明治天皇と五箇条の御誓文に学ぶ【野口芳宏「本音・実感の教育不易論」第14回】
教育界の重鎮である野口芳宏先生が60年以上の実践から不変の教育論を多種のテーマで綴ります。連載の第14回目は、【明治天皇と五箇条の御誓文に学ぶ】です。
執筆
野口芳宏(のぐちよしひろ)
植草学園大学名誉教授。
1936年、千葉県生まれ。千葉大学教育学部卒。小学校教員・校長としての経歴を含め、60年余りにわたり、教育実践に携わる。96年から5年間、北海道教育大学教授(国語教育)。現在、日本教育技術学会理事・名誉会長。授業道場野口塾主宰。2009年より7年間千葉県教育委員。日本教育再生機構代表委員。2つの著作集をはじめ著書、授業・講演ビデオ、DVD等多数。
目次
1 明治神宮と乃木神社参拝
言うまでもないが、日本の近代は明治維新によってその幕を開いた。明治維新は、開国、大政奉還、王政復古、身分制度の廃止、廃藩置県等々の革命的とも称すべき未曾有の改廃、転換、進展を具現した。その中心にあって終始最高の指揮をされたのが明治天皇である。その偉業によって、大帝とも、聖帝とも敬され、崩御の後にはその仁徳を長く顕彰し、記憶し、伝え残すべく国民は明治神宮を創建してお祀りし、今日に及ぶ。
3月21日、春分の日は終日冷雨が降り、およそ行楽日和ではなかったが、サークルの年に一度の「修養ツアー」に当てられていたので13人の仲間と参拝した。意外なことに、その悪天候にもかかわらず、神宮の参拝者は驚くほどに多かった。外国人も多かったが、3分の2は日本人だった。
1時間ずつ、私が明治天皇と乃木希典陸軍大将についての話をすることになっていたので、ここのところずっとこのお二人の偉業を読み続け、考えもし、学びもしてその席に臨んだ。今回は、明治神宮の参拝を通して改めて考え、確信した学びなどを「不易の教育論」として考えてみたい。
改めてつくづく思ったのは、「リーダーの重要性」ということである。秀れたリーダーの如何によって、国民の生活は大きく左右され、時に生死までをも決せられるからだ。
2 明治天皇の践祚(せんそ)は数え16歳
先帝孝明天皇の崩御は慶応2年12月。翌年の1月に明治天皇の践祚の儀、即位となるが、それは何と満15歳、今の中学3年生に当たる。失礼ながら少年天皇と申し上げるのがふさわしい。
時、まさに内憂外患、前途は一切不透明という国家の危機にあっての御即位である。しかも、一国の最高責任者という重大な任務を背負った御身である。その「重圧」の大きさは想像を絶するものがある。その日々は、恐らく一日とて心安らぐことはなかったのではなかろうか。しかも、その任は、即位されてから崩御の日までずっと続くのである。
私は校長になった時よりも、校長を辞めた時の方が嬉しかった。「これで気楽になれる」と思ったからだ。責任から解かれると本当に心が安らぐ。たかが小さな小学校一つの校長の責任でさえ、凡俗の身には重かった。不謹慎の謗りを免れず、また比すべくもない恐れ多いことだが、明治という時代の、それも天皇という地位の持つ意義と任務と責任が孕む重圧はいかばかりだったことかと、今更のように思う。そして、実に数え16歳というお若さである。この一事だけでも、明治天皇という方の偉大さを語るに十分であろう。
そして、明治天皇は、日本国の歴史的な期待と重責を一身に担われて、それらの全てを立派に、望ましく実践、完遂なされたのである。明治大帝、明治聖帝と称え、尊敬される所以である。
明治大帝と乃木大将について各1時間ほどその偉業について話したことについて、仲間からは少々喜ばれ、率直に嬉しかった。「全く知らなかった」「名前や言葉ぐらいは知っていても、その偉業については初めて知った」「本当に参加してよかった」というような反響だった。実は私とて同様なのだ。話を頼まれたので改めて勉強の機会が与えられ、そのことによっての収穫である。「知る」ことの大切さ、「知識、情報」を入手する楽しみ、価値等について、改めて思うことがあった。「不易の教育論」の体得は、まず教師自身が自ら学ぶことを前提とする。「学びつつある教師のみ、人を教ふる権利あり」(ジェステルリッヒ)という格言を初めて聞いた新採の頃の感激を反芻している。
3 重要な事の御陵墓への奉告
慶応3年10月14日、第15代将軍徳川慶喜は、政権(大政)を朝廷に返上(奉還)する。明治天皇は、まずこれを父帝孝明天皇の御陵に勅使を発遣して奉告されている。
大政奉還という歴史的事実は教科書に載っているが、孝明天皇陵への奉告までは書かれていない。だが、これこそが、天皇制が世界に例のない、2000年を超えて一系の伝統を守り続けている原点だと私は思う。これらは力のある担任が補い教えたいことだ。
明治天皇は、践祚されて1年後の明治元年(慶応4年)1月に御元服をされ、2月には、神武天皇陵に勅使を発遣し、御元服を奉告されている。常に、「諸事神武創業の始」に立ち返ること、肇国、建国の原点を尊ぶことを守られている。これは、革命によってそれまでの歴史を切り捨ててしまった西欧の革命とは太い一線を画することであろう。五箇条の御誓文が神前に誓う形をとっていることと軌を一にする精神と言えるであろう。後年、明治37年、天皇は次の御製をもって胸中を吐露されている。
橿原の宮のおきてにもとづきてわが日本の国をたもたむ
