人との出会いは時を越えて 「教師という仕事が10倍楽しくなるヒント~きっとおもしろい発見がある!~」#1
教師という仕事が10倍楽しくなるヒントの1回目のテーマは、「人との出会いは時を越えて」です。教師は多くの人と関わります。自分の人生以外にいろいろな人生とつながっていけることがすばらしいという話です。
執筆/吉藤玲子(よしふじれいこ)
帝京平成大学教授。1961年、東京都生まれ。日本女子大学卒業後、小学校教員・校長としての経歴を含め、38年間、東京都の教育活動に携わる。専門は社会科教育。学級経営の傍ら、文部科学省「中央教育審議会教育課程部社会科」審議員等様々な委員を兼務。校長になってからは、女性初の全国小学校社会科研究協議会会長、東京都小学校社会科研究会会長職を担う。2022年から現職。現在、小学校の教員を目指す学生を教えている。学校経営、社会科に関わる文献等著書多数。
目次
教師というすばらしい仕事
いつからでしょうか。教師に対してあまり夢が語られなくなったのは。そして昨今取り上げられている現場での教師不足の報道。教師関係では、なかなかいいニュースが入ってきません。確かに大変な仕事です。大学を出て教壇に立ったその時から、「先生」と呼ばれるのですから。多種多様な子供たち、保護者、地域の人、「人との関わり」が仕事と言っても過言でないぐらい、教師は多くの人と関わります。うまく関係が築けない時もあるでしょう、どうしてこの道を選んだのかと迷う時あるでしょう。
でも、私は、教師という仕事はすばらしいと思っています。自分も悩んで成長してきました。このコラムで、教師をやっていて辛くなった時、辞めたいと思った時、「ちょっと待って! この仕事、いいこともあるから続けてみようよ」というメッセージを現役の皆さんに送ることができたらと思っています。つたない私の教師経験ですが、何か皆さんのお役に立つことができたら幸いです。
教え子とのつながりが続く
教師という仕事は、担任をしていた時だけで関わりが終わってしまう場合もあるけれども、ずっと長く教え子との関係が続くこともあります。自分の人生以外にいろいろな人生とつながっていけることが私は教師のおもしろさだと思います。
小学校時代、大声で叱っていた子がオリンピック選手に
学校現場では、かなり前から準備をして応援体制を整えたTOKYO2020オリンピック・パラリンピック。実は、教え子が選手として出場するというので、私は、その種目の観戦チケットを何枚も買っていました。しかし、結局、新型コロナウイルスの感染拡大によって無観客の開催となり、残念でした。
その子は、小学校5、6年を担任した教え子です。彼は、お兄さんが始めていた水球というスポーツと出合い、努力してポセイドンジャパンのキーパーとなり、リオデジャネイロオリンピック・パラリンピック、TOKYO2020オリンピック・パラリンピックにレギュラーとして参加しました。私が勤務している学校へも、他のチームメイトとともに何度も来てくれました。「オリンピック選手と泳ごう!」というかけ声に、小学生の子供たちは大喜びでした。
日本の水球男子は、リオデジャネイロオリンピック・パラリンピックまでは、なかなか参加することもできないくらい弱かったのです。そもそも体型が海外の選手と日本の選手とでは違いすぎます。しかし、その差を瞬発力や泳ぐ速さで乗りきって、見事オリンピックへ参加した日本チームです。教え子が水球と出合っていなければ、私もその競技を応援することもなかったでしょう。
彼は、小学校時代、本当にやんちゃな子供でした。一緒に来校した他の選手からも、「先生、彼を教えるのは大変だったでしょう?」と言われました。広報のPTAが「小学校の思い出は何かありますか?」と聞いたら、「葡萄パンが嫌いで、先生にばれないように給食の時に机の中によく隠したりしていたんですよ」と答えていました。
移動教室では、夕食時に姿が見当たらないこともあり、大騒ぎになったこともありました。友達ともめて押し入れに隠れていたのですが、見つかるまでは我々教師はどこかに行ってしまったのではないかと不安でたまりませんでした。
今では日本を代表するオリンピック選手ですが、小学校時代は、よく私が彼を大声で叱っている声を聞いていたとその頃の教え子たちは言います。
このように、小学校の時だけでは、その子供の将来は分かりません。皆さんが、今、怒って関わっている子供も、20年後には成長した大人になっていることでしょう。自分を超えてすばらしい人生を歩んでいるかもしれません。ともかく一瞬一瞬を大切にした関わりがいつかは実を結んでくれると思います。
自分の才能を生かして歌手に
新型コロナウイルスの感染は続いていますが、コンサートなどは通常通り行われるようになってきました。教え子の1人にクラシカルクロスオーヴァーシンガーをしている女の子がいます。その教え子が3年ぶりに出演するコンサートに招待してくれました。
