特別支援学級担任の際に培われた「教科横断的な実践」 【授業づくり&学級づくり「若いころに学んだこと・得たこと」第26回】

連載
授業づくり&学級づくり「若いころに学んだこと・得たこと」

前回、現在、西東京市教育委員会教育部主幹の三田大樹先生が教師を志し、初任校で特別支援学級の担任になって、子供の実態に応じたカリキュラムづくりに取り組んだことを紹介していきました。今回は、異動先の学校でいよいよ総合的な学習の時間(以下、総合学習)の実践に取り組んでいったことなどを紹介していきます。

三田大樹主幹

立ち止まってじっくり自身の思考を省察することが大切

初任校で特別支援学級の担任を4年間務めた後、同じ区内の小学校に異動になり、4年生の担任になりました。採用時には1人で大人数の子供を担任することへの不安もあったと言いましたが、いざ通常学級の担任になっても、特別支援学級のときの指導のスタンスを基本的に変えませんでした。全ての子供がより良く成長するとの期待をもって関わり、根拠を基に価値付け、嘘のない自分を表現するということを大事にし続けたのですが、通常学級では文字や言葉によるコミュニケーションが図りやすい分、むしろやりやすく、特に学級づくりで苦労することはなかったと記憶しています。

ただ、前年度まで担任されていた先生がベテランの先生で、その先生との約束事が身に付いている子供たちだったので、少し寂しさは感じました。若い頃ですから、自分を信頼してほしい、慕ってほしいという思いが強かったのではないかと思います。きっと空回りをしていることもあったと思いますが、とにかく毎日夢中になって、子供たちに楽しいと思ってもらえるような授業を考え、試していました。

例えば特別活動での学級レクリエーションなどは、担任として子供たちのアイデアのほとんどを実現させようとしていましたので、子供たちにとっては楽しく充実した活動であったことでしょう。しかし、全ての願いに対応することが困難なのは当然で、子供たちに対して「自由には責任が伴う」ことに気付かせるような指導に途中から変わっていったのを覚えています。むしろそのほうが、子供たちに最後まで責任をもって、主体性・協働性を発揮させることができました。

教科学習でも、例えば社会科でテーマ学習をしたり、調べるだけでなく話合いやプレゼンテーションの場を取り入れたりと、覚えるよりも子供自身が表現することを重視していました。その分、時数が必要になって予定より進度が遅れることもありましたが、そこは特別支援学級を担任していた際に、学級で個に応じたカリキュラムをつくっていましたから、「この先にあの教科でこれを学習するから、この内容と絡めれば時間も追いつくし、理解も深まるな」などと、教科横断的に見て実践していました。そんなふうにカリキュラムをつくることで、今で言う「学びに向かう力」を育てたいと思っていましたし、むしろそうすることで自分の強みをが生かしていこうと思っていました。

三田先生が若手時代、自分たちのグループが学んだことについて、プレゼンテーションをしていく子供たち。

このように日々試行錯誤の中で実践を積み重ね、指導者としての手応えを少しずつつかんでいるような状況だったと思います。それに対して、子供たちもおもしろがって学習活動に取り組んでいたのですが、一方で、他の先生方から見ると、私のクラスはガチャガチャと落ち着かない雰囲気に見えていたでしょう。

実際、5年生を担任しているときのこと、学習発表会に向けて毎朝、早く来て演劇の練習をしていた子供たちが、月曜日の全校朝会のときにもその衣装のまま校庭に並んだことがありました。朝会後、校長先生から「高学年なのだから、ああいったことはダメだ。6年生のA先生の指導を見習いなさい」と叱られ、落ち込んだのを覚えています。先輩の中には、「学年としての一体感や意欲の高さは下級生の憧れになっている」と励ましてくださる先輩方もいましたが、どこかふわふわとした子供たちの姿に指導者としての課題があったことは言うまでもありません。このように、子供たちの個性を生かし、「学びに向かう力」を伸ばすのは当時の私の良さだったと思いますが、どこかふわふわとしていたわけです。

