師を戴き、師を仰ぐ ー学びの原点はそこにあるー【野口芳宏「本音・実感の教育不易論」第9回】
教育界の重鎮である野口芳宏先生が60年以上の実践から不変の教育論を多種のテーマで綴ります。連載の第9回目は、【師を戴き、師を仰ぐ ー学びの原点はそこにあるー】です。
執筆
野口芳宏(のぐちよしひろ)
植草学園大学名誉教授。
1936年、千葉県生まれ。千葉大学教育学部卒。小学校教員・校長としての経歴を含め、60年余りにわたり、教育実践に携わる。96年から5年間、北海道教育大学教授(国語教育)。現在、日本教育技術学会理事・名誉会長。授業道場野口塾主宰。2009年より7年間千葉県教育委員。日本教育再生機構代表委員。2つの著作集をはじめ著書、授業・講演ビデオ、DVD等多数。
目次
1 師に出会い、師に学ぶ
某日、国立新美術館で開かれた「一陽展」という美術の展覧会に誘われて楽しんだ。500点を超える絵画、彫刻、版画の大作揃いで壮観であった。断然絵画作品が多く、水彩、油彩、パステル、鉛筆画等々が会場を圧している感があった。圧倒される迫力に息を呑む思いだった。
一陽会は昭和30年に設立し、ざっと60年の歴史を有する美術団体であり、その幹部を務める友人に招待されて参上した。友人はいくつかの絵画教室を持ち、プロを目指す新人を指導しつつ、本人も旺盛な制作活動を続けている立派なプロである。
その彼に案内されて全会場を廻ったのだが、いくつかの入賞作品が、彼の教室から生まれていて心を打たれた。彼の教室で学ぶ者は30代から80代までと多彩、多様の人材が学んでいるということだった。私が心を打たれたのは、個々の入賞作品というよりは、「師を持ち、師に学ぶ」という昔ながらの修業の在り方と、その価値についての新たな確信ができたということであった。彼が教えてくれたいくつかの入賞作品は、もし、彼に出会うことなく、指導を受けることがなければ、入賞の栄は多分受けられなかったであろうと私は考えている。
日本の初代総理大臣となり、四度の組閣をし、韓国統監を務め、ハルビンで安重根によって暗殺された伊藤博文は、長州藩士で松下村塾に学び、吉田松陰の大きな薫陶を得て長じている。松陰門下からは高杉晋作、久坂玄瑞、品川弥二郎ら数多の逸材を輩出し、彼らは我が国の近代化を推進した。
その師、吉田松陰は、江戸に出て佐久間象山に洋学を学んで後、海外事情に強い関心を持ち、見識を高め、日本の近代化をリードした逸材として広く知られている。
松陰の師、佐久間象山は、信州松代の藩士で、儒学を佐藤一斎に学び、後に蘭学を修めオランダの自然科学書、医書、兵書などを読破、洋学に精通し、勝海舟、坂本龍馬、吉田松陰らの俊秀を育てている。
この佐久間象山を教えた師匠佐藤一斎は名だたる儒学者だが、一斎もまた中井竹山、皆川淇園、林述斎という大学者を師として学んだのであった。
このように見てくると、師から学ぶことなくして大成した偉人、傑物は一人としていないであろうことが分かる。どんなに偉い人、立派な人も、ある時期はひたすら師に付いてひたむきに学んでいたのである。
「師を持ち、師に学ぶ」という言葉がある。私の大好きな言葉の一つで、私もまたその具現に努めてきた。私は、本当に「師に恵まれた」と心の底から思っている。
私の直接の師を挙げれば、東京帝国大学医学部の俊英だった名内科医の平田篤資先生、書道家の齋藤翠谷先生、国語教育者の高橋金次先生の三方である。もはや三方ともにこの世の人ではない。現在の私の師は、隣の富津市の外科医、俳人、モラロジアンの三枝一雄先生である。三枝先生に師事してざっと20年余りになる。今も毎月一度、我が家に御枉駕いただいて御指導を仰いでいる。
「師事して」と書いたが、「師事」というのは、「師としてつかえ、教えを受ける」ことである。「つかえる」は、「仕える」とも「事える」とも書いて、「身近にいてその人の用を足す。奉仕する。かしずく」ということである。
ここに必須の条件は、「尊敬」と「信頼」の二つであろう。「師事する」というのは、「師を尊敬し、心から信頼して仕える」ことであり、そこには「疑い」や「無視」や「反抗」などは微塵もない。ひたすら、師を尊敬し、師の一言一句をも聞き洩らすまいと、虚心になり、無心になって学ぶことが「師事」である。
2 未熟の自覚が師を求める
私は新米の小学校の教員として出発してから定年までの38年間、小学校という現場でのみ過ごした。定年退職後に、図らずも北海道教育大学の函館校に国語教育の担当教授として勤務することになった。
当然のことながら、私は初めて大学教員として務めることになったので、小学校の教員と大学の教員とではどんな違いがあるのだろうか、ということに関心を持った。
私なりの観察によれば、次の三つのことが違いとして認められることになった。大学教員は、①多くが師を持ち、今も師に学んでいる。②土、休日もかなりの教員が大学に来ている。③簡単に納得せず、とことんつきつめて考える。
小、中学校の教師のほとんどは、①師を持っていない。②土、休日は学校には行かない。③物分かりがよく、簡単に歩み寄る。
この三つの中で、最大の違いは①の「師を持ち、師に学ぶ」という姿勢の有無だと私は思う。とりわけ、書道、声楽、ピアノ、彫刻、絵画などを専門とする教員は、大学の教員になっても旧師からレッスンを受けたり、作品についての指導を受けたりする学びを続けている。
