不登校の「沼」にはまって苦しむ親子。どうすれば抜け出せるのか?~事例から考える支援のポイント

不登校の子どもとセットで語られがちな言葉に、”共感”や”傾聴”があります。けれども、「話を聴くだけでは、救えない子がいるんです」と言うのは、「花まるエレメンタリースクール」(通称・花メン)の校長、ハヤトカゲこと林隼人さんです。花メンのスタッフ会議で論議されていた内容を記事にします。
花メンは、学校に行かない選択をした子のためのフリースクールです。過去記事はコチラ。
目次
「傾聴」だけでは危うい理由
子ども全員に不登校経験がある「花メン」は、ある意味で、不登校についての最先端の実践研究の場だと感じます。なぜなら、ハヤトカゲは、日々の事例(目の前で起きている出来事)から気づきを得て、それをスタッフと共有し、共に掘り下げていくことを何よりも大切にしているからです。
ある日のスタッフ会議で、ハヤトカゲはこんなふうに切り出しました。
共感や傾聴が、子どもを被害者モードにしている。
以下しばらく、ハヤトカゲの一人称形式で記述していきます。
ハヤトカゲ 「学校でこんな嫌なことがあった」「友達に〇〇された」……。そんな子どもの話に共感しながら耳を傾けることは、もちろん大切です。けれども、特に小学2〜4年生くらいの子どもたちに過剰に言語化を促すと、かえってその言葉に子どもたち自身が縛られてしまうことがあるんです。
すると、「自分は被害者だ」という意識が強まり、気づかぬうちに、自ら作り上げた“かわいそうな自分”という物語にしがみついてしまう場合があるのです。
「外向きの矢印」「内向きの矢印」
ハヤトカゲ 大人が「何があったの?」「どう嫌だったの?」といった「外向きの矢印」の問いばかりを投げかけていると、子どもの意識は外側(他責)に向いてしまいます。そんなとき、僕たちは意識の矢印を内側(自責)にぐっと引き戻すような問いを投げかけるようにしています。
「それで、あなたはどうしたいの?」「どう行動するの?」
こんな「内向きの矢印」の問いを子どもに投げかけることで、初めてその子は自らを見つめることができます。そしてそれが、本人の行動変容に繋がるのです。事例をもとに考えてみましょう。
傾聴のための「問い」においては、「矢印の方向」を意識する。
事例からの学び1 傾聴の先にある3段階支援モデル
事例1 Aくんが「やめたい」と言った日
小学校2年生のAくんとBくん。ふたりともイキがいい(やんちゃな)男の子です。一番仲が良い友達同士だからこそ、普段からやり合っている関係です。ある日、BくんがAくんをひっかき、傷をつくってしまう出来事がありました。
ハヤトカゲ 今回はたまたま怪我をしたのがAだったというだけで、AもBも同じくらいやんちゃです。彼らはケンカをしたり傷つけ合ったりする中で、互いに育ち合っていることを、僕らは理解しています。
けれど、Aの保護者は「怪我をした」という場面を切り取って、「そんなことがあったの? 痛かったね」などと傾聴してしまい、Aは“被害者モード”になりかけていました。挙句、「花メンをやめたい」と言い出したのです。その時、僕らは「つらかったね」と共感するだけではなく、Aに対してこう切り出しました。
A、(辞めるか辞めないかは)話し合ってから決めないか?
話し合いながら状況を整理する
外向きの矢印 = 「噛まれた」「やられた」という被害者意識。他人のせいにする。
内向きの矢印 = 矢印を「自分」に向ける。「自分も手を出した」「責任は自分にもある」と気がつく
具体的な「やりとり」を再現します。
AはBに対して、何もしていないのかな? (矢印を内向きにしてあげる)
‥‥‥。(相手に手を出してしまっていたことに、自分で気がつく)
2人は一番の仲良しだよね。2度と会わなくてもいいの? (辞めるとはどういうことなのかを理解させる)
‥‥‥。(ハッ! とする)
Aは、どうしたいの? (子ども自身に、「自分はどうしたいのか」に気づかせるための声かけ)
やっぱり花メンを辞めるのは、やめた!
