「生徒たちが合わせてくれていたのか」 【授業づくり&学級づくり「若いころに学んだこと・得たこと」第38回】
今回からは、国語や道徳授業の名手として知られ、『オリジナル地域教材でつくる「本気!」の道徳授業』(共著・小学館刊)を上梓されているだけでなく、「みんなの教育技術」オンライン研修会「先生ゼミナール」の講師&ファシリテーターとしてもおなじみの藤原友和先生が、どのように教師を志し、国語や道徳などの専門の道に進んでこられたのかについて紹介していきます。
目次
小学1年の入学式の日から「学校の先生になりたい」
私が「学校の先生になりたい」と思い始めたのは、小学1年の入学式の日でした。入学式の当日に弟が生まれ、式には母ではなく父が付いてきてくれたのですが、父は仕事柄、普段着慣れていないスーツを着たものだからあまり格好良く見えなかったのです。そこへ担任の先生がスーツをビシッと着こなして登場したために、「格好いいな!」と思ったのが第一印象でした。その日生まれた弟の名前は「ひろゆき」で、たまたま担任の先生の名前は「ゆきひろ」だったため、入学式の日に私が「弟と名前が似ている」と話したら、先生はとても優しい言葉をかけてくださったのです。「格好いいし、優しいし、学校の先生っていいな」という原体験があり、それ以降ずっと「小学校の先生になりたい」という気持ちをもち続けることになりました。
私が入学した小学校自体も、北海道函館市の社会科の研究校で、地域からの評判も良く、日々の授業も楽しいものでした。加えて、当時はまだ土曜日の授業があったため、特別活動でも多様な取組がなされていました。よく覚えているのは、親子レクでの箱館山登山で、山頂で凧揚げをするというものですが、その凧は図工の時間に作ったものでした。その親子レクを計画された先生は、教科と遊びと親子の触れ合いをごく自然に組み合わせ、特別活動で取り組まれていたわけです。
学校だけでなく「地域ソーシャルキャピタル」もしっかりしており、地域運動会が開かれるなど、本当に地域内のつながりも強く豊かでした。そのため、幼稚園時代から一緒だった友達と母やママ友と一緒に、日曜日になると、市内の史跡を回っていたのです。やがて学齢が上がってくると、自分で郷土のことを調べるようになり、その成果を学校に持っていって評価されることがありました。学校の先生や周囲の人に刺激を受け、主体的に郷土について調べ、評価され、また興味をもって調べるというプラスのサイクルが回っている中で、子供時代を過ごさせてもらったことによって、私の教師としての土台が形作られたような気がします。ちなみに、その頃の地域との関わりの原体験が、後に『オリジナル地域教材でつくる「本気!」の道徳授業』の上梓にもつながっていると思います。
「小学校の先生になりたい」という思いはその後も変わらず、中学時代の職場体験は小学校に行きましたし、高校は中学時代の担任の先生の母校で、地元の教育大学への進学率が高い学校に入学し、そのまま目指す教育大学に進学をしました。
『徒然草』第93段「牛を売る者あり」という話に衝撃
ここまでの話だと「大学では社会科を専門に選んだのだろう」と思われるかもしれませんが、実は大学時代には国語(古典)を専門にしました。きっかけは、中学時代に読んだ『徒然草』です。
当時、NHKで立川志の輔さんが兼好法師に扮して『徒然草』を紹介する、『まんがで読む古典~徒然草~』という番組があり、それで『徒然草』に興味をもった私は、原書を直接読むのはむずかしいだろうということで、現代語訳の付いた高校の参考書を買ってもらいました。その中で第93段「牛を売る者あり」という話に衝撃を受けたのです。それは、生きるものの生死に関する深い話をした者が、満座の中で笑われるという話で、「この話をちゃんと勉強したい」という思いをもち、教育大学で古典文学のゼミに入ったのです。