小学生の頃からピアノが上手で、作曲活動もしていた彼女は、自分の才能を生かし、歌手の道を歩みました。私が最後に勤務した学校の周年行事にも来てすばらしい歌声で難しい旧校歌を歌ってくれ、地域の高齢の方たちも大変喜んでくれました。
音楽活動をしている人たちにとっては、この新型コロナウイルスによる活動規制は大変なことだったでしょう。彼女も渡航や自分のステップアップの機会をあきらめるなど大変でした。でもそれを乗り越え、成長して歌っている彼女の姿に感動するものがありました。
学級のリーダーがそのまま社会でも役立つ1人に
私が結婚式を挙げた時に手伝ってくれ、長男を出産した時にも訪ねて来てくれた卒業生が何名かいます。その中の1人の彼女は、看護大学を出て、コロナ禍でも懸命に勤務し、大きな病院の主任にもなり、先日結婚しました。仕事と家庭の両立を目指してがんばっています。お母さんとはとてもよく似ていて姉妹のようでした。でも、お母さんは若くして癌で他界してしまい、その悲しみを乗り越えがんばって生きています。
私が担任をしていた時から、移動教室や毎日の生活の中でいろいろと助けられました。いわゆる学級のリーダーとなってみんなのことをよく考えてくれていたしっかり者の女の子です。そのままの前向きな姿勢と責任感をもって、社会でも役立つ1人となって活躍してくれています。今では、逆に私のほうが彼女から学んでいます。
子供に影響を与えた海外留学
私は、教師5年目が終わった時に、学術休職をして、ニュージーランドへ半年間行っていました。今ほど豊富な海外研修プログラムがない時代でしたが、どうしても海外の様子が知りたいのと英語の勉強がしたく、日本人が1人もいない町へ出かけ、ホームステイをしながらそこの地域の小学校や中学校で日本語や日本の文化を教えていました。
英語には多少自信があったのですが、それはすぐに打ち砕かれ、ネイティブの会話の速さとニュージーランド独特の英語に付いていくのが本当に大変でした。でもそこで得た経験を、その後、担任をした時に授業の中でいろいろと話しました。
1人の女の子は進学校に進んだものの、何か満たされず、高校生になる時にカナダの高校へ1人で学びに出かけました。「先生のように海外で生活し、いろいろ経験してみたい」と言われた時、一人っ子でもあるし、すぐに親御さんの顔が浮かび、どうしたものかと悩みました。しかし、親御さんが本人の意思を尊重してくれ、彼女はカナダに学びに行きました。
雑談がどれほど子供たちに影響があるかは分かりませんが、自分の人生から彼女が学んでくれたことは嬉しいことです。
年賀状のつながりは時を越えて
年を迎えると、毎年必ず教え子たちからの年賀状が届きます。その中に、教師生活の中で私が一度だけ任された1年生の担任時に受け持った男の子で、毎年必ず写真入りの年賀状をくれる教え子がいます。小さな子供だった写真がいつの間にか高校生になり、大きくなって社会人になり、結婚し、私が教えた当時のその子より大きな自分の子どもと一緒の写真が送られてくるようになりました。
今年、私も公立小学校を退職したので、メールのアドレスを付記したところ、すぐに返信が来て会うことになりました。メールには、「僕はもう47歳なので会っても分からないかもしれません」とありました。当時7歳だった男の子がもう47歳。時の経つ速さとともに、続いていた縁に驚くばかりです。
毎年届く年賀状もあれば、突然届く年賀状もあります。懐かしくなって母校に立ち寄って、私の住所を知り、便りを書きました、といった葉書も届きます。教師になっていなければこんなに年賀状を書くことはなかったと思いますが、1年に1度、教え子の思い出に浸れるのもよいものです。
他にもたくさんの教え子の人生とその家族について、私は書くことができます。それぐらい、人と結び付きが深くなれるのは、この教師という職業か、聖職者ぐらいしかないのではないでしょうか。
担任はほんの2年間です。短い時は1年間もあります。でもそこでの出会いを大切にして、人間関係ができれば、それがずっと続いていくのが教師の魅力です。また、おもしろいもので、担任の時はいい人間関係が築けなかったと思っていた教え子から、後になって突然連絡が来る時もあります。
私たちは、日々の対応に追われる忙しさの渦中にいると気付かないのですが、教育は決して1年で終わるものではありません。そう思って考えれば、少しは楽になりませんか? 小学校でやりきれなかったことは、中学校で花開くかもしれないのです。大きくなってから自分との関わりを思い出してくれるかもしれないのです。教師としての人との出会いを、ぜひ皆さんも楽しんでください。
構成/浅原孝子 イラスト/有田リリコ