北崎先生のネイチャー教室【玄海東小のキセキ 第9幕】
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脇田校長は問題の4年生担任を、前年度のメンバーではなく、ともに異動してきたベテランの女性教諭に任せた。ところが、4月末になって、その担任は脇田に「担任を続けるのは無理」と告げる。急ぎ臨時保護者会を開いた脇田は担任の交代を発表し、新たな担任には教務主任の北崎が就いた。北崎は子供たちを近所のさつき松原海岸に連れ出し、子供との関係を築いていく。
目次
誰もやりたがらない4年生担任
2009年4月1日、玄海東小学校の新任校長となった脇田哲郎は、職員に向けて新しい学校運営要綱の発表を終えると、担任の割り振りを詰めなければならなかった。玄海東小学校に新しく赴任した教員や、休職から復帰する教員がいるので、どの学年の担任を受け持ってもらえるかを面談して決める必要があったからだ。
教務主任に決まった北崎正則との打ち合わせがすむと、北崎と入れ替わるように、「校長先生、ちょっとお話が……」と女性教諭の声がした。脇田は校長室の扉を開放していたので、その入口のところに、ショートヘアできりっとした顔立ちをした、グレーのパンツスーツ姿の女性教諭が立っていた。
「ああ、先生」
ちょうどよかったと思いながら、脇田はデスクから立ち上がって小走りに入口まで駆け寄り、笑顔で出迎えた。病気休職から復帰した教員がその女性教諭だった。昨年度、最も荒れていた3年生を担任していたが、途中で病気休業届けを出して休職していた。
脇田に促されたその女性教諭は応接ソファに座った。脇田のほうを見ることなく、うつむき加減にしている。
「また一緒に働くことになりましたね」
その女性教諭は脇田が教頭をしていたときの同僚だった。脇田と同い年ということもあって、気心が知れていた。やんちゃな高学年の男の子に対して厳しく指導することができる優秀な教員だった。厳しいといってもねちねちと指導するわけではない。さばさばとしていて、いつも快活な印象を脇田は持っていた。しかし、目の前の彼女には、その雰囲気が消えていた。
「あのクラスが荒れたのは、私のせいです。申し訳ありません」
脇田に向かって、彼女は思い切るように言葉を吐き出した。病気とはいえ担任を続けられなかったことに引け目を感じているようだった。
彼女は自信をなくしていると脇田は感じた。玄海東小学校でもこれまでの自分のやり方で乗り切ることができると思っていたのに、それが通用しなかったことはショックであったに違いない。
「先生、もう終わったことです。私が責任をとりますから、思い切ってやってください」
脇田の返答にその女性教諭のこわばった表情が少し緩んだ。脇田は話題を変えた。
「何年生を受け持っていただけますか」
彼女には気持ちを切り替えて、前を向いてほしかった。
「5年生でお願いします」
元気な彼女が戻ってきた。復職したばかりだ。自信を持ってやれる学年を担当してもらうほうがいい。教員には明るい気分で始業式を迎えてもらいたかった。
「心機一転、職員全員で歩調を合わせてやりましょう」
脇田の目を見て、「やります」ときっぱり彼女は答えた。
今年度、問題の3年生は4年生になる。玄海東小学校は異動希望ゼロの学校だった。留任した教員は、いずれも担任の持ち上がりを希望していた。例えば、昨年度に1年生の担任をした者は、今年度に2年生の担任を希望しているということである。昨年度に3年生の担任であった非常勤講師は退職したから空席になっていた。
4年生の担任を誰に任せるか。これは頭の痛い問題だった。4年生の子供たちには愛情を注いでやりたいと脇田は考えていた。しかし、誰も4年生の担任をやりたがらない。学校経営要綱を作成する傍ら、脇田はずっとそのことを考え続けていた。