「橿原の宮」は、神武天皇が即位された宮殿である。上の句は「肇国の志に従って」、下の句は「この国を作っていこう」の意である。敬神崇祖の念こそが、日本国が連綿と続く原点とも言えるのではなかろうか。
4 維新の根本精神の明示 ー五箇条の御誓文の意義ー
明治元年3月14日「五箇条の御誓文」が天地の神々に天皇が誓う、という形で国民に示された。明治新政府の根本方針である。
明治天皇が「京都御所の紫宸殿に公卿、諸侯、百官を率い天地神明に誓う形で発表された」(『山川日本史小辞典』)とある。
まずは、明治新政府の「根本方針」を5項目に絞り、明示したことの意義についてである。開国と王政復古については、実に様々の立場、考えによってその判断には大きな違いが生ずる。下手をすれば四分五裂の内乱も招きかねない。その時にあって「根本方針」を明示して人心の団結を図ったことが、極めて大きな価値を持つ。
第二に、それを「誓文」という神々に誓う形で示したことの意義についてである。全知全能の神に対しての誓いという発想は極めて重大かつ深重である。人間は、立場や出自や利害によって考え方が様々に変わり、それらの一致は至難のことだ。だが、「神に誓う」となれば、大方の考えの一致は成るであろう。権力者の命令や指示とは大きく異なるという点に注目したい。
第三に、その内容である。激動と先行きの不透明という中にあっての「五箇条」の集約はどんなに困難なことであろう。現今の日本ではおそらく不可能ではあるまいか。五箇条の御誓文が、22年後に成立する「大日本帝国憲法」の前提となったという考えがあるようだが、それは当然のことと思う。
そして、最後は、同日に示された「明治維新の宸翰(しんかん)」の意義である。『明治の御代』(勝岡寛次著、明成社)に「同日、明治天皇が天地神明に誓われた『明治維新の宸翰』によれば」とあるのみで、この宸翰自体について調べようとしたのだが、未だに資料がない。どなたかご教示願えれば幸いである。
さて宸翰の中の文言を孫引きすると、
今般朝政一新の時にあたり、天下億兆、
一人もその処を得ざる時は、皆朕(ちん)が罪なれば、今日の事、朕自ら身骨を労し心志を苦しめ、艱難の先に立ち(中略)親(みずか)ら四方を経営し、汝億兆を安撫し、遂には万里の波濤を拓開し、国威を四方に宣布し、天下を富岳の安きに置かんことを欲す (現代表記に一部改)
となる。これについては、著者の勝岡寛次氏の次の言葉を引きたい(共にp.28)。
──もしそれが出来ないのであれば、何とそれは天皇自身の罪である。だから、天皇は労を惜しまず自分に鞭打って、天下を安んずるために努力するのだという、驚くべき意味のことが述べられています。
上からの指示、命令ではない。これも天皇の神への誓いである。明治という新しい時代を切り拓くトップリーダーとしての、国民に対する何と慈愛に満ちた言葉であることか。君主としての心構えが、常に「国安かれ、民安かれ」という大御心の一点に向けられていることが、ひしひしと伝わってくるではないか。
5 五箇条の御誓文の内容
本文は次の通りである(現代表記)。
一 広く会議を興し、万機公論に決すべし
万機=政治上の多くの重要事項
公論に決す=公平な議論によって決定していくということ
これは、民主主義の根本である。日本の民主主義はここにその嚆矢があると見てよいだろう。敗戦による誕生ではない。
一 上下(しょうか)心を一(いつ)にして、盛んに経綸を行うべし
上下心を一にして=上下の別なく国民は心を一つにして
盛んに=積極的に、進んで
経綸を行う=国家を治め、整えること。治国済民の方策
一 官武一途庶民に至る迄、各(おのおの)其(その)志を遂げ、人心をして倦(う)まざらしめん事を要す
官武一途=文官も武官も一つになり
志を遂げ=それぞれの希望に向かって
人心をして=人々の心がけを
倦まざらしめん=怠けることのないように
事を要す=そのようにする必要がある。怠けたりしない
一 旧来の陋習(ろうしゅう)を破り、天地の公道に基づくべし
陋習=悪い習慣。陋は、低い。卑しい
天地の公道=誰が見ても納得のいく、人間らしい品格
「陋習を破り」は、行き過ぎた欧化思想崇拝による軽薄の風を招いた弊害も一部に生じたことがある。
一 智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし
智識=知識に同じ。認識と理解
皇基=天皇が天下を治める事業。またその基礎。この文言は当時のものであり、現在の国政に当たる。
振起すべし=振るい起こす。盛んにする
原文は歴史的仮名遣いで仮名は片仮名を用いている。極めて簡潔な表現であり、用語には難しいものもあるが、内容は平明、直截である。
昭和21年元旦、昭和天皇は「新日本建設に関する詔書」で次のように述べられた。
「茲(ココ)ニ新年ヲ迎フ。顧(カエリ)ミレバ明治天皇明治ノ初国是トシテ五箇条ノ御誓文ヲ下シ給ヘリ。曰ク。(誓文部分省略)叡旨公明正大、又何ヲカ加ヘン。朕ハ茲ニ誓ヲ新ニシテ国運ヲ開カント欲ス。須(スベカ)ラク此ノ御趣旨ニ則リ、旧来ノ陋習ヲ去リ、民意ヲ暢達シ云々」
御誓文は、終戦後も引き続き日本国民の指針として揺るぎなく堂々と生きたのである。
執筆/野口芳宏 イラスト/すがわらけいこ
『総合教育技術』2018年5月号より