ディベートで話し合いのルールを身につける【菊池省三流「コミュニケーション科」の授業 #10】


教師と子ども、子ども同士のコミュニケーション不足こそ今の学校の大問題! 菊池省三先生が、1年間の見通しを持って個の確立した集団、考え続ける人間を育てる「コミュニケーション科」の授業の具体案と学校管理職の役割を提示します。
第10回「コミュニケーション科」の授業は、<ディベートで話し合いのルールを身につける>です。
議論力
目次
議論力なくして対話力は身につかない
話し合いは大まかに、会話、対話、議論の3つのカテゴリーに分けられます。会話と対話に重点を置いた話し合いの授業は多く参観してきましたが、議論を中心にした授業はあまり見たことがありません。何人かが意見を発表し、あるいはグループで相談してまとめた意見を発表しておしまい、単なる意見の並べっぱなしです。せいぜい「○○さんの意見に反対です」と主張する程度で、相手の主張を掘り下げたり、再反論をしてどちらの意見が説得力があるかを考え合ったりするなど、反論のその先まで突き詰めていくことがないのです。
私は、対話の中に議論が含まれると考えています。議論力なくして対話力は身につかないからです。本当の対話は、単に意見を出し合うだけではありません。意見を出し合うことからスタートするのです。相手の意見を理解するために質問し、質問に対し説明する。それを繰り返し、納得解を導いていくものです。「相手に伝わればいい」なら単なる報告、「伝えて変えていく」ことが大切なのです。
多くの学級が「温かい人間関係づくり」を目標にしていることと思います。私自身も担任時代、ずっと目指してきました。しかし、話し合いの授業を見ていると、表面的で一面的に「温かい人間関係づくり」をとらえているのではないかと感じます。「温かい人間関係」と議論は、一見かけ離れているようなイメージを持つかもしれません。「反論は相手を傷つけることになる」と。そもそもそのとらえ方が間違いです。反論はあくまでも意見に対するものであり、相手の人格を否定するものではありません。信頼関係ができていれば、安心して自分の意見を出すことができます。同時に他者の意見を聞くことで、他者の思いを知ることになり、真の他者理解へとつながっていきます。温かい人間関係と議論は同時に育っていくものなのです。
話し合いを通して、強くしなやかな学び手を
議論力を身につけるためには、話し合いのルールを学ぶことが不可欠です。その基本型を学べるのがディベートです。ディベートは、意見の違いを明確化させます。自分たちが有利になる事実を挙げながら、相手の意見を批判していきます。ディベートを取り入れることで、次のような力が身についていきます。
①議論の見通しがもてる
話し合いというと、子どもたちは自分の意見を発表するものと考えがちです。それだけでは、他の意見に十分に耳を傾けることなく、ましてや自分の意見をもてない子は、話し合いそのものに参加しません。相手の意見を聞くことは、話し合いにとってとても大切なことです。
ディベートは、立論→質疑→反駁という流れで行います。相手を説得するには、どう言えばよいかを考える。どんな反論でくるかを理解するために、相手の話を聞く。必ず「相手」を意識するようになります。
また、自分の意見の後には必ず反論があり、答えなければなりません。この流れが身につけば、普通の話し合いの場でも突然の反論に慌てることなく、余裕をもって臨めるようになります。話し合いの流れを見通すことができるようになるのです。
②ルールのある話し合いの価値を学ぶことができる
ディベートでは、自分の主張を相手に納得させるために、「なぜそう言えるのか」という根拠が必要です。肯定側には立証責任が、否定側には反証責任があるのです。例えば、休み時間の校庭の使い方を話し合うと、必ずボール遊びをゴリ押しする男子が出てきます。主張する以上、「なぜ、ボール遊びが最重要なのか」「ボール遊びは、下級生を含めた全員で楽しむことができるか」(メリット)をみんなに立証しなければなりません。独りよがりの身勝手な要求は通じないことを、言い出した本人だけでなく、学級全体も理解するはずです。
ディベートでは立論者、質問者など全員が明確な役割を担います。このため、誰もが発表する機会が保障されることになります。さらに、意見を戦わせる2つの立場を客観的に判定して、勝敗を決めます。どちらの立場でもない第三者的なものの見方は、その後の様々な場面で生きてきます。仲がよい子や数が多い方に流されるのではなく、自分の意見を大切にし「人と意見を区別する」という考え方になっていくのです。
このように、ディベートを普段の授業での討論や話し合いにも意図的に活用していくと、中身のある話し合いができるようになっていきます。
ディベートの授業を行うと、「反論されたら傷つくのでは」「相手の意見を潰すのは教育的にどうか」と、抵抗を感じる教師も少なくありません。しかし、一般社会で反論や批判は当たり前です。健全な反論や批判は、健全な社会のためになくてはならないものです。「波風を立てたくない」「何倍も反論されるのが怖い」と黙るのは、自分の意見を捨てているのと同じです。
人と意見を区別するからこそ、話し合いは成り立ちます。傷ついたり仲違いしたりするのであれば、それは学級づくりのあり方に問題があるのではないでしょうか。
話し合いの授業と学級づくりは連動しています。強く、しなやかな学び手を育てる視点を常に持ち続けてほしいと思います。