「まっかな秋」に導かれた教員への道【玄海東小のキセキ 第3幕】

連載
玄海東小のキセキ
「まっかな秋」に導かれた教員への道【玄海東小のキセキ 第3幕】

脇田哲郎は、どのようにして教員の道へ進んだのでしょうか。そこには、教員だった父親の影響がありました。無口な父はどんな言葉を息子に語りかけたのか。鹿児島県生まれの脇田が、なぜ福岡県で教員となったのか。脇田の子供時代や学生時代を振り返り、脇田の教育観を育んだ背景を探ります。

「弱い人を大切に」と諭した父

鹿児島県立加治木高校時代の脇田先生(後列右)。母校の先輩に作家の海音寺潮五郎がいる。
鹿児島県立加治木高校時代の脇田先生(後列右)。母校の先輩に作家の海音寺潮五郎がいる。

2011年2月6日、脇田の父の脇田栄一が亡くなった。享年96歳。栄一は故郷を離れることを嫌がり、鹿児島の姶良(あいら)市内にある実家で妻とふたり暮らしを続けていた。脳梗塞で倒れると、妻が不自由な体の栄一の面倒を見ていた。

その通夜の晩のこと。高校生くらいだろうか。父親に付き添われた女の子が通夜の席に座り、焼香を待っていた。

「あの子は誰やろか」

親戚の子ではない。さりとて教師であった栄一の教え子でもなかった。教え子ならば年齢はもっと高いはずだ。脇田は町内の子供だろうかと思いつつ、どちら様ですかと尋ねた。

「中学生のとき、おじいさんに私の悩みを聞いてもらったのです」

女の子は小さな声だが、はっきりとした声でそう答えた。実家の前の道が中学校に通う通学路だった。栄一は玄関先の門扉の前に椅子を置き、そこに座っていたというのである。

目の前を通り過ぎるその女の子に声をかけたのが始まりで、栄一は女の子と話をする間柄になった。

「私は友達のことで悩んでいました。おじいさんに声をかけてもらい、自分の悩みを相談することができたおかげで、元気が戻ったんです。それから家の前を通るたびに会話をするようになりました」

礼を述べて帰っていくその親子を見送りながら、「親父は根っからの教育者だったんだな」と脇田は思った。教育者だからこそ、その女の子がきつい思いや寂しさを抱えていることが栄一にはわかり、放っておけなかったのだ。地位を笠に着るような人間が大嫌いだった一方で、弱い人間にはとてもやさしかった。

脇田が中学3年生のとき、毎朝、「わきたくーん」と迎えに来るふたりの友達がいた。彼らは、いまでいう特別支援学級の子だった。それを見ていた栄一がわざわざ脇田を傍に呼んで声をかけた。

「弱い立場の人を大事にせないかんぞ」

その父の言葉が通夜の席にいる脇田の脳裏に甦った。悲しみに沈んでいた心にうれしい気持ちがじんわりと広がり、親父の背中を追いかけてきてよかったと思った。

脇田は鹿児島県出身。両親と姉と妹の5人家族の家庭で育った。父親の栄一は代用教員から正規の教員になった苦労人で、どちらかといえば、自分の子供たちをかまうというよりも、放っておくタイプだった。

脇田が幼稚園のときだ。幼稚園の隣に父が勤務する小学校があった。ある日、園庭で遊んでいた脇田が校舎のほうを見やると、教室に栄一が授業をしているではないか。偶然、父と目が合った。お父さんだと脇田が思ったとき、挨拶するでも声をかけるでもなく、栄一は一瞥(いちべつ)をくれただけだった。

栄一が遊んでくれなかったわけではない。栄一が種子島にある小学校に赴任していたころは、夏休みになると、小学生だった脇田とよく遊んでくれた。1年生のある日、脇田が泳げないと知った栄一は、泳ぎを教えてやろうと海に誘った。そこには岩場があり、子供たちがそこから海に繰り返し飛び込んで、わいわいと嬌声を上げて遊ぶような遊び場がある。脇田がその様子をぼんやり眺めていると、いきなり栄一に海に投げ入れられた。必死でもがき、やっとの思いで海から岸に這い上がると、「それが泳ぎを覚える方法なのだ」と栄一は平然として脇田に言った。確かに栄一の言う通り、クラスで一番泳ぎがうまくなった。

種子島の小学校にいたころはまだ、ちゃぶ台を囲んで家族は食事をしていた。夕飯になると、栄一は晩酌をするのが習慣だった。

ある日のこと。寡黙な栄一が珍しく能弁になったことがあった。なぜ脇田がそれを記憶しているかというと、叱るときくらいしか子供たちと話さない栄一が話をしたことに加えて、夕飯のおかずがモハミの刺身だったからだ。モハミは一般にブダイといわれる魚のことで家族の大好物だった。いつも親父の刺身の量が多いな、と食卓を眺めていたら、栄一が語り始めた。

