日本社会がギフテッドを受容するための課題とは【ギフテッドシンポジウム in 鹿児島 #1】
ギフテッドとは、「高い知的能力を持ち、さまざまな潜在的可能性を秘めた、配慮や支援が必要な子ども」です。必要なサポートが受けられず、不登校になる子もいます。ギフテッド支援の最前線にいる研究者、教育実践家、保護者団体の代表が一堂に会した「ギフテッドシンポジウム」の様子を5回シリーズでお届けします。
シンポジウムは、2022年3月6日(日) 鹿児島県霧島市で開催され、Youtube生配信(この記事の最後に無料配信アーカイブあり)も行われました。基調講演は、北海道大学名誉教授の室橋春光先生です。
取材・執筆/楢戸ひかる
目次
文部科学省の有識者会議で話し合われていること
室橋先生の講演は、「ギフティッドあるいは特定分野で特異な才能のある子供について」というタイトルで、文部科学省で令和3年7月から始まった「特定分野に特異な才能のある児童生徒に対する学校における指導・支援の在り方等に対する有識者会議」で、話し合われている内容の整理から始まりました。
特定分野で特異な才能のある子供の定義は、こんな感じです。
定義
・概ねの傾向 IQなどによる一律の基準を設けず、大綱的な定義が多い。
・知能検査や認知能力検査、学力テストなどが活用されているが、教師や本人の質問紙やチェックリストなどを包括的に活用する例もある。
・才能全般的な特徴=「普通より優れた能力」+「創造性」+「課題への傾倒」。
特性
・強い好奇心や感受性、豊かな想像力、高い身体的活動性、過敏な五感など、機能間の発達水準に偏り、これらの特性に伴う困難を抱える。
・Twice-exception:2Eの存在。
(室橋先生発表資料より筆者抜粋)
有識者会議のアンケートからは、子どもたちのリアルな困難感が見えてきます。
学習に関する困難
・書く速度の遅さと脳内の処理速度が釣り合わず、プリント学習にストレスを感じていた。
・発言をすると、授業の雰囲気を壊してしまい、申し訳なく感じてしまうので、わからないふりをしていたが、それも苦痛で、授業中に自分を見出すことができなかった。
・授業がつまらないため、登校しぶり、不登校になった。
学校生活に関する状況
・早熟な知能に対して情緒の発達が遅く感情のコントロールが未熟なので、些細な事で怒られてしまったり泣けてしまったり、他の児童と言い合いになったりしてしまう 。
・学校の友達と話すとき、言葉を簡単にしなければ、話が通じ合わない。
音に敏感で通常の学校生活をおくる事が困難。
・感覚過敏のため、給食をほとんど食べることができない。
効果的な取り組み
・自己肯定感が低いので、自信をつけさせる声がけをしていただいたことが有効だった。
・ICTの活用、児童生徒の特性に応じた口述・筆記を選択できるようにして、読み書きなど学習上の困難への支援が効果的だった 。
・ 支え合う友人関係の構築や教師間の情報共有、スクールカウンセラー・養護教諭、学校司書などによる支援によって、学校生活を円滑におくる事ができた 。
(室橋先生発表資料より筆者抜粋)
子どもたちのサポートは当然として、室橋先生がとりわけ強調されていたのは、保護者サポートの必要性です。
児童生徒だけでなく、保護者も様々な悩みを抱えている。保護者へのサポートをいかにおこなっていくかという点もしっかりと視野に入れる必要がある。
文部科学省の会議では、諸外国の状況についても報告があります。
諸外国の状況から
1950年代より始まったギフテッド教育は、アメリカが先進国です。アメリカでは当初、国家がギフテッドの子を取り出して教育する「国家中心的」な教育を行っていましたが、最近は学習者に沿って進める「学習者中心」の教育に変化しています。
フィンランドでは、「学習者中心」かつ「インクルーシブ型」ですが、個々の教師の裁量に任されているので、体系的とは言えないようです。韓国、シンガポール、中国は、「国家中心的」で「取り出し型」の教育で、韓国には、「英才教育促進法」という法律もあります。
(室橋先生発表資料より筆者抜粋)
ギフテッドのキリスト教における理解
文部科学省で議論されていることを踏まえた上で、「ギフテッドという概念」を日本で受容するための課題は、どんなことがあるのでしょうか?