私自身、中学生で自意識が肥大化し、場の中で思ったことが伝わらなかったり、話がスベったりすることに悩んでいた時期に読んだので、大きく心に響いたのだと思います。ちなみに、この第93段に関する話を後に古典ゼミの先生にしたところ、『徒然草』の研究者だった先生に、「ああKYの話ね」という一言で片付けられてしまったのですが…。
この大学で、ちょうど入学の年に教授として赴任してこられたのが、野口芳宏先生(元北海道教育大学教授、植草学園大学名誉教授)でした。野口先生の授業は月曜日の1時間目で、最初の授業では、受講者全員に自己紹介をするように指示するわけです。そこで一人の自己紹介が終わると、「今の自己紹介が良かったと思う者は○、良くなかったと思う者は×を出しなさい」と言われるわけです。そうすると、私の自己紹介には×を出す者が多数で、「ああ、この先生、好きじゃないな」と思ったのを覚えています。結局は、大学時代だけに限らず、卒業後も野口先生には非常にお世話になるのですが、最初の印象はとても良くないものでした。
「先生の勉強のために、君たちの書いた国語のノートをもらえないか?」
大学卒業後、私は最初、希望していた小学校ではなく、札幌市の中学校の国語教員として採用になりました。当時は授業もうまくできていたように思っていたのですが、生徒との年の差は8歳ほどでしたし、田舎の学校の4人の学級でずっと生徒と一緒に遊ぶし、放課後の部活も一生懸命やり、場合によっては部長の家で夕飯までご馳走になるような状況でしたから、子供たちのほうが大人で、私に合わせてくれていたのだと思います。
自分なりに授業づくりに取り組んでいるつもりではあったのですが、教材研究が十分にできていたかというと、そうではありませんでした。野口先生の後を追いかけて多様な勉強会に参加しており、そこで模擬授業を通して初任者でもできるようにパッケージ化された授業をやっていたため、1時間の授業としてはうまくいっていただろうと思います。ただし、この教材を通してこんな力を付けて、次の教材ではその力を発揮させ、他教科と連携を図って総合でこのように活用の場をつくり…というような、カリキュラム・マネジメント的な発想はまだ皆無でした。私は当初から、3学年分の全授業の板書計画をノートに書き、発問なども記してあるのですが、実際にそれを見返してみると、大学時代に塾でやっていたことを公立の中学校でもやっていて、そこに時々、持ち込み教材を入れていたという程度のものだったと思います。それを見返すと、当時の自分自身の未熟さに気付かされるばかりです。
このように自分自身の取組の足跡を残し続けるだけでなく、初年度に1年生で国語を担当した子供たちが3年後に卒業するときには、「先生の勉強のために、君たちの書いた国語のノートをもらえないだろうか?」とお願いもしました。ノートに記された子供の学びを通して自分自身の授業を省察しようと思ったからです。
そのときに提出してもらった、ある女子生徒のノートの最後のページには、藤原先生の授業は私にとってこういうものだったということがびっしり書かれていました。そこには私の授業に対して疑問を感じたことなども書かれていて、それでも一生懸命やってくれていたことはよかったという、まるで保護者のような言葉が記されていたのです。それを見て、自分は自分なりに考えてやっているつもりだったけれど、「生徒たちが合わせてくれていたのか」と思いました。
しかもその書き込みに気付いたのは、後に小学校に異動になって何年か経った後でした。その生徒が私の授業をどう捉えていたかという内容だけでなく、提出までのわずかの間にびっしりと書いてくれていたこと、それも「書いたよ」と伝えることなく、メッセージにいつか気付くだろうと思って書いてくれていたことに衝撃を受けたのです。
※
今回は、教師を志すようになった小学校時代の原体験から中学校での初任者時の体験を紹介していきました。次回は小学校に異動になった後、国語や道徳といった教科の専門性を磨いていった過程を紹介していきます。
【授業づくり&学級づくり「若いころに学んだこと・得たこと」】次回は、12月29日公開予定です。
執筆/教育ジャーナリスト・矢ノ浦勝之