「障害をもった子供に、作業や訓練をさせるのではなく、生活の質を上げる」 【授業づくり&学級づくり「若いころに学んだこと・得たこと」第25回】

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授業づくり&学級づくり「若いころに学んだこと・得たこと」

現在、日本生活科・総合的学習教育学会の会長である、田村学教授(國學院大學)をはじめ、何人もの専門家が総合的な学習の時間(以下、総合学習)の授業の名手として名前を挙げるのが現在、西東京市教育委員会教育部主幹の三田大樹先生です。三田先生は、若手時代からどんなことを学び、身に付け、どのようにして総合学習の道に進んだのでしょうか。まず教員の道を選んだ大学時代から初任校の頃までのお話を聞いていきます。

三田大樹主幹

「よく子供を見ている」ことを評価してもらえた

私は大学4年生のある時期まで、教員になろうとは思わずに過ごしました。3年生の夏休みには地元の小学校でプール指導員をしましたが、それは特に教育に燃えていたからというわけではありません。一応、教員免許は取得しておこうと思っていたため、4年になったときに地元(東京都内)で教育実習に行くための学校との関係づくりが目的でした。ただ、実際に教育実習に行って、その気持ちが大きく変わり、「教員になりたい!」と強く思うようになりました。

私が実習に行った地元の小学校は、本当に教育に熱い先生たちばかりだったのです。ある先生は、教科書の一文を読んで、「表現に問題がある所もあって、出版社に抗議したくなることがある」と言っておられ、「教科書は正しいものだ」と思っていた当時の私は驚きました。また別の先生は通知表について、「子供を育てるために評価は必要だけれど、本当は数値評価はしたくないんだよね」と言っておられました。あるクラスでは整然と授業が進められている一方で、隣のクラスでは「今は、子供の思いを吐き出させるときだ」と言って、子供たちに好き勝手にやらせているなど、考え方も多種多様でした。先生方はこのように日々、教育について真剣に考え、語り、実践しておられ、その内容は今求められる教育にもつながるものがありました。ごく普通の地元の公立小学校でしたが、「こうやって、教育ってつくられていくんだな」と感銘を受けたのです。

それに加えて、学生である自分に対しても一人の大人として扱ってくれたことも大きかったと思います。先のような熱心な先生方が指導の対象としてではなく、子供を育てる仲間の一人として相対してくれたのがとても嬉しかったのです。その上で指導教官の先生から、「あなたはセンスがあるから、今のその感覚を忘れないで」と言われたのは励みになりました。その意味は、はっきりとは分かりませんが、特段教材研究が優れているとか、授業がうまかったというわけではないので、「よく子供を見ている」ことを評価してくださったのではないかと思います。子供の姿を見て、「この子は悲しそうだ。何かあったかな?」とか、「この子は表には出さないけど嬉しそうだ」などと見とって対応を図ることは、当時からできていたように思います。それは、子供たちだけではなく、大人である先輩の先生方に対してもきっと同じだったと思います。「気を遣いすぎてはいないか?」と指導教官から心配されたことがありましたから。

教育実習で出会った熱心な先生方に感銘を受け、教師になることを志したという三田先生。総合学習の授業中に子供たちの考えを熱心に聞き取っている。

そんな教育実習を通して「教員になろう!」と決意したのですが、すでに4年次の秋、教員採用試験の不合格通知を受けた後のことでした。「教育実習まで教員になる気がなかったのに、試験を受けていたの?」と思われる方もいるかもしれませんが、「(採用試験を受けない=)教員になる気もないのに、教育実習を受けに来たのか」と思われては困ると思い、とりあえず受験だけはしていたのです。ただ、当時の東京都の採用者数は近年とは1桁違っていましたし、採用の倍率も2桁あった時期でしたから、当然、そんな軽い気持ちで試験に合格するわけもありません。

教員を志した時点で浪人が決まっていたわけですが、何もせずに受験浪人ができる時代でもなく、何か仕事を探す必要がありました。そんなタイミングで、実習時の指導教官が春から病欠されることになり、「私のクラスを任せられるのはあなたしかいない」と声をかけてくださったのです。それで翌年は講師として実習時の学校で担任をもちながら、採用試験の受験準備もしているような状況でした。やがて、指導教官の先生は2学期の途中には快癒されて担任に戻られたのですが、私はその間、時間講師をさせていただきながら採用試験に合格し、翌年4月から東京都で教員になることができたのです。

「自分は自分らしくあり、一人の人として子供たちと接したい」

私の教員1年目は、杉並区の特別支援学級からスタートしました。実は、採用面接時に希望を聞かれたとき、私は特別支援学級を希望したのです。それは何か崇高な思いがあったからというわけではなく、包み隠さず言えば、いきなり大人数の学級の担任をもつことが不安だったからです。初任の私が、教育実習や講師時に同職したような力のある先生方と同じ立場で渡り合うことが、「おこがましい」という気持ちがありました。

一方で、障害をもっている子供たちに対する不安はまったく感じておらず、むしろ何らかの貢献ができるのではないかという自信をもっていました。一人一人の子に応じて(個に応じて)様々に対応することなら、自分の持ち味を発揮できそうだと思っていたのです。それは私の地元が、小学校時代から通常学級の中で、障害をもった子も一緒に学習する時間が多い自治体だったことが大きいと思います。そのため、私は障害をもった子に対して、抵抗もないかわりに遠慮もなかったのです。必要に応じてお世話もしたけれど、嫌なことをされれば厳しいことを言い返したり、ときには手を出したりしていたかもしれません。本当に遠慮のない友達の一人として付き合いながら育ちました。ですから、特別支援学級の担任になることにはまったく抵抗を感じなかったのです。

