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【野口芳宏「本音・実感の教育不易論」第74回】今どきの教育と敗戦前の教育(その2) ─国民学校1、2年の教室事情─

連載
野口芳宏「本音・実感の教育不易論」
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植草学園大学名誉教授

野口芳宏
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国語の授業名人・野口芳宏先生が、65年以上にわたる実践の蓄積に基づき、不易の教育論を綴る連載です。第2部では今どきの教育と戦前の教育とを比較吟味し、戦後80年の教育の功罪について考えていきます。今回、実体験としての国民学校初等科の日常が淡々と綴られていますが、その記述がそれだけで現代日本の教育への痛烈な批判性を孕んでいることに、新鮮な驚きを感じます。


執筆
野口芳宏(のぐちよしひろ)

植草学園大学名誉教授。
1936年、千葉県生まれ。千葉大学教育学部卒。小学校教員・校長としての経歴を含め、65年以上にわたり、教育実践に携わる。1996年から5年間、北海道教育大学教授(国語教育)。現在、日本教育技術学会理事・名誉会長。授業道場野口塾主宰。2009年より7年間千葉県教育委員。日本教育再生機構代表委員。2つの著作集をはじめ著書、授業・講演ビデオ、DVDなど多数。

5、軍国主義への歩みと共に入学

昭和11年2月生まれの私は、昭和16年4月に国民学校初等科第一学年に入学した。国民学校令は同年3月に公布され、半月後に国民学校令施行規則が制定されている。

私が1年生に入学した4月から第五期の国定教科書が使われることになり、7月には、文部省から『臣民の道』が発行された。そして、12月8日、大日本帝国は真珠湾攻撃を以て大東亜戦争の火蓋を切った。つけ加えると、私が生まれた9日後には「2・26事件」が勃発している。

個々のキーワードについてはお調べ戴きたいが、『臣民の道』は文部省の教学局から出された平沼騏一郎氏の著作の由。「欧米の個人主義思想を否定し、ただ国体の尊厳を観念として心得るだけでなく、国家奉仕を第一とする『臣民の道』を日常生活の中で実践する在り方を説いている」と解説されている。ここに、「欧米の個人主義思想」という言葉が「国家奉仕を第一とする『臣民の道』」という言葉と対比的に用いられていることは心に留めておきたい。

恐らく、今は殆どの人が「臣民の道」に同意、共感は持つまいと思われる。誰もが「臣民の道」は当然のように否定されるだろう。そのように敗戦後は教育されてきた。「軍国主義から民主主義へ」という戦後の教育の歩みには大方が賛成であろうからだ。

昭和16年の3月に「国民学校令」が公布され、半月後にその「施行規則」が制定され、教科書は第五期の改訂版が使われるようになる。「サイタ、サイタ、サクラガ サイタ」の「サクラ読本」から、「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」に変えられた。その次の教材は「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」である。私らの世代は「軍国主義」への明確な体制づくりと共に歩むことになる。

そして、開戦直後は、連戦連勝であったが、2年目に入ると間もなく苦戦に入る。昭和15年は「皇紀二千六百年」である。2年生の時、それを祝して全ての児童に祝菓としてメロンパンが配られ、嬉しかったことを思い出す。

6、欧米思想の「個人主義」への疑問

私は1年生で戦争に入り、4年生の8月に敗戦を迎えた。言わば、9歳までが戦時下、戦中であり、9歳の半ば頃から敗戦後の生活を過ごすことになった訳である。

さて、前述の、欧米の「個人主義思想」という言葉と、「国家奉仕を第一とする」という言葉の違いについては、私的な思いがある。「個人主義思想」については、要するに「個人第一」「個人主体」、また、個々の「人権尊重」とも言い換えられると思っている。だが、日本人は、昔からこのような考え方にはなじまなかった国民だと私は考えている。

例えば、「自分勝手」「利己主義」という言葉はマイナスの意味で使われている。「個人主義」もややマイナスのニュアンスで用いられていたように思われる。これと同じような例で用いられているのが「私」という言葉である。「私利私欲」「私事」「私物化」「私腹を肥やす」などは、いずれもマイナスのイメージが強い。

滅私奉公、という四字熟語は、私は2年生の時から教わって知っていた。「私を滅して、公に奉ずる」という意味であり、子供心にも立派な考えだと思っていた。だから、「国家奉仕を第一とする」という言葉に対しても、私は現在でも大きな違和感は持たない。

言うまでもないが、人間は社会的存在であり、どんなに勝れた人であっても一人では生きていけない。力を合わせ、心を合わせ、みんなで協力し、協調しつつ生きていかねばならない。「和」の心が大切なのだ。

そのように考えてくると、「個人主義思想」という欧米の考え方を「否定し」という言い方も必ずしも間違いとは言えまいと思われるのだ。勿論「程度の差」という寛容性も大事である。極端に走るのは万事に気をつけねばなるまい。曽ての「軍国主義」が極端な「人命軽視」に走ったところもあったことは否めまい。

それはそれとして、現在の日本人の一般的な考え方の中に占める「個人主義」は、果たして望ましいと言えるのだろうか、と私は疑問に思っている。クレームという外来語は、「異議。苦情。文句」と広辞苑にはある。クレーマーは、「常習的に苦情を訴える人」とある。「モンスター・ペアレンツ」はクレーマーの最たるものだろう。これも一つの行き過ぎた「個人主義」の表れではないか。

日本は世界一「治安の良い国」などと言われてきたが、現在はそういう声を全く聞かなくなった。全ての校門は閉ざされており、登下校も「見守り隊」の支援が常態化している。子供の「苛め」や「不登校」や「暴力行為」の多発、増加傾向もまた、「個人」「個人主義」「自分勝手」の広がりと無関係とは言えまい。