当時は、それでもいいと思っていたのですが、後になって考えれば、授業での子供たちの姿も、発言の数や勢いはあっても、どこか思考が浅いところを行き来していて深まっていかない感じがあったように思います。車に例えるなら、ギアチェンジができていなかったんですね。車が平地を走るときは、高いギアでエンジンも回転数を上げないままスイスイと高速で走れますが、それが山に向かって急坂に差しかかると、ギアを下げて、エンジンの回転数を上げないと登ってはいけません。学習でもそのような解決し甲斐のある課題や問題に出合い、思考のギアを変え、頭をフル回転して高めていく場面が必要なのだと思うのですが、それがまだまだできていなかったのでしょう。

つまり、当時の私のような経験の少ない授業者としては、立ち止まることなく流れていくくらいの授業のほうが価値があると捉えていたので、表面的には落ち着いていて変化が見えないけれど、子供の頭の中はフル回転するような学びをつくり出せなかったのは当然かもしれません。それでも少しずつですが、実践を積み重ねていくうちに、子供自身が次第に立ち止まってじっくり自身の思考を省察することが大切だと考えるようになっていきました。

「板書は子供たちの思考を促進するためにあったらいいな」

校長先生からは先のように叱られたこともありましたが、一方で私が「こんなことをやりたい」と思うことは何でもチャレンジさせてくださいました。その学校は創設前の総合学習の研究校だったのですが、当時は数が少なかった若手に自由にやらせることで、研究と同時に学校改革も推進しようとされていたのだと思います。

私は、前任校での特別支援学級の担任時代から、子供たち一人一人の実態特性に合わせてカリキュラムをつくっていたので、その経験を生かして、異動初年度から総合学習は本当に自由に実践していきました。例えば、初の総合学習の実践は、「そばクラブを作ろう」という単元を開発して取り組みました。栽培からスタートしたこの実践では、子供たちが校内のあらゆる場所にそばの種をまき、栽培を試みたのですが、校内のあちこちから緑の芽が吹くといったこともありました。思うような収穫が得られないことが分かると、地域の方にそばの種をお分けして、その後それが実を結んだら学校に持ってきていただいて、一緒にひいて、そばを打つようなことをしました。

その際、図工や音楽専科の先生方と協力して、そば猪口を陶芸窯で焼いたり、そばのオリジナルソングを作ったりして、そばパーティー当日には、お世話になった方々をお招きし、披露しました。また、いつでも保護者の皆さんが学校に来て、授業が参観できるようにもしていました。総合学習創設前の平成11年に、そのように地域や保護者を巻き込んで取り組んでいたので、一部には少し白い目で見ているような先生もいたかもしれません。しかし、総合学習という、それまで誰も経験したことのない学習を創り出していく過程でしたから、「それはダメ」と上から抑え込むのではなく、学校全体で「それをやるには、どうしたらいいだろう」と一緒に考えてくださるような温かい雰囲気がありました。

このように実践を年々推し進め、次第に子供たちが立ち止まって熟考するような授業ができるようになってきました。子供自身が熟考し、自分なりの考えをもつと、「自分はこう思っているのだけど、あの子はどう思っているんだろう」と他の子の話を聞きたくなります。そこで、他の子が自分とは異なる意見を言うと、その別の視点からの意見を受けて、「ああ、自分の考えはこういうことだったのか」と自分の考えをより立体的に捉え始めるような子供たちの姿が見られるようになりました。そういう子供の姿をタイミングよく捉え、「いいね」と価値付けながら授業を進めていく中で、思考を深めていくような論点を大事にした授業づくりが大切だということにも気付いていきました。

ただ、この頃には授業の板書には本当に自信がありませんでした。それは板書というものが、子供たちが授業をきれいに記録するためのものだと思っていたからだと思います。保護者の方も、その板書を写したノートを見て、「ああ、ちゃんと勉強しているな」と安心すると先輩からも教えられましたし、それが期待される良い板書の漠然としたイメージでした。しかし、漠然とではありますが、それは自分が追究しようとしていた理想の授業とは明らかに乖離した感覚がありました。でもそのときは、それをどう改善したらよいか分かっていませんでした。

しかし、それから4年くらい実践を重ねた頃に、「板書は子供たちの思考を促進するためにあったらいいな」と思うようになり、現在の「思考ツール」の原型のようなものを取り入れた授業づくりに取り組むようになっていきました。最初は例えば、黒板に書かれた階層を示すラインの中でカードを移動させながら優先順位を決定したり、絵やイラスト、カードや写真、線や囲みなど、意思決定の場面を生じさせ、対話と相互理解が進んでいくようにしたりするなど、学習のねらいに合わせて積極的に取り入れていきました。