脇田とともに異動してきた教員のなかにベテランの女性教諭がいた。しかも、その女性教諭も脇田の教頭時代の同僚だから実力はわかっている。やさしい人柄で低学年を受け持つことが多く、いつも子供の目線で子供たちと接する、お母さんのような先生だった。脇田はその女性教諭が適任だと考えた。
脇田はその女性教諭を校長室に呼んだ。校長室の入口で、ベージュのスカートスーツを身につけた女性教諭が「お久しぶりです」と脇田に声をかけた。
「よくぞ玄海東小学校においでくださいました」
脇田は笑みを浮かべながら校長室の応接ソファへと迎え入れると、すぐに脇田はその女性教諭に担任の件を持ちかけた。
「非常に困難なクラスですが、4年生の担任になっていただけませんか」
脇田はこれまでの事情を説明した。2年生のときにはベテランの男性教諭が担任をしてクラスを抑えていたが、3年生になって担任が交代するくらいにクラスが非常に荒れたことを率直に話した。
「自信がありません」
小柄な彼女が、かぼそい声で答えた。おそらく職員室で周囲から4年生のクラスは大変だという評判を聞いたのだろう。しかし、脇田は諦めるわけにはいかない。
何かにつけて「だめだ」と叱られ続けている子供たちは母性的な愛情に飢えている。それには先生のようにやさしく、しかも、子供ひとりひとりの特徴を的確に捉えて、その子のよさを語るような人がうってつけだ。
「母性を前面に出してやってください」
脇田は4年生を受け持つのは彼女しかいないのだと説得した。
ずっと脇田の話を聞いていた彼女は「やってみます」と答えた。すかさず脇田は学習支援担当の教員を補助に入れるなどフォローを怠らないことを誓った。「どうしても担任を続けられなくなったときには、すぐ私に言ってください」と言葉を添えた。
しかし、その女性教諭を持ってしても、4年生の子供たちを落ち着かせることはできなかった。
最初に異変に気づいたのは、教務主任の北崎だった。
4月の半ばを過ぎたころ、ほかの担任が始業のチャイムが鳴る前に教室に向かうのに、それが鳴っても、4年生担任は職員室でぐずぐずしている。
「えろう、時間かかるな」
4年生担任の机には学習資料らしきものが置かれていた。じっとそれを見ていたかと思うと、やっと腰を上げた。ほんの数十秒のことなのだが、席を立つまでが長く感じられた。
4年生の教室に向かう担任のあとを北崎はそっと追いかけた。教室を覗いてみると、女子たちを落ち着かせることはできていたが、一部のやんちゃな男子たちのおしゃべりが止まらない。静かにするように指示しても、担任を無視する姿が見られた。
4月下旬になると、職員室で過ごす4年生担任の表情が暗くなった。そればかりか、始業時になると、困った表情で北崎のほうを見る回数が増えていく。
「一緒に行こか」
北崎は4年生担任にそう声をかけた。「教室に行けません」と目で訴えているように見えたのだ。4年生担任はこっくりと頷く。
4年生担任が授業を始めた。やんちゃな男子たちはまだ立ち歩いている。おもむろに北崎が教室の後ろに入った。「ちゃんと席に着け」と指示すると、やんちゃな男子たちは慌てて席に座り、静かになった。しかし、北崎が教室からいなくなると、また騒ぎ出した。
4年生担任が校長室を訪れたのは、4月末だった。いつもなら訪問者に声をかける脇田が、そのときは4年生担任を無言で招き入れた。
「やっぱりきついです。担任を続ける自信がありません」
座席に座るなり、申し訳なさそうにそう打ち明けると、彼女は肩を落とし、小さくなった。
「よく頑張ってくれましたね。荒れが続くのは先生の責任ではありません」
脇田は4年生担任に礼を述べた。ベテランだけに自分の指導のやり方が通用しないことにショックを受けているようだった。脇田に彼女を責める気持ちはさらさらなかった。