ハヤトカゲ 問いの方向を本人に戻したことで、Aは、「自分で決める」力を取り戻しました。
導きの3段階支援モデル
この実例から学べる「導きの3段階支援モデル」を、ステップごとに整理してみましょう。
- 共感と傾聴で気持ちを受け止める。
- 意識の矢印を内側に戻し、「被害者」から「自分で決める人」に戻す。
- 行動変容へのアシストをする。
ステップ1 共感と傾聴で気持ちを受け止める。
最初は、「そうだね、そうだったね」と、共感と傾聴により気持ちを落ち着かせます。共感と傾聴の目的は、被害の言語化ではありません。大人側が傾聴の目的を、「次のステップに導くための下準備」だとしっかり捉えておくことが大切です。
2 意識の矢印を内側にして、「被害者」から「自分で考える人」へ
子どもが落ち着きを取り戻したタイミングで、「問い」の矢印を内向きにします。子どもの意識を「自分」に向けることで、「被害者」から「自分で考える人」となり、子どもの主体性が引き出されます。
3 行動変容へのアシスト
子どもが「自分で決める人」としての主体性を取り戻せたら、子どもが「自分はどうしたいのか」を言語化できるような声かけをします。この場合の声かけは「指示」や「指導」ではなく、あくまで子ども自身の納得感に寄り添った「アシスト」です。
この後、スタッフ会議の議論は、保護者支援のあり方へと展開していきました。
事例からの学び2 親が子どもと同化してしまう「共倒れ構造」
親子で共倒れにならないために
ハヤトカゲ 最近よく感じるのは、「子どもと一緒に沼落ち(※)してしまう保護者が多い」ということです。
※ 沼落ち→花メン用語。わが子が学校に行けず苦しんでいる時に、親もその気持ちに深く共感しすぎて、一緒に暗くて出口の見えない“沼”の中に沈み込んでしまうような気持ちになってしまう状態。
ハヤトカゲ 共感や傾聴をしながら話を聞いてるうちに、保護者もその子と同じぐらい苦しんでしまっている……。そんな時に僕らは、こう伝えます。
構造的な問題として、今のままでは、お子さんは救えません。
ー どういう意味ですか?
ハヤトカゲ 子どもが沼に落ちている時、大人はその手をガッとつかんで、「こっちだ、落ちるな!」と引き上げる役割を果たさなければなりません。そのために必要なのは、状況を俯瞰して見る力です。
けれども、実際には「うちの子がいじめられた」「学校で嫌なことがあった」と訴える保護者の多くが、子どもと同じ視点、同じ苦しみの中に沈んでしまっている。つまり、大人自身も“沼”の中にいるのです。
そうなると、「一緒に苦しむ」ことはできても、「救う」ことはできません。子どもを沼から抜け出させるには、少なくとも誰か一人はしっかりした地面の上に立っていなければなりません。
現場ではどのようにその構造が表れるのか? 事例をもとに考えてみましょう。
事例2 子どもが強い言葉で被害を訴える
花メンに行きたくないと感じた時、子どもは知っている限りもっとも強い言葉を用いて被害を訴えます。それを100%事実として受け取ってしまった保護者から、「うちの子がいじめられています!」という相談を受けることがあります。
ハヤトカゲ 保護者から見れば「いじめ」と映るような子ども同士の関わりの中にも、じつはぶつかり合いを通して学び合っている、そんな側面があるのです。
もちろん、私たちがそこに対して何もしないわけではありません。けれども、それを「いじめ」という言葉で安易に事件化してしまうと、子どもたち同士で自然にできるはずの関係性の修復や、そこからの学びのプロセスが、止まってしまうことがあります。
「いじめられた」「ひどいことをされた」といった子どもからの訴えがあったとしても、その背景には、子どもたちなりの関係性や状況が存在します。子どもたちは柔らかな関係性で繋がっているので、大人が「いじめた側」「いじめられた側」という風に一方的にジャッジしてしまうと、関係性が固定され、元に戻れなくなってしまいます。
だからこそ、僕たちは見守る姿勢を大切にしながら、「介入するかどうか」を慎重に、ぎりぎりまで見極めるようにしています。
ー その説明で保護者は納得されるのですか?
ハヤトカゲ 正直なところ、感情的になり、冷静に話を聞くことができない保護者もいらっしゃいます。「子どもが不登校になった」という経験があるからこそナーバスになる気持ちは理解しています。
とりわけ、「花メンにも行けない」という状況は、多くの保護者にとって強いショックで、ついすべてがうまくいっていないかのように感じてしまう場合も少なくありません。
ー そういう保護者には、どう声をかけていくのでしょう?