「人権侵害」「人権擁護委員」「人権問題」などという言葉は巷間に広まっているが、「人義務」という言葉はない。権利ばかりは声高に叫ばれるが、「義務」についての話題は影を潜めている感じである。

いずれも、「他者」や「社会」や「公」に対する認識、関心が薄くなり、「自分」「自己」「個人」ばかりへの関心が高まってしまったからではないか。さる識者が、敗戦後の日本の民主主義は、「滅公奉私型民主主義」だと言ったが、言い得て妙だと思ったことである。

すがわらけいこ氏イラスト

7、1年生の頃の教室事情あれこれ

国民学校の1年生に入学して1週間が経つと「弁当持ち」になって午後の授業も始まった。お弁当は、楽しみである。弁当の時間になると、先生がお弁当の食べ方の作法を話してくれた。

まず、口を結び、姿勢を正して目を瞑る。一分程度だったと思う。「目を開きましょう」という先生の合図で目を開く。

「では、お箸をこのように持ちましょう」ということで、合掌した親指と人差し指の間にお箸の頭を右にして持つ。全て無言である。それから、先生の声に合わせて、次のように唱える。姿勢は、当然ながら正したままだ。

箸取らば、天地(あめつち)、御代(みよ)の御恵み(おんめぐみ)、父母や師匠の、恩を味わえ。

合掌の親指と人差し指の間にお箸を挟んだままで唱え、唱え終わると一瞬の沈黙があって「戴きます」と頭を下げる。それからやおら昼食ということになる。

まず、「天地と御代」、つまり大自然と天皇陛下が治められるこの日本の安泰に対して感謝の言葉を唱え、続いて「父母」や「師匠」の深い恩愛に対し、低頭して感謝を述べるのである。全校生一人残らず、毎日これを唱え、礼をしてからお弁当を食べた。今でも、この言葉は憶えているし、女の先生の優しい笑顔までがまざまざと思い出されてくる。1年生の当時に、その言葉の意味など分かりはしなかったが、今にして、やはり素晴らしい教育の一齣だったと懐かしく思う。

ある新聞に、「意味も分からず歌わされた」と題する一篇が投書されたことがある。国歌「君が代」の斉唱のことである。国歌、君が代の意味が、本当に実感を伴って深く理解できるのは、かなりの年数が必要であろうし、その理解のレベルには個人差があるだろう。それは仕方がないことだし、それでよいのだと思う。全てのことが「理解されて為される」などということは存在しないだろう。「本当の価値や重み」というものは、それを教わったり、実践したりしている間に段々分かってくるものなのだからだ。

戦時下に限られたことではなかろうけれど、敗戦に至るまでに私が受けた国民学校の当時の日常を思い出してみたい。

学校に着くと、校門を入る前には、先生も子供も、そして保護者も例外なく深く「礼」をしていた。「深く」というのは、必ず立ち止まり、帽子を脱ぎ、深い礼をしたということである。帽子をかむったままとか、歩きながらという非礼はなかったということである。それが、日常であり、ごく普通に、例外なく誰もが行う「作法」であった。先生も、学校も、一種の「聖域」として、尊敬の対象となっていたのであろう。

下校時も同様にして学校を後にした。そもそも「登校」は、本来「高い所に登るという意味であろう。登るという語がそもそも「上に行く」「高い所に行く」意味である。この「高い」とか「上」というのは空間的な意味に限定されるものではなく、精神的に「高い」ことをも意味するものだ。

逆に「下校」は「下る」、つまり低い所に行くことが原義であろうが、これもまた精神的な高低を含意して用いられている。

教室にも、このルールがあって、教室に入る時には一礼した。出る時には省略されることもあったが、これは頻度が生む煩瑣からの省略であろう。が、出る時にも礼をする子もいた。この考え方や習慣は、現在でも他家を訪問する場合には、出合いの礼と、辞去の礼は一対となって継承されている。

教室への入退室にも作法があって、教室の前方の出入口は先生専用であり、子供は後方の出入口を使うのが日常であった。こういう「使い分け」によって「秩序の自覚」を促す慣行はいろいろの場にあった。例えば、一般の家でも、玄関口と勝手口とがあって、ある格式を伴う場合には玄関口が用いられ、気軽な付き合いの場合には勝手口が使われていた。現在のマンションやアパートの出入口は一つなのでこの区別はないのが普通になっている。

また、多くの教室に「教壇」があり、先生は一段高い教壇に立って授業をした。子供の側からはその方が先生がよく見えたし、教師の側からは高いところに立つので子供の様子がよく見えて授業しやすかったと思う。しかし、各地に新制中学校が独立して建築され始めると、教壇は姿を消すようになった。噂では「高い所から教えるのは平等の原則に外れるから」だということが囁かれたが、真偽の程は分からない。

また、教科書は国定であり、全国同一の教科書が用いられていたからかもしれないが、授業の始まりには、両手で教科書を掲げて軽い会釈をしてから開くことがごく自然に守られていた。終業時にも軽く会釈をしてから机の中に納めるようにしていた。

登下校の途中で先生に出合うと、必ず立ち止まって帽子を脱ぎ、挨拶をした。先生の方でも帽子を脱ぐ人があって、今でもその先生のことが強く印象に残っている。

これらは、今でも気軽な「挨拶」という形では継承されてきているが、「学校の日常」ということになると、消滅してしまっていることが多いように思われる。それらは「民主化」という美辞によって退化されたようにも思えるのだがどうであろうか。

一言で言えば、「平等」という枠組には適ったのかもしれないが、「秩序」や「慎み」や「尊敬」や「親和」という「大和心」が弱められ、薄められてしまったようにも思われ、残念かつ淋しい心境である。

野口芳宏 先生

イラスト/すがわらけいこ 写真/櫻井智雄


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