「父ちゃんはプロ意識を見させてもらったことがある」

家族は何事かと栄一を見つめた。

勤務する小学校で校内研究会が開催された日のこと。校内研究会の途中で病院から校長に妻危篤の知らせが入った。その事務員の連絡に校内研究会の面々は驚いたが、校長はこう言い放った。

「校内研究会が終わってから病院に駆けつけます」

校長の奥さんが入院中であることを知る人は、誰もいなかった。夫である校長だけが、妻の病状が切迫していたことを知っていた。

「これがプロ意識ぞ」と栄一はしきりに感心した。「教師の仕事は真剣勝負なんだな」と脇田は思った。その思いと幼稚園の園庭から見た父の顔がつながった。

栄一は何度も離島の小学校に赴任した。脇田が高校生になると、両親は赴任先の離島に住み、子供は本土にある自宅で生活したので、離れ離れに暮らすことが多かった。少年時代の脇田にとって父親は遠い存在だった。

そんな栄一が、脇田が高校3年生になると積極的に話しかけてくるようになった。1学期が始まったころだ。栄一は屋久島の小学校に校長として勤務し、校長会があるために自宅に泊まったことがあった。

その翌朝、脇田は屋久島に戻る栄一を駅まで送った。道すがら黙って歩いていると、栄一が声をかけた。

「将来、どうすっとか」

そう問われてから「そうだ、どうしようか」と脇田は思った。剣道に打ち込んでいた高校時代だった。返事に窮する息子に構わず、栄一は語気強く語り続けた。

「教員はいいぞ。教育は奥が深くて、いまだにわからん」

栄一の顔が温かくほころんでいた。「わからないからいいんだ」という言い方が親父らしかった。

すぐに脇田は親友に相談した。親父から将来のことを聞かれて困ったという話をすると、親友は意外な情報をくれた。

「脇田は剣道3段を持っているから、鹿大(かだい)がいいんじゃなかか」

「なんで?」

「実技を受けるなら、数学を受けんでよか」

鹿児島大学のことを鹿大と地元の人は呼ぶ。当時の試験科目では、数学の試験と実技試験が選択制で、実技試験の内容は剣道、バレーボール、サッカーなどからひとつの実技を選んで考査されることになっていた。

数学は不得意ではなかったが、剣道3段で臨んだほうが大学入試を通るには有利と判断した。鹿大は自分のためにあると脇田は思った。

脇田は無事に鹿児島大学教育学部に進んだ。漠然とだが、教師になるなら高校の体育の先生になろうと考えていた。

ところが、一家を揺るがす出来事が大学3年生の終わりに起きた。当時、本土の小学校の校長をしていた栄一が帰宅するなり、こう家族に宣言したのだ。

「今日、学校を辞めてきた。これから毎月の給料はない。哲郎、大学に行くのも止めるのもおまえの自由だ。学生生活を続けたいのであれば、自分で働いて大学に行ってくれ」

病弱な妹は「4月から専門学校に行くのに、どうするの」と泣きべそをかいたが、幼稚園教諭になっていた姉が、「私が学費の面倒をみるから」ととりなした。結局、母親をはじめ家族は「お父さんがそう決めたのであれば仕方ない」と受け入れた。

栄一は辞職した理由を語らなかった。たとえ家族が聞いたとしても、理由を語るような父親ではない。なぜ父は学校を辞めたのか。脇田はそれを知りたかった。

母が伝手をたどってその理由を探ると、その経緯がわかった。

先立って栄一は町の大きな小学校の校長から田舎の小さな小学校の校長に異動になっていた。家族はいつもの転勤だと気にもしないでいたが、そうではなかった。どうやら栄一は上司に意見を述べたのがもとで、異動させられたらしい。

そこへ自分の学校の教員が児童を叩いてしまうという事態が発生する。その教員への叱責で終わらそうと庇う栄一と、処分を科そうとする教育委員会は対立した。その対立の果てに栄一は、教員を処分する代わりに、自分が責任をとるといって辞めたのだった。教育委員会に盾突いたことになるかもしれないが、自分に正直な親父らしい行動だと、それを聞いた脇田は思った。

この出来事が脇田の背中を押した。自分で工事現場のアルバイトをしながら大学を卒業し、高校の体育教師を目指した。

女子生徒の胸についた手形

子供たちの純粋さに教育実習生の脇田は魅了された。

ところが、大学4年生になると、さらに意外な事情が脇田の進路を変えた。その年の1972年には、鹿児島県で第27回国民体育大会が開催された。県は中学や高校の保健体育の臨時教員が多く採用し、国体に出場する選手を確保した。それが影響してか、鹿児島県教育委員会は保健体育の教員を新たに募集しないことがわかったのだ。