また、大学の教員は、そのほとんどが何らかの「学会」に属して自分の研究を発表し、評価を受けている。「学会」というのは「学術会議」の略語である。そこでの討論や議論は極めてアカデミックなものであり、年功や序列はひとまず外した発言が飛び交う。小、中学校での「研究協議会」とは大きく異なっている。
小、中学校の教師の中でも心ある教師は、現場の当たり障りのない形式的発言に終わる協議会に強い不満を抱いているようだ。その点では大学人研究者による学会は大いに魅力的である。
その基底にあるのは「真理への探究」という謙虚さであり、もっと高まりたいという求道心であろう。それは「師を持ち、師に学ぶ」という心に通ずるものである。
文豪吉川英治は「我以外皆我師」という名言を残している。「師がいない」「師を持たない」場合には、「自分より上の人がいない」ということになり、それはともすると「お山の大将俺ひとり」という思い上がりに傾きかねない。
自分の力不足を知る謙虚さが、自分を伸ばす原点であることを改めて共通確認をし合いたい。
3 師を敬し、師を仰ぐ
どんな偉大な人も、例外なく「師を持ち、師に学ぶ」という体験を潜って長じているのだという事実を先に述べた。この事実こそが実は教育という営みの「不易の姿」なのだということが言いたかったのである。
小学生も中学生も、そして幼稚園児でも「師を持ち、師に学ぶ」ことが肝要だという不易の「教育の形」は同じなのである。
相当の、あるいは常人をはるかに超える高い学力、知力を持つようになってさえ、「師に事え、師に学ぶ」ことを、研究者や求道者は忘れない。そしてその心は、「尊敬と信頼」に貫かれ、あくまでも「師の教え」を仰ぎ、従うことで一貫している。
これは、見方によれば、服従であり、従属であり、他律的であり、一方的であり、注入的であり、絶対的であり、明確な上意下達であり、しかもそれが決して崩れはしない。
聞いた話だから、その真偽の程は分からないが、医学部で学ぶ医学生には全ての教科目が必修であり、選択科目は無いそうである。また、教授の考えに逆らうなどということは毛頭考えられず、絶対服従というのが常態だそうだ。
そのようなことは、実は、スポーツの世界でも、武道の世界でも、古典的な芸道の世界でも同じである。「師を敬し、師に服す」ことによって初めて物事の根本、基本、基礎が習得できるのである。
このような「学びの段階、階梯」を示すのが「守・破・離」という三過程である。「守」は、徹底的に師の教えを受容し、身につけることである。師の心、師の技、師の考えを全て身につけた時、「免許皆伝」ということになる。そういう基礎が徹底して身についたその後に、自分に合うような若干の改善や工夫を加えるのが「破」の段階である。「破」は、十分に基礎を習得した上で初めて許される「改善」「改変」「工夫」である。「破」に挑む初期はぎこちなく、未熟で、頼りなく覚束ないことだろう。
だが、そこで諦めることなく不断の精進と努力を重ね、改善したことが自由自在に活用できるようになれれば、「離」の境地ということになる。
以上述べていることは、至極当然のことであり、奇異や独自性や目新しさがある訳ではない。それが「不易」ということだ。
4 師恩を仰ぐ心の再生をこそ
さて、改めて小学校や中学校の現場を包み、覆っている教育思潮を思い浮かべてみたい。小、中学校の学校現場では、「教える」「教わる」という「不易の原理」が常に不評であり、排除される傾向にある。
「授業の主体は子どもである」とほとんどの教師が思っている。教師は子どもの後ろに回って、子どもの言うこと、することを大切にして「支援し」「援助し」、「子どもの主体性、自主性を最大限に尊重し」、「叱ったり」「禁止したり」「命令したり」しないで、なるべく「褒めて」「励まして」やるのがよいのだ、という子ども中心の考え方が支配的である。
ここには、「師を持ち、師に学ぶ」という考えは見られない。「子どもは無知、未経験、未熟な存在」なのだから、いろいろなことを教え、導き、正し、改め、鍛えていくべきだと筆者のように考えるのは駄目で、それは危険、不適切だということになっている。
昔の教育原理は至って単純、明快なものであった。私が小さい頃には「親の言いつけをよく守り、先生の教えをよく聞く」ということが、どこでも、いつでも、何度でも言われていた。子どもにとっては、親と先生は何ものにも替え難い「導きの師」であり、「二大恩人」なのであった。
さればこそ、卒業式には次のような唱歌が日本中で歌われたのだった。その歌の内容の正しさを誰も疑うことはなかったのである。私は今もこの歌詞の正しさ、美しさを信じて疑わない。不易の真理を説いているからだ。
仰げば尊し 我が師の恩
教の庭にも はやいくとせ
思えばいと疾し このとし月
今こそ別れめ いざさらば
互にむつみし 日頃の恩
別るる後にも やよ忘るな
身を立て名をあげ やよ励めよ
今こそ別れめ いざさらば
(以下略)
「三尺下がって師の影を踏まず」という、教育の根本的な師に対する尊敬の念が崩れ、教師が「先公」などと呼ばれ、「対教師暴力」も珍しいことではなくなってしまった。
この根本的な病巣にメスを入れることなく、子どもの「主体性、自主性、個性の尊重」を錦の御旗の如く掲げ続けてきたのが戦後の一貫した教育思潮である。
その結果、親を親とも思わず、先生を先生とも思わぬ、蒙昧、無知、不遜、未熟な我がままっ子が量産されている。へとへとになるほど頑張っている教師の努力の効果が芳しく反映されないのは、何か根本的な考え違いがあるからなのではないかと思われて仕方がない。
執筆/野口芳宏 イラスト/すがわらけいこ
『総合教育技術』2017年12月号より