5月の大型連休明けに臨時保護者会を開いて担任交代を発表することを伝え、彼女を職員室に帰らせた。
すぐに脇田は北崎を校長室に呼んだ。
「北ちゃん、4年生の担任をしてください」
「そうなるんやないかなと思っていました」
開口一番、脇田が北崎にそう頼むと、北崎はふたつ返事で了承した。担任交代という危機的な状況を迎えたというのに、ふたりの表情は穏やかだった。
北崎が自分の出番だと考えてくれていたことが、脇田にはうれしかった。担任を引き受けた北崎は、彼女ほどの教員が担任として務まらないのかといぶかしく思った。
脇田は、北崎には4年生担任と教務主任を兼務させ、担任をはずれた女性教諭には教務主任補助に当たらせることにした。
脇田は「4年生の受け持ちの先生が代わることについて」という手紙をしたため、すぐに臨時保護者会を開催することを保護者と教員に知らせた。その手紙には、担任がやるだけのことをやって交代するのだということが書かれていた。
5月の大型連休が明けた平日の夜7時、4年生の教室で臨時保護者会が開かれた。日が暮れ、ガランとした学校の蛍光灯が照らす廊下から続々と保護者が入室してきた。
ロの字型に並べられた教室の机には、黒板を背にして脇田、旧担任の女性教諭、新担任の北崎が並び、保護者は黒板を見るようにして座った。
「ほとんど全員の保護者が来られたな」
30人を超える保護者の表情は沈んでいた。その顔には、「また担任が変わるんか」「途中で投げ出すと?」と書かれているように脇田は感じた。北崎は北崎で、自分のことを知っている保護者はともかく、自分のことを知らない保護者には、「このおじさんで大丈夫か」と思われているような気がしていた。
担任をはずれる女性教諭にとっては針の筵(むしろ)だったかもしれない。しかし、脇田はそう考えてはいなかった。
「子供たちがいったん荒れ出したら、それを収めるのは容易なことではありません。力量のある先生をもってしても大変なのです。誰が担任になっても、こうなる可能性がありました」
脇田はまず保護者に理解を求めた。
「4年生のクラスはよい方向に向かっています。昨年度、ふたつに分けられた子供たちをひとつにしてクラスの基盤づくりをしていただいたと思います」
3年生のとき、荒れを収拾する対策として、このクラスは騒がしいグループとやや騒がしいグループのふたつに分離された。4年生になり、単にひとつのクラスに戻しただけなのだから、すぐに崩壊してもおかしくない。
「担任の先生は、よく1か月持ってくださいました。お礼を述べます。ありがとうございました」
てっきり謝罪か何かがあるのだろうと思っていた保護者は脇田の話を傾聴するしかなかった。
「新しい担任には北崎先生が当たります。荒れが続くのは担任の責任ではなく、学校の責任です。保護者のみなさんには、ご心配をおかけして申し訳ございません」
ここで脇田は謝り、保護者には責任の所在が校長にあることをはっきりさせた。新しい担任の北崎は地元出身で教え子も多い。少年野球チームの監督として北崎を知っている保護者には安堵の色が広がった。
保護者からは何の異論も出なかった。脇田はこの臨時保護者会を、女性教諭がこれに屈することなく、自信を回復する場にしてもらいたかった。
「家庭で子供がよいことをしたら、褒めて抱きしめてやってください。保護者におかれましては、どうかこの1年間を見守っていただきますようにお願いいたします」
そう言うと脇田は臨時保護者会を終了した。時計を見ると、30分ほどしか経っていない。担任交代の露払いは無事にすんだ。
脇田は北崎にあとを託すしかなかった。
さつき松原探検隊が行く
北崎は山口県萩市生まれだが、故郷は宗像だと思っていた。