「板書は自信がなかった」と言う三田先生。次第に、子供たちの思考を促進するための多様な方法を取り入れていった。

次第に、KJ法のようなものやマッピングなども総合学習だけでなく、教科学習でも取り入れるようになりました。少しずつですが、そうした板書を取り入れることのほうが、子供の対話や思考の深まりに有効であるということが実践を通して分かってきたのです。

ちなみに当時、この学校の実践研究に指導に来てくださっていたのは嶋野道弘先生(元文部科学省主任視学官。当時、教科調査官)で、後に田村学先生(國學院大學教授。当時、教科調査官)にもご指導を受けることができました。まさに、この学校に異動したことで、今の私につながる総合学習の授業力の基礎を叩き込むことができたと思っています。

「探究のプロセス」が大事なのでは、と考え、理論も勉強

そのように感覚的に総合学習に取り組んでいたわけですが、この間、理論への興味も湧いてきました。当時、この学習の良さを自分の言葉で伝える力は備わっていませんでしたので、チャンスがあれば学ぼうと思っていました。

異動して5年目、ちょうど30代に入って間もなくの頃、社会科で区の学力向上調査研究員になりました。当時はまだ研究というものがよく分かってはいませんでしたが、1年間学校を離れ、区の教育センターで研究というものにどっぷり浸り、研究成果を発表できたことは自信となりました。次年度、念願の総合学習で東京都の研究員になったのですが、このときは担任をもちながら、研究と実践を並行して行いました。子供たちの思考を深める上で、「探究のプロセス」が大事なのではないかと考え、総合学習の理論についても勉強をし始めたのです。それまでは実践だけを追い求めて総合学習に取り組んでいたわけですが、そこで理論と実践を往還することの大切さを感じるようになりました。

さらに30代半ばで、総合学習の教員研究生になりました。こちらは先の研究員とは異なり、完全に現場を離れて東京都教職員研修センターの各課に配属派遣され、カリキュラムの開発研究を行うというものでした。そこで開発したカリキュラムは、所属校のクラスを借りて授業提案をするわけですが、やはり思考を促すための「思考ツール」を総合学習に取り入れ、「探究のプロセス」の中でいかに対話を促し、考えさせていくかを意図した研究を行いました。

ただ、総合学習に対しては、指導主事の先生方で専門的に学ばれている方はほとんどおらず、それに加えて、総合学習が決して追い風とは言いがたい時代でしたので、研究構想を説明しても授業提案を行っても、指導主事の先生方からは厳しい指摘を受ける日々でした。

実践研究の発表を行う三田先生。時代性もあり、厳しい指摘を受けることもあったと話す。

ましてや、「思考ツール」は当時、まだよく知られていませんでしたし、根拠となる資料も少ないため、「思考ツール」という言葉の使用は認められず、「思考を促す視覚的な支援としての板書の工夫」として言い換え、報告書をまとめることになりました。それでたくさん悩みはしましたが、とにかく指摘された点を一つ一つ改善していくことで、次第に理論的な穴がなくなり、より論理的な提案ができるようになっていきました。

そのようなタイミングで当時の上司が、私の提案授業を見に来てくださり、本気で語り合う子供たちの姿を見て、「これこそ本当の教育だ」と評価してくださいました。当時、思うように進まない研究に焦りを募らせ、心が折れそうだった私のことを察し、過大に評価をしてくださったのだと思いますが、それを機に大きく研究が前進したという思い出があります。

この当時、田村学先生が自戒の言葉であるかのように仰っていた、「相手に伝わらないのは相手の問題ではなく、自分の説明を分かりやすくするための仕方が悪い」という言葉が、悩む私の身に染みたことを思い出します。

今回は、2校目で総合学習の研究に取り組み、さらに研究員などを経験することで、実践だけでなく理論的な学びを進めていったことを紹介しました。次回は、外国籍の保護者をもつ子供が多くを占める3校目の学校で、より実践を深めていった過程などを紹介していきます。

【授業づくり&学級づくり「若いころに学んだこと・得たこと」】次回は、9月22日公開予定です。

執筆/教育ジャーナリスト・矢ノ浦勝之

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