ちなみに私が最初に担任になった特別支援学級は、知的障害と自閉の子供たちの学級でした。そこで主任の先生が最初に私に言われたのは、「あなたはこの学級をどうするの?」ということでした。それで、「ああ、まず自分が考えなければいけないんだな」と強く実感しました。逆に、私が最初に主任の先生に言った(と後に先生から言われた)のは、「ここでは私はジャージを着なきゃいけないんですか?」ということだったそうです。私は、「その日に着たい服を着て、子供に接したい」「自分は自分らしくあり、一人の人として子供たちと接したい」という意味で言ったのですが、それを聞いた主任は、「この子は使える」と思ったのだそうです。この頃、この先生から教えてもらったのがクオリティ・オブ・ライフということでした。「障害をもった子供たちに、作業や訓練をさせるのではなく、生活の質を上げるのだ」ということを、この主任の先生に叩き込んでもらったのです。

私自身も、子供たち一人一人を1個の人間として、子に応じた(個に応じた)教育をやろうと思っていましたから、子がやっていることを観察しながら、「何でこんなことしているんだ」ではなく、「おもしろい。こんなことをやるんだ」と思って見ていました。例えば、遠足で山に登っている最中、木に向かってつまずいた子がいたのです。周囲より3センチメートルばかり高く出ていた木の根につまずいたのですが、その子は木に向かって攻撃をします。その木の根が、その子に攻撃をしかけてきたというわけです。そこで木に文句を言い、攻撃し続ける子供を、遠足の他の子から遅れるし、まずいからと言って引っ張っていくのも先生としての一つの対応ですよね。ただ、私は攻撃するその子には、「きっとこういう世界が見えているんだな」とイメージできたので、とてもおもしろいなと思い、一緒に木と戦いました。「A(その子の名前)、僕が戦うから僕に任せろ」と言って、木を攻撃する真似をすると、あっという間に落ち着いたのです。

子供の内面を考えて寄り添うことが大事

総合学習の時間中に、子供たちに対話を任せ、若手の頃には苦手だったという思考を深めていけるような板書(次回以降で紹介)を整理していく三田先生。

特別支援学級では、子供の実態や認知の特性に応じて対応を考えていくことが必要なように、カリキュラムも個に応じて考え、つくって実践していかなければなりません。それは、私の性格にも合っていたし、後の総合学習の実践や、今求められているカリキュラム・マネジメントにつながっていると思います。

ちなみに当時、主任の先生が熱心に取り組んでおられたのは音楽療法で、音楽を使って子供たちの楽しいという感情を動かし、思考力や表現力を育んでいくような取組をされていました。私は、ムーブメント教育というのを勉強して取り入れていました。当時、横浜国立大学にいらした小林芳文先生(現・同大学名誉教授)が、中心に取り組まれていた教育で、人が生まれながらにもっている「動きたい」という行動特性を生かした取組です。私は音楽をかけ、道具も使って子供が動きたくなるような工夫をして実践していました。これも後に、総合学習の実践をする上で大事にしてきたことにもつながりますが、まず「楽しい」「~したい」という情動によって、子供が自ら動かなければ意味がないと思っていたのです。

そのような先進的な研究実践を取り入れるだけでなく、子供一人一人の個性や認知の特性に応じて、自分なりにカリキュラムをつくって実施していました。子供の実態に応じて、脚本を書いて演劇をやったこともありましたが、それは理論的にというよりも、その子から感じ取ったものを基に、こうしたらおもしろいだろうと考え、どこか感覚的にやっていたと思います。そのように子供の実態から、カリキュラムを工夫して実践することは、私の性格に合っていることもあったのだと思います。

もちろん、子供によって対応の仕方、カリキュラムの工夫の仕方は様々ですが、まずはその子の内面を考えて寄り添うことが大事なのだと思います。ただし、全面的に子供に寄り添うと自分らしさがなくなるので、不都合が起きることもあります。実際に、いつも子供の言う通りにしていて、子供に手を出されている先生もいましたからね。それは「子供に寄り添う」と言いながら、実はただ子供の言う通りにしているだけで、教員の側が考えていないことが問題なのだろうと思います。こうした場面に限らず、「こういう子にはこんな特性がある」と言われると、目の前の子供を見て考えるのをやめて、ただ示された知見通りに接する人もいます。そのように、思考停止をしてしまうことが何よりも問題なのだと思います。

それは、特別支援に限った問題ではなく、教育のあらゆる場面で共通することではないでしょうか。常に子供を見て、子供に共感しつつ、教員は最大限できることを考えて準備を行った上で、「ここから先は、学ぶ本人以外は介入できない」ということを子供に任せていくことが大事なのだと思います。

今回は、三田先生が教員の道を選び、初任校の特別支援学級で個に応じた指導やカリキュラムづくりに取り組んだことを紹介しました。次回は、2校目で総合学習の実践に取り組み始めたことなどを紹介していきます。

【授業づくり&学級づくり「若いころに学んだこと・得たこと」】次回は、9月15日公開予定です。

執筆/教育ジャーナリスト・矢ノ浦勝之

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