小学4年生のとき、両親が離婚し、母親の実家がある宗像に引っ越してきた。転校する前には、運動が嫌いで、近所の女の子とお医者さんごっこをするほうが楽しいと思うような子だった。
しかし、宗像にやって来ると、博多弁がちんぷんかんぷんだったけれども、友達と一緒に海で魚を捕まえては食べ、海で泳いだ。自分を成長させてくれたのは宗像の自然と遊んだおかげだと感じていた。
北崎の学級経営方針ははっきりしていた。教育課程のなかに地域との触れ合いをとりいれていくということである。学校経営要綱に掲げられた「地域のひと、もの、ことにかかわる教育活動」を率先して実行するのは自分だと考えていた。
玄海東小学校から路地づたいに3分も歩けば、さつき松原海岸に行くことができる。全長約5キロメートルにわたって約20万本のクロマツの松原が生育している海岸だ。有名な海水浴場で、北崎が幼いころは近所の子供たちの遊び場だったが、そのころ、そこで遊ぶ子供はほとんどいなかった。
ちょうど5月はキイチゴの季節だった。北崎はさつき松原海岸を題材にした総合的な学習の授業を行うことを考えた。
新しく担任になった北崎が教壇に立つと、子供たちの騒がしさが消えた。いわゆる睨みが利いたということだろう。
「さつき松原海岸のことを知っとうか?」
北崎が子供たちに呼びかけると、「知っとう」と子供たちが一斉に返答した。
「じゃあ、なんでその名前がついたか、知っとうと?」
「えー、知らん」
教室が崩れるかのように、ガヤガヤとうるさくなった。
子供たちに調べ学習をさせると、北崎は地元の人を呼び、さつき松原の由来を話してもらった。福岡藩初代藩主の黒田長政(1568~1623年)が防風林として植林したのが始まりであることや、5月5日の端午の節句に宗像大社の人々が砂浜で馬を競わせたことから「さつき」の名前がついたことなどを子供たちは知った。
北崎が昔に聞いた話では、田植え前に農耕馬を馴らすために海岸で馬を走らせたというものだったから、北崎にとってもその話は新鮮だった。
次の単元では、当時の玄海さつき松原保存会長を招き、松枯れの話をしてもらった。
松枯れの原因は松くい虫(マツノマダラカミキリ)だという。クマゲラというキツツキの一種が松くい虫の天敵だが、そのクマゲラがめっきり減ってしまった。そうすると、松くい虫が繁殖した。
春から初夏にかけて成虫となった松くい虫が松の樹皮をかじると、松くい虫に寄生するマツノザイセンチュウという線虫が松のなかに侵入し、それが増殖することによって、樹体内の水の流れが悪くなった松が枯れるというのが、松枯れのしくみである。
そこで松くい虫撲滅のために農薬の空中散布を年に1回、6月ごろに実施しているのだが、それでも松枯れが続いているという話だった。
さつき松原という身近な存在でも知らないことがあることに子供たちが気づいたころを見計らって、北崎は二の矢を放った。5月の終わりのことだ。
「さつき松原を見に行くか」
子供たちは「学校の外に行くと?」「出ていいんか」「えっ、行きたい!」とはしゃいだ。そうはいっても、北崎ひとりで引率することは難しい。子供たちには水筒持参を指示し、保護者から参加者を募り、校外での授業に同行してもらうことにした。授業は給食や昼休みを終えた5、6時間目に設定した。
幸い当日は晴れた。北崎は「行くぞ、探検だ」と威勢がいい子供たちを引き連れ、さつき松原海岸に向かう。保護者は一行から少し離れてついていく。
「おお、暗い」
明るい日差しから松原に入ったので、暗くなった。目がその暗さに慣れると、松の林のなかをアオスジアゲハが舞っていた。木洩れ日の光がアオスジアゲハに当たると、青緑色の翅(はね)模様が鮮やかに浮かび上がる。それを目ざとく見つけた子供がとろうとするが、蝶の動きがすばやいのでとれない。
