」とは、業界全体でマイナス面を1個ずつ減らしていき、 何とか全体を維持しようとする仕組みです。プラスはそれほど多くはないけれども、それでもマイナスは少なくなったので、今はプラスのほうが上回っています、と伝えるような方法だと言えます。
一方の「魅惑モデル」は、マイナス面には手を付けずに、プラスだけをたくさんアピールするというやり方です。この業界はこんなにやりがいがあります、こんな素敵な仕事です、と訴えることで業界のブランディングを高めようとする仕組みのことを言います。
学校教育の業界が本来目指すべきであったのはどちらだったかは自明のことであり、当然「持続可能モデル」を目指すべきだったと誰もが考えるのではないでしょうか。しかし、「持続可能モデル」は採用されず、「魅惑モデル」が常に語られ続けてきました。その最たるものが2021年3月に文部科学省によって始められた「#教師のバトン」プロジェクトだと言えるでしょう。学校現場に今も残るマイナスには一切手をつけず放置されたままの状態で、現役教員にたくさんのプラスを語ってもらうことで、あたかも事態が改善したかのように錯覚される仕組みが今もなお継続しています。現状では「#教師のバトン」は、現場の不満や義憤を吐き出せる場として機能しているように見受けられますが、当初の発端となった目的については看過できません。
このように一つ一つの事象の絡み合いを紐解いていくと、教員個々の「働き方改革」がなかなか根付かない理由が見えてきます。行政が主導する施策の多くは、働き方改革にしても不登校対策にしても、いずれも「目に見えやすい結果が出せるもの」に限定されているように感じます。その影響として、教室に入れない子供たちが増えたり、特別支援学級に追いやられてしまう子供たちが増えたりしているのであれば、本末転倒と言わざるを得ません。効果的な対策のためには、現場のストレスのもととなるものは何かという直接的な声に耳を傾ける姿勢が必要だと思います。
各自治体の教育委員会に検討してほしい三つのこと
「働き方改革」のすべてを文部科学省に期待するよりも、現実的な解決の道筋を各自治体の教育委員会、学校の管理職、教員、それぞれで考えていくことが大切です。それぞれの立場でできることがあるはずです。
「働き方改革」の本来のあり方は、教員が納得できる職場環境を用意し、維持し続け、さらに不満足な部分を見過ごさずに丁寧に手当て(ケア)すること、これに尽きると思います。そのために検討できそうなことを三つ挙げておきます。
そんなこと実現しそうにない、現実離れしていると思われる案かもしれませんが、問題提起だと思っていただきたいです。
一つ目は、4月の始業式や入学式を4月中旬以降にずらすというアイデアです。教員にとって一番多忙なのは4月です。例えば、入学式が4月6日に行われるとすると、5日間しか準備期間がありません。その期間に土日が重なれば、3日間しかありません。これでは「突貫作業」と同じです。スタートから大きくつまずきます。仮に、始業式や入学式が4月20日になったらどうでしょうか。初任者の先生にも無理がないし、異動してきた先生たちは学校になじめます。20日間かけて準備をすればいいわけですから、かなりの余裕ができます。その間に、子供について他の教員と語り合えますし、仕事の引き継ぎ、教材準備や教室環境の整備なども、もっと丁寧にできるはずです。
二つ目は、事務的な手続きを現代に合わせるというアイデアです。授業で購入したい教材は、割と即時的なその場その場の子供たちの様子に合わせて思い浮かびます。数日後までにはそろえたい、手元に届くようにしてほしいと思うことがあったときに、実際、世の中ではそれが可能になってきました。ところが、前年度末までに計画を出していないから購入できないとされたり、年度当初に申請していないから数か月先になるとされたりして、時機を逃してしまうことが多いのです。ネットでの購入はできないなど、指定された買い方しか認められない制約は、まだまだあります。学校裁量や個人裁量で使いたい物がすぐに手に入れば、仕事がスピーディーに進み、労働についての不満の軽減につながりますし、おそらく「教師の自腹問題」もずいぶん解決するでしょう。