突然、自分の行く手が閉ざされてしまった。脇田は高校の体育教師の道を諦めざるをえなかった。そこで小学校の教員に切り替え、福岡県の教員採用試験を受験することにした。生まれ育った鹿児島でなく、福岡の地で教員となったのは、こうした背景があった。


1972年10月、教育実習の機会がやって来た。配属先の小学校で担当したのは、4年生のクラスだった。

教育実習の最後の日に、脇田は授業の感想をクラスの子供たちに聞いた。そうすると、算数の授業がおもしろかったと子供たちは答えた。

「校庭で10メートルの線を引いたので、どのくらいの広さか、よくわかりました」

1アールの面積を学習する授業だった。「まず校庭に集合!」と脇田は子供たちに号令をかけた。そして、校庭に10メートル四方を子供の足で線を引かせた。10メートルという距離を実感させたかったからだ。その線に白線を引くと、白い正方形が浮かび上がった。それが子供たちの印象に残ったのだろう。

その最後の日はそれで終わりではなかった。脇田は子供たちに目を見開いた。子供たちがお別れ会をしてくれたのだ。会場の飾りつけや司会などすべてを子供たちがとりしきり、メーンイベントでは、女の子が「まっかな秋」を独唱した。

「先生のために歌を歌います」

そう宣言して始められた歌声は、澄んだきれいな声だった。独唱した子も彼女を取り囲む子供たちも真剣な眼差しをしていた。

「先生と別れるのは寂しい」

歌い終わると、何人もの子供が脇田に駆け寄り、泣いてくれた。担任が子供たちにお別れ会をしてみないか、と指示したのではない。子供たちがそうしたいから開いてくれたのだと知った。

「なんて純粋な世界なのだろう。小学生でもここまでできるのか」

楽しいひとときに浸りながら脇田は、ふと高校2年生の文化祭のことを思い出した。当時の脇田のあだ名は「級長」。小学6年生のときには児童会長、中学校のときには生徒会長や学級委員をしていたことから、その名がついた。

文化祭の出し物についてアイデアを募ると、クラスのみんながお化け屋敷をやりたいと言い出した。

「どうせやるなら、本格的にやろうぜ」

級長がそう言うと、みんなが「よし!」とまとまった。結束力の強いクラスで、生徒と一緒に遊ぶタイプの担任も乗り気になった。

お化け屋敷が完成に近づいたころ、クラスの男子が「これで成功間違いなし」と言いながら重い石を運んで来た。お化けの衣装をつくっていた女子が「苔がついてる。どこから拾って来たの?」と聞くと、その男子は「ふふふ、無縁仏の石」と答えた。

女子たちは一斉に引いたが、男子らには大笑いが起きた。入場するお客さんが無縁仏の石を触ってから入場するしくみにした。

お化け屋敷には長蛇の列ができた。本格的なお化け屋敷だから本当に暗い。天井からぶら下げたこんにゃくが不意に当たるたびに悲鳴が聞かれ、水に濡らした手が体に触れるたびに奇声が上がった。一番人気の出し物となった。

しかし、話はそこで終わらない。

「これ、何?」

手形の跡が、ひとりの女子の胸についていたから大騒ぎになった。お化け役は赤い絵の具で血糊をつけている。その赤い色が濡れた手ににじんだのだろう。白の体操着に赤い手形の跡は目立った。お化け役には担任を含めて何人もいたので、誰がつけたかはわからない。クラスの男子は担任が怪しいと睨んだが、女子は男子のなかに犯人がいると思った。女子だけが集まる集会が開かれた。級長がその場で謝罪することで決着が着いた。責任をとらされる格好となったが、不思議な高揚感に包まれた。

「昔からおれはみんなで楽しむことが好きだった」

脇田はお別れ会を開いてくれた子供たちの姿に昔の自分を見ていた。独唱の歌声は小学校教員に必要な科目の単位をとることに忙殺されていた脇田の心に沁みた。

高校の体育教師になる未練はもうない。教育実習で出会った子供たちのおかげで心境が定まった瞬間だった。

そして、小学校教師1年目の脇田は、学級づくりのために先輩に勧められたあることに夢中になる。

ライター/高瀬康志 イラスト/菅原清貴 ※文中の敬称は省略させていただきました。

学校の先生に役立つ情報を毎日配信中!

クリックして最新記事をチェック!
連載
玄海東小のキセキ

教師の学びの記事一覧

雑誌『教育技術』各誌は刊行終了しました