室橋先生の提言は、「日本におけるgiftedという語の受容と課題」(小林茂 2021札幌学院大学心理学紀要)という論文の引用から始まりました。
論文では、「ギフテッドが持つ社会文化的背景を抜きにして、日本でギフテッドとされる人びとがギフテッドという語の概念と同一化はできないのではないか?」と述べられています。ギフテッドが持つ社会的文化的背景とは、キリスト教における理解です。
西洋では、宗教改革以降、ギフテッドが持つ「ギフト」は個人に与えられた恵みというだけでなく、社会の中で生かし、社会の中に還元されるものとしての理解が広がりました。
「ギフト」が、ありがた迷惑になる可能性もある⁉
キリスト教が広く浸透している欧米では、ギフテッドが受容されやすい土壌があります。一方で、日本ではキリスト教的な文化的背景が強くはないので、こんな心配が浮かびます。
日本は、「ギフテッドを社会で支える」という発想が弱いのではないか?
そうなると、「ギフテッド」という言葉が、ある種のカテゴライズと個人の特性化にともなうラベリングに留まってしまわないか? という危惧もでてきます。
ギフトがすぐさま社会的な評価とマッチすればラッキーですが、現実としては、「ギフト」と社会からの「評価」がマッチしない「ズレ」の中に生きている人もいます。
室橋先生は「日本におけるgiftedという語の受容と課題」の論文を引用しながら、こんなふうに警笛を鳴らしています。
社会からの承認、受容なしに、才能が独り歩きしてしまうと、才能を与えてもらったけれども、それが有難迷惑になってしまう人も出てくるのではないか ?
「社会の受容」と「本人の自己理解」の両輪が必要
ここまでの話を整理すると、「自分の持つギフト(才能)」と、「日本の社会との評価」を、どのように自己同一化するのか? が、「ギフテッドという概念」を日本で受容するための課題だということです。
ここで、考えるべき事柄は、大きく二つあります。
一つ目は、社会が、ギフテッドをどのように受容していくかという課題。それは、つまり、ギフテッドの生きづらさを、社会としてどう解消していくかを考えることが大切で、社会の理解が進んでいくことが必要です。
二つ目は、ギフテッド自身が、自分の特性をよく知るための自己理解をどう進めるのかという課題。自分の特性としての「ギフト」を社会との関わりの中で、どう生かしていくのか? を、ギフテッド自身もしっかりと考えていくことが大切です。
これらの課題に対して、室橋先生は、こんな見解です。
ギフテッドの人達は、こういったことを考える力を充分持っている。当事者同士で議論をすることによって、自己理解、社会との関わりを深めていくことも、今後はとても大切です。
シンポジウムの模様は、アーカイブをご覧いただけます。
動画はこちら
室橋春光(むろはし・はるみつ)
北海道大学名誉教授 (教育学博士)。北海道大学では発達に偏りがある子どもの学習・余暇支援活動をしていた「北海道大学土曜教室」を率いていた。臨床での 積極的かつ精力的な支援活動には定評があり、室橋研究室からは発達に偏りがある子を支援する教員、教育実践家、研究者が数多く巣立っている。
「ギフテッドシンポジウム in 鹿児島」レポート記事(全5回)
「ギフテッドシンポジウム in 鹿児島」レポート記事(全5回)
第2回 ギフテッドと発達障害を見分けるポイント
第3回 ギフテッドの特徴「過度激動」を理解するポイント
第4回 ギフテッドが直面する課題 ~保護者団体代表が息子の育ちを振り返る