三つ目は、管理職に「業務削減」に特化したコンサルタントなどをつけるというアイデアです。「管理職の業務を支援する立場」として「支援員」が入ることはありますが、「今ある仕事は残したまま」が前提になっています。忙しさを解消するという視点では「対症療法」としての意味はあると思いますが、問題の根本的な解決にはつながっていません。今ある業務に対して、第三者的な立場の人から「これはやめてもよいのではないか」「これはアウトソーシングできるだろう」「この点は、人よりもAIを活用したほうがいい」などと助言してもらえるようなコンサルタントが学校に入って、学校内部の人間ではなかなか変えられない部分に思い切って切り込んでいただくというのはどうだろうかと思います。
教育業界におけるAIの活用については賛否両論あるのは承知の上での提案ですが、校内の諸問題のあぶり出しや、何かを削減されることによって起きる様々な影響などを試算してもらえるような活用の仕方であれば問題ないと思います。最終的な判断は人が行うということになるでしょう。
一方で、「教師が考えなくなるシステム」として、AIを活用することについては否定的な立場です。例えば、特別支援教育において「個別の指導計画」の作成が必要ですが、これをAIに委ねると、もっともらしい計画ができ上がる可能性が高いです。しかし、これでは教師の「学ぶ」や「考える」機会は失われていきます。教師自身の学びや子供と向き合うことについての研鑽は、今後も大切にしていきたいと思います。
管理職に期待したいのは「個々の教員の持ち味」を生かしたバランスのよい仕事の配分
続いて、学校の管理職にできることです。どの学校にも働き過ぎてしまう教員がいるのではないかと思いますが、授業研究などをとことん極めたいという人もいます。教員全員を一律に時間だけで管理するような「働き方改革」ではなく、それができる人については、いったんは「やり過ぎた」(「働き過ぎた」)という経験をしてもよいのではないでしょうか。誤解のないように付け加えますが、これは決して過重労働を肯定しているわけではなく、「〇〇し過ぎた」ことで「ちょうどよいレベル」を学ぶという意味合いです。
例えば、小さい子供たちも、友達に対して「言い過ぎちゃった」「やりすぎちゃった」という経験を経て、「言いすぎないようにしよう」「やりすぎないようにしよう」と学んでいきます。「働き過ぎた」をいったん経験することで、「これはいらなかったな」という余分なものに気付くようなこともあると思います。大事なのは、自分でそれを感じ取り、そこから何を学べるかです。
管理職がその部分を見極めながら、職場全員に一律の画一的な働き方を強いるのではなく、「働き過ぎて初めて気付けることがあるかもしれない。でも次は変えられるのではないか」と、加減を学ぶことの効果と弊害を伝えたり、「この部分は先生にとっての伸びしろになったと思うけれど、そこまで求められているわけじゃないから少し肩の力を抜いてね」などと伝えたりすることが大切でしょう。「もっと学びたい」と思っている教師にまで画一的に一律な働き方を求めてしまっていることで、窮屈さを感じさせてしまわないようにしてもらいたいと思います。
その一方で、中には「できないです」「無理です」と言えなくて、他の人がやりたがらない仕事を背負う教員もいます。「若いうちにやっておいたほうがいい」などの言い方で、体よく押し付ける教員もいます。仕事が特定の教員に集中しないように、全体のバランスを見ながら配分し、年度途中であっても、少しずつ介入しながら見守る必要があります。一人の教員が体調を崩して休みに入ってしまうと、周りの教員たちがその人の分の仕事を背負うことになります。常に、誰かに背負わせ過ぎていないか、という視点をもつのは大事なことです。
さらに、「この仕事を今まで続けてきたけれど、負担が大きいので無理してやり続ける必要はない」と即時的に判断することも大切だと思います。個々の教員にしかできない選択と、管理職にしかできない判断の双方をバランスよく、というのが学校の労働環境の改善につながります。教員たちに選択と判断を委ねる部分と、「これは私の判断でやめます」と言える部分、 管理職にはその二つを見極めながら関わっていただきたいと感じます。