さつき松原には遊歩道が走っていた。北崎は遊歩道を横切って海岸に出ると、松原から砂浜を見下ろす格好になった。
心地よい風が顔を撫でる。
「おお、海だ」
子供たちは波際へと駆け出した。日差しを受けた海が光を反射して眩(まぶ)しい。漁師の子供には珍しくも何ともないが、内陸に住む農家や会社員の子供には久しぶりの海かもしれない。
「おーい、遊歩道を行くぞ」
散らばっていた子供たちが北崎のもとに戻ってきた。
「きれいな蝶が止まっとう」
女の子が蝶を指さしたので、それはアサギマダラという蝶だと北崎は教えた。地を這うように砂浜に生えるスナビキソウが小さな白い花を咲かせ、そこにアサギマダラが止まっていた。黒色や茶色に縁どられた白地の翅が確かにきれいだった。
「台湾などからはるばる海を渡ってくるんよ」
北崎がそう説明すると、子供たちは「すげえ」と驚いた。
松原に戻った北崎や子供たち一行は、元気よく遊歩道を歩き出した。
「この先に食べもんがあるぞ」
しばらくして北崎が、くるっと子供たちのほうを振り向き、そう声をかけた。
「こげなところに食べられるもんがあると?」
「松しかない」
列をなしている子供たちはきょろきょろしている。
「キイチゴ狩りをすると」
歩いていた北崎はまた振り向いて言った。
「キイチゴ!」
「食ったことない」
子供たちから歓声が上がった。保護者には、キイチゴ狩りをすると事前に伝えていたから、同行した保護者は知っていたが、知らぬそぶりで「よかったねえ」と子供たちに話しかけていた。
松原や遊歩道からはずれ、北崎は藪があるほうにずんずんと入っていく。遅れまいと子供たちがついていく。
「この辺の草には、棘があるから気をつけるんよ」
北崎がそう言って立ち止まった。
「赤い実だ」
誰かが叫んだので、縦列になっていた子供たちが、そこで横に広がる。
「おおっ、これがキイチゴか」
子供たちの目の前には、キイチゴが群生していた。
しかし、北崎はそれに目もくれず、その場所を移動して別の藪の奥に入った。子供たちは北崎についていく。あるところで北崎が草を押し分けると、そこにも赤い果実がなっていた。ヘビイチゴだった。
北崎は「これを食ったら、いかん」と2種類のイチゴを比べて見せ、キイチゴもヘビイチゴもノイチゴと呼ばれるが、食用に適しているのはキイチゴであることや、祖母から習った見分け方を教えた。
子供たちや保護者は嬉々としてキイチゴを摘んだ。
「食べたい!」
そう言う子供を北崎は「農薬がかかっとるけん。よく洗わんと汚い」と制した。
「先生が子供のころは、キイチゴがおやつやった」
昔の子供は自分の秘密基地を持っていたことを北崎は話した。子供のころに見つけたキイチゴの場所は、こことは違うところにあったが、キイチゴのある場所は自分と友達の秘密基地のひとつになっていた。
秋になると、北崎少年はムカゴをとった。山芋の脇芽のところに栄養分が溜まった丸い実である。山芋の蔓を見つけると、まずムカゴをとる。蔓の根元を探し当てると、山芋を掘った。そんな話をすると、子供たちはおもしろがって北崎の話を聞いた。
採取したキイチゴはハンカチに包んだり、ポケットに入れたりした。学校に戻ると、子供たちは家庭科室でキイチゴジャムのつくり方を学んだ。ここでは、料理上手な保護者が活躍してくれた。子供たちは自宅に持ち帰ったキイチゴがジャムになることを楽しみにしていた。
クラスは1年間以上も荒れ続けている。北崎は自分が地域との橋渡し役をすることによって、子供たちが故郷を味わい、楽しい気持ちでいっぱいになってほしかった。
子供たちは授業が行われるのは時間割の間だけと思い込んでいる。学習する時間は昼ばかりではない。子供たちがあっと驚くような夜の体験学習を北崎はやろうとしていた。
ライター/高瀬康志 イラスト/菅原清貴 ※文中の敬称は省略させていただきました。