ハヤトカゲ まず、保護者と「子どもの理想の姿」を共有します。
【理想の姿】 毎日楽しく花メンに通っている姿。
ハヤトカゲ 保護者と私たちの理想は、同じです。けれども、保護者の現在の行動はその理想と正反対に進んでいること、それを伝えることが第一歩です。
現場で起きがちな保護者との「ボタンの掛け違い」のパターンを整理すると、以下の通りです。
- 保護者(特に母親)は花メンに行って欲しいので「辛かったら帰ることもできるからね」「顔を出せたら帰ろう。近くで待っているから」といった約束を子どもとする。
- 現場スタッフは子どもの様子を見ながら、「今日、残れそうだね」など少しずつ授業に参加できるよう背中を押すが、子どもからは「帰してもらえなかった」と受け取られてしまう。
- 結果的に「お母さん=優しい」「スタッフ=厳しい」という構図ができ、スタッフが“敵役”になってしまう。
- 保護者は無意識のうちに「自分だけいい人になろう」としている場合が少なくない。
子どもに対して、こうした関わりを何年も続けてきた保護者が、花メンに来てようやく、「それでは子どもは育たない」と気づくケースも少なくありません。
ー 保護者の方の気持ちを思うと、苦しいです。
ハヤトカゲ (子どもが花メンに行けずに)「心が折れそうだ」と言う保護者には、こう伝えます。
気持ちはわかります。でも、大人の心が折れてしまっていたら、構造的に子どもを救うことはできません。
ハヤトカゲ 繰り返しになりますが、子どもを救うためには、保護者自身がしっかりと“立っている”ことが前提です。だからこそ、沼落ちしている保護者とは、「理想は同じ」ことを再確認した上で、覚悟を決めてもらいます。覚悟を決めた上で、保護者には花メンスタッフと一緒に子どもの背中を押してもらう必要があるからです。
「チーム大人」で子どもを支える
時に厳しいことを言ってくれる「外の師匠」が必要
ハヤトカゲの話を聞いているうちに、筆者は苦しくなりました。学びの場に行くのが辛い我が子に対して、「行かなくていいよ」と言ってしまう保護者側の気持ちに、1人の母親として共感するからです。
そう伝えてみると、スタッフが助け舟を出してくれました。
リノ 花メンのスタッフには、スポーツや習い事に本気で取り組んできた人が多くいます。聞いてみるとそういうスタッフの保護者は、友達とのいざこざ、コーチや先輩から叱られることも含めて、すべてを「子どもにとっての学び」だと捉えている場合が多いようです。つまり、「学びの場を信頼して我が子を任せる」覚悟があった、ということです。私たちスタッフの多くは、そうやって親も子も、学びの場で揉まれる中で鍛えられて成長してきたという実感と経験を持っているんです。

ソウタ ところが今は、そうした「厳しいことを言ってくれる大人」が、子どもの周囲からどんどんいなくなっています。家庭の中でも、学校や地域でも、大人が子どもを叱ることが難しくなり、気づけば叱られたことがないまま思春期を迎える子も少なくありません。
誰にも叱られないで育った子は、自分が何をしても許されると思ってしまったり、注意されただけで深く傷ついたりしてしまいます。以前なら、信頼関係の中で「厳しいことをあえて言う」という関わり方がありましたが、今は、大人の側が遠慮してしまっています。
だからこそ、私たちスタッフは、子どもや保護者としっかりと信頼関係を築いた上で、必要な時には厳しいことを言う「外の師匠」でありたいと思っています。

取材の最後に、花メンスタッフは、関わりのポイントを以下のようにまとめてくれました。
子どもの将来を考えると「厳しいことを言う大人」も必要。保護者自身が言うのが難しいようなら、花メンを頼ってほしい。保護者と花メンとで、「チーム大人」として子どもを育てていきたい。
家庭と学びの場とが、互いに信頼し連携しながら子どもを育てていく。そうした「チーム大人」としての発想こそが、これからますます大切になっていくのではないか。それが、今回のスタッフミーティングで見えてきたひとつの着地点でした。
花まるエレメンタリースクール 「メシが食える大人に育てる」花まる学習会が運営するフリースクール。これからの時代に必要な力を”体験”を通して”五感”を使って身に付ける。不登校の子、不登校でなくても才能を伸ばす新たな学びの場を探している子が通っている。HPは、コチラ。インスタグラムは、コチラ。
取材・文 / 楢戸ひかる(ならと・ひかる)
ライター。「ギフテッド」や「学校に行かない選択をした子供たちのためのフリースクール」取材を通じて、「選択肢としての新しい学び」や「教育活動の連携」を探究している。自身のサイト「主婦er」内に「ギフテッド関連記事のリンク集」がある。
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