「働き方改革」によって教員が奪われたもの
学校の「働き方改革」は「まだまだ」です。しかし、現場に長くいると、この20年以上の年月の間に働き方そのものはいろいろと変化があったと感じます。
例えば、会議一つをとってみても、私が初任者だった頃は夜の20時、21時まで議論していたものです。以前は休憩時間という概念がなくて、休憩時間にも会議が入っていましたし、勤務時間が終わってから始まる会議もありました。その点は改善され、今は会議そのものがなくなりました。仕事を勤務時間内にすべて終えるという意識が高まったと思いますし、実際に早く帰れるようになりました。
その一方で、かつては会議の中で侃々諤々の教育論をぶつけ合う人たちが学校にはたくさんいて、私はその話を聞きながら学んでいた部分もあったように思います。その時間がなくなって時間的にはスリムになった気がしますが、上意下達の連絡事項を中心に物事が進められて、教員が自分たちの意見を言える場は少なくなっていったようにも感じます。「言われたことだけやればいい」というシステムになっていないでしょうか。枠組みを自分たちでつくる、そういった主体性が失われてはいないでしょうか。
また、前述のように教員同士で子供のことを語る機会が少なくなったと感じます。多様な教育観・指導観に触れる場がなく、また子供を理解し合うコミュニケーションが少なくなっていけば、日常的な学びの機会、成長につながるきっかけは間違いなく失われていきます。これからの教育現場では、まさに「自分から学びの機会を創出できる教師」しか生き残れなくなっていくようにも思います。
教員の主体性が軽視されると、「やっつけ」仕事で「言われたことだけやればいい」状態に陥る可能性が高まります。また、子供とのコミュニケーションが十分に取れないまま、ルールが強化され、ますます子供たちを追い詰めてしまう可能性も高まるかもしれません。
それを防ぐためには、教員一人一人が「自分の働き方」を自分事として考えることが大切です。それは授業でも、学級経営でも、子供たちとの対話でも、自分たちで枠組みがつくれる部分をどこかに確保することであるとも言えます。そのためには「自分でコントロールできることは何か」を、教員が真剣に考える必要があります。
自分でコントロールできることは何か
押し付けの「働き方改革」に淡い期待を抱き続けるよりも、自分でコントロールできることを少しでも見つけられれば、 自分らしい働き方を確保できます。
そのための具体的な方法は以下のとおりです。
まずは、自分にとって一番大事なものは何かを明らかにすることから始めます。
私は仕事を、下の図のようなものだと認識しています。
私にとって一番大事なものは、図のAのエリアにあります。本質的な重要度が高く、仕事のデキやクオリティを高めたいものであり、これを「神聖なエリア」と表現しておきます。具体的には学級経営、子供理解、正の変化を引き出す授業などです。
ただ、Aにたどり着くには、Dから始めなければなりません。Dは成果が上がらないし、時間・労力に見合わない仕事なのですが、質を問われないので、とりあえずこなせばいいという仕事のことを言います。その後、Bのマストゾーンに入ります。ここは義務付けられて、やらなくてはいけないことです。Bの中には、子供の正の変化につながることもあるので軽視はできませんが、そうでないマスト仕事もあります。やがてBを通って、最終的に神聖なエリアに到達できるわけです。
つまり、Aにたどり着くために、DとBのゾーンを通るのであり、それをなしにして、いきなりAだけやろうとするのは、どんな仕事でもあり得ないことだと認識しておきます。この捉え方をベースにしておくことで、「名前のつかない教育活動」も大切にしようという感覚が養われるような気がします。
