「優秀で失敗しない若手」とは高評価? それとも問題提起?【全国小学校授業実践レポート 取材こぼれ話⑲】
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「最近の若い先生は優秀で失敗しない」というベテラン先生の評価
先日、とある自治体のベテランの先生に取材でお話を伺ったとき、教育雑談の中で、「最近の若い先生は私の若い頃よりも優秀で、そつがなく、失敗しない」と言っておられました。そこで、今回は失敗について少し考えてみたいと思います。
失敗を排除し、誤差を修正しながら学ぶ
実は、先の先生以外にも、最近の若い先生は、優秀な人が多いとおっしゃる先生は少なくありません。その一方で、「優秀だけれども冒険しない」とか、「失敗しないけれど、新しいことにチャレンジしない」とか、「新しいことを学ぶ姿勢が少ない」という声も、取材の際に耳にしてきました。もし、その通りだとすると、少し問題があるのではないかと思うのです。
以前、学習に関することについて、ある著名な研究者に取材をしたとき、その方は「人間を含めた哺乳類の脳の学習の仕方は、排除法の誤差学習だ」と話しておられました。排除法の誤差学習とは、ごく簡単に言えば、間違いや失敗を排除しながら、誤差を修正して学ぶということだそうです。その先生は「もちろん、ただ間違えたままでは、それは単なる失敗なのですが」とおっしゃっておられましたが、間違いを排除し、誤差を修正して正しい解決方法や解にたどりつくことで学んでいくというわけなのです。
とすると、「優秀で失敗しない」というのは、はたして良いことなのかということになります。もちろん、人間の大人なのですから、自分自身が失敗しなくても、他者の失敗をモデルにしながら学ぶことも可能でしょう。しかし、新しいことを学んでいくときには、自分自身が失敗をしたほうがより確実に学べるのではないかと思うのです。以前、「概念は教えられない」という学習に関する金言についてお話をしましたが、やはり、自分自身で試行錯誤してこそ、より大きな概念的理解が可能になるのだと思います。
明確なねらいがなく、表記方法を変えた若手先生の失敗にも意味がある
そう考えたとき、ある若い先生の研究授業での失敗が思い浮かびます。今から10年以上前、あるベテランの先生の研究授業を取材に伺い、その先生の授業の講評を拝見したときに、同時に行われた別の若い先生の研究授業の講評も拝見したのです。
その若い先生は低学年の国語の授業をされたようなのですが(授業は拝見していません)、最初に指摘されたのは、配付されたワークシートに書かれた、教材文の表記の問題点でした。その先生は、教材の表記そのままではなく、わざわざ1語ずつ間を空けて書いていたのです。
それは(低学年の教材ではありませんが)例えば、『ごんぎつね』の一節を使うならば、次のような表記になるわけです。
ある秋のことでした。
↓
ある 秋 の こと でした。
このような表記の仕方で、教材の全文が記されているわけです。当然、指導の先生は「どういうねらいで、教科書とは異なる表記にしたのですか?」と問います。すると、その若い先生は困ったような顔で考え込み、結果的には、はっきりした理由はないというようなことを答えておられました。
それを見ていた私は、そのときは「なぜ理由もなく教科書とは違う表記にしたのかな。ちょっと変わったことをやってみたいと思っただけなんだろうかな。意味のないことを…」と思ったのです。しかし今、この年齢で考えてみると、そのような明確のねらいのないチャレンジと失敗も、ある点においては意味があるのかもしれないと思うのです。指導の先生が、「どういうねらいで、異なる表記に…」と問われているということは、明確な「ねらい」があれば、教科書とは異なる表記にすることもあり得るということなのですから。
逆に、「教科書の教材はそのまま使うべきもの」と思い込んで授業をしていると、大きな失敗はないかもしれません。しかし、教材を加工することで、子供に多様な気付きを与えるような授業を考え付くことはできないでしょう。実際に、国語のベテランの先生方の中には、教材文を加工することで、子供たちにねらいに沿った気付きを与えるような授業を工夫されている方々もいらっしゃるのですから。
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昔から、「鉄は熱いうちに打て」と言われますが、ある事柄について学び始めた初期にたくさん多様に失敗したほうが、学びは進んでいくのです。その詳しい根拠については、また別の機会にできればと思いますが、若い先生方も子供たちの学びを促し、育てるという仕事を学ぶための初期段階にあります。そのときに、どれだけたくさん多様な失敗をできるかが、今後の先生方の成長につながっているのだということを、ぜひ覚えておいていただきたいと思うのです。
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執筆/矢ノ浦勝之