【指導のパラダイムシフト#27】主体的な学びを学ばせる②認めること、フタを外すこと


「主体的な学習者の育て方」について考え続けている本連載。前回のテーマ「自信の育て方」に引き続き、今回は「子供の学びをどう認めるか」「自らの主体的な学びにフタをし、教師や親にバレないようにしている子供たちにどう向き合うか」について考えていきます。
執筆/京都橘大学発達教育学部児童教育学科教授・池田修
北海道函館市立万年橋小学校教諭・藤原友和

池田 修(いけだ・おさむ)1962年東京生まれ。国語科教育法、学級担任論などを担当。元中学校国語科教師。研究テーマは、「国語科を実技教科にしたい」「楽しく授業を経営したい」「作って学ぶ」「遊んで学ぶ」です。ハンモッカー。抹茶書道、ガラス書道家元。琵琶湖の話と料理が得意で、この夏は小鮎釣りにハマってます。

藤原友和(ふじわら・ともかず)1977年北海道函館市生まれ。4年間の中学校勤務を経て小学校に異動。「ファシリテーション・グラフィック」を取り入れた実践研究に取り組む。教職21年目の今年度は、教職大学院で勉強中。教師力BRUSH-UPセミナー、函館市国語教育研究会、同道徳研究会所属。
学習者主体の学びの授業をデザインしたとして、主体的な学びができる学習者に育っている児童・生徒は、じつはそんなに多くはない。
そうだとしたら、主体的な学習者に育てる指導が大事になるのではないだろうか。そのためには、最初に自信を持たせることが大事だとして、その方法について前回は述べました。
主体的な学びに向かう学習者に育てるためにはどうしたらいいのでしょうか。さらに考えを進めていきましょう。
目次
子供のやっていることを認める
一番最初に指導者が考えることは、「子供のやっていることを認める」ということではないかと思います。
学校教育において、教師は、教科教育を教え、児童・生徒は、それを勉強します。これが教師主体の学習だということはすでに述べてきました。
平成20年度版の学習指導要領までは、これが中心でした。このことで、学校での勉強はこれが全て、という思い込みが出来上がってしまっていたのではないでしょうか。それが証拠に学習者主体のものであったはずの総合的な学習の時間が、本来の趣旨の通りに実施されている学校は非常に少ないのではないでしょうか。
人は、生まれてから生きていく中で、勝手に学んで身に付けていくものがたくさんあります。話す・聞くはその最たるものかもしれません。日常生活に必要なレベルの話す・聞くは、小学校に入る前にできるようになっているものです。
また、子供はいろいろなものに興味を持ちます。電車、国旗、魚、自動車、ゲーム、アニメ、アイドル、歌手、楽器、ファッション、スマホ、アプリ……。親や教師が知らないものについて、驚くほどの情報を持っていることがあります。これは、親や教師が「身に付けなさい」と指示したものではありません。子供が勝手に自分で身に付けていったものです。
この子供が勝手に自分で身に付けていくことを、学んでいることなのだと、親や教師は認める。ここから始めたいと思うのです。とは言え、教科教育の勉強が勉強であって、それ以外は遊びや趣味、という考えがなかなか抜けないかと思います。しかし、ここを認めるところから始めたいと思うのです。
子供が勉強をするとき
子供たちは、なぜ勉強をしないのでしょうか。
また、突然大胆な質問ですね(^^)。
逆に言えば、どういうときに勉強するのか、と考えてもいいかもしれません。
考え中考え中 考え中考え中 考え中考え中 考え中考え中 考え中考え中 考え中考え中 考え中考え中 考え中考え中 考え中考え中 考え中考え中 考え中考え中 考え中考え中 考え中考え中 考え中考え中 考え中考え中 考え中考え中 考え中
私は、次の二つのうちのどちらかがあるとき、子供は勉強をするのだと考えています。
1. 必要なことを手に入れることができるとき
義務教育の勉強の必要性を、子供たちに感じさせることは、とても難しいと思います。その必要性を理解するのは、社会人になってからでしょう。かつては、
(を、先生が、必要だと言っているなら、よくわからないけど、勉強しておこう)
と思って勉強する子供たちも割と多くいたと思います。
しかし、未来が不確実な今の世の中で、「未来にとって必要だから勉強しておきなさい」と言われても、さて、どれぐらいの子供に届くでしょうか。この必要サイドから迫るというやり方は、資格試験のために勉強するという大学生には有効かもしれませんが、小中学生にはなかなか厳しいものがあるのではないでしょうか。
2. 興味があることをやれるとき
簡単に言えば、
(なんか、面白そうだな。やってみたいな)
と思えたとき、子供たちはやり始めます。本来なら、学ぶ内容に興味を持つのがいいのですが、そうでなくても、ゲームっぽいからやってみたいとか、好きなアイドルが好きって言っていたからやってみようかな、のレベルでもいいのです。そして、「内容そのものが面白い」に辿り着けばいいのですから。
私が中学生の頃に読んだ『ムツゴロウの青春記』(畑正憲 文春文庫)に、ムツゴロウさんが英語の家庭教師をしていたときの話が書かれていました。
英語が全くダメな生徒の家庭教師をしたムツゴロウさんは、その子供が熱帯魚好きであることを知り、英語で書かれた熱帯魚の専門書を与えたというのです。子供は、熱帯魚のことが知りたくて英語を読んでいき、どんどん実力を付けていった、という話です。
このケースは、必要性と興味とが重なっている非常に良い教材を与えた、好例だと思います。ムツゴロウさんは、優秀な家庭教師だったからその子をよく見て、それら二つがある教材を与えることができたのでしょう。
実際の子供は、この二つを兼ね備えたものに取り組んでいない場合が多いと思います。親や教師から見て、(それ、なんの必要があるの?)と思えることに熱中していることがほとんどだと思います。私が担当した生徒の中にも、こんな生徒がいました。
夏休みの自由研究で「緑青は本当に毒か」というテーマで、緑青を少しずつトカゲに与えて観察し、記録をとってまとめて発表した生徒。愛読書は『丸』で、自衛隊のすべての軍艦の総排トン数を暗記していて、年賀状はモールス信号で送ってきた生徒。本など全く読まないのにドラクエの攻略本は読み込み、「召喚」などの漢字も理解するようになった生徒などです。
私自身、家にあった田河水泡さんの漫画『のらくろ上等兵』で、歴史的仮名遣い、旧漢字を小学校の高学年でマスターしてしまいましたし、イギリスのロックバンド、QUEENの歌詞で英語学習をしていましたし、さだまさしさんの歌で「な~その禁止表現」など古典の基礎をいつの間にか身に付けていました。これをやっている時は、もちろん、誰もほめてくれませんでした。むしろ母の幸子には、
「修、そんなことやってないで、家のこと手伝いなさい」
と叱られてばかりいました(^^)。
だから私は、上記の生徒たちを愛しました。
(ああ、この子たち、親に叱られているか呆れられているんだろうなあ)
と思いながら(^^)。
でも、私は、この生徒たちが自分でテーマを見つけて学んでいることを理解していましたので、認めていました。
その当時は、東京の中学校で教師をしていましたが、もし、今そういう生徒に出会ったら
「おもろいことしてるなあ」
と認めることでしょう。