「名前のつかない教育活動」とは、例えば、コピー機に用紙が入っていないときに補充するとか、子供の水筒のふたが外れていてかばんの中が水浸しになり濡れてしまった教科書を干すとか、プリントを印刷するときに他のクラスの分も一緒にしておく……などのことを言います。それらの仕事は、直接的な指導には結びつかないかもしれません。しかし、そういう「名前のつかない」仕事もあるのが学校という場です。これらを私は「名前がつかない教育活動」と呼んでおり、授業や学級経営に結び付かなくても、とても大事な仕事だと思っています。
そのことを理解していないと、文句ばかり言うようになってしまうのではないでしょうか。Aの神聖なエリアの仕事ができないから、「この仕事はつまらない、魅力がない、思っていたイメージと違う」と判断してしまうよりも、そこにたどり着くまでにはいろいろなことがあるという考え方をすると、授業や子供たちのことを考えることを「待ち遠しい」「早くそこにたどり着こう」と考えることもできるのではないかと思います。
残りのCのゾーンは、時間だけは食う、見栄えがよく、誰かの自己満足を満たすための仕事です。これはDに落としてこなすか、「やりません」「できません」と本気で考え、議論してもよいと思うのです。
Aの神聖なエリアに早くたどり着きたいという気持ちを強く保ち、そのためにBのマストゾーンを駆け抜けよう、と考える。そしてそうでないものは「こなす」、あるいは「やめられるのではないかと考える」という具合に、仕事を整理しながら「自分自身がコントロールできる部分を自分で見つけていく」のが自分らしい働き方の実現なのではないかと考えます。
特に、自分が一番コントロールできるのは、Aの部分です。他のエリアの仕事を早く終えれば、 それだけ早くたどり着けます。Aの部分は、今すぐにとことん追求することもできますし、 家庭の事情で今は時間があまり取れないなら、時間ができたら必ずやるぞと後に取っておくような発想も大切です。
仕事の枠組みを自分の中でコントロールできることは、最大の「ストレス・コーピング」だと思います。コントロールできる範囲を認識しながら、本質的に重要度が高くてクオリティの高さを求められる部分を追求していくことを、私は自分の中で「 働き方改革」と呼んでいます。
そうは言っても、もしもこのような考え方を他者から「やりなさい」と押し付けられていたらきっと嫌だっただろうと思います。主体的に取り組むからこそ充実感を感じたり、楽しいと感じたりできます。仕事に取り組むうえで一番大事なのは、主体性であり、枠組みを自分で決められることです。誰かが決めた枠組みに対して不満を感じたときこそ、自分でコントロールできる部分を探していくことに意識を向け直すほうがよいと思います。
働き方改革の成果をどのように評価するか
「働き方改革」は、教員が納得できる職場環境になっていけば終わりというわけではありません。その先にある子供たちに恩恵がもたらされてこその「働き方改革」だと思っています。そのメリットを受けるのは子供たちでなくてはいけないはずです。「働き方改革」の成果は子供たちに評価してもらえるようになるといいなと勝手ながら思っています。
例えば、先生が楽しそう、先生が怖くなくなった、先生たちに笑顔が増えた、先生はよく話を聞いてくれるようになった、授業が楽しくなった、将来、先生になるのを目指してもいいかなと思えるようになった……などの声が子供から聞かれたら、それが本当の「働き方改革」の成果だと思います。
あるいは、教員の家族が評価してもよいのではないでしょうか。「 前はこんなふうだったけれど、今はこうなった」「前はこういう働き方だったけれど、今は家に帰ってからこんなふうに過ごしている」など、家庭での正の変化が見られたかどうかを評価してもらうのです。
私たちにとって、最も身近な人たちが「先生たちの働き方ってそんなに苦しくなさそうだよね」と言ってくれるようになることをひとまずの「目指すべきところ」にすれば、手の届くところ、目の前のことを現実的な課題として考えられるようになると思うのです。
そして、最終的には、この「働き方改革」を進めた先に、教員のなり手(就労希望者)が増えるかどうかがポイントです。現状では、社会から「学校の『働き方改革』はうまくいってない」と思われている実態があります。この社会の評価を今後変えていけるかどうかが問われています。
インタビュー・文/林孝美 イラスト/池和子(イラストメーカーズ)