【指導のパラダイムシフト#23】「学習観のチグハグ問題」の解決に向けて〜主体的・対話的で深い学びから考える①
前回で考察したとおり、指導者の学習観と学習者の学習観が異なるまま授業を進めた場合、その授業はチグハグなものになってしまいます。目の前の授業を見誤らないようにするため、指導者はどうすればよいのでしょうか。その課題について考える入り口として、今回はまず「主体的・対話的で深い学び」について考えていきます。
執筆/京都橘大学発達教育学部児童教育学科教授・池田修、北海道函館市立万年橋小学校教諭・藤原友和
池田 修(いけだ・おさむ)1962年東京生まれ。国語科教育法、学級担任論などを担当。元中学校国語科教師。研究テーマは、「国語科を実技教科にしたい」「楽しく授業を経営したい」「作って学ぶ」「遊んで学ぶ」です。ハンモッカー。抹茶書道、ガラス書道家元。琵琶湖の話と料理が得意で、この夏は小鮎釣りにハマってます。
藤原友和(ふじわら・ともかず)1977年北海道函館市生まれ。4年間の中学校勤務を経て小学校に異動。「ファシリテーション・グラフィック」を取り入れた実践研究に取り組む。教職21年目の今年度は、教職大学院で勉強中。教師力BRUSH-UPセミナー、函館市国語教育研究会、同道徳研究会所属。
目次
第23回のテーマは 「学習観のチグハグ問題」の解決に向けて
連載の第22回では、学習観に関する池田モデル(2014)をもとに、客観主義の学習と社会構成主義の学習を説明しました。また、この二つの学習は、指導者と学習者が同じ主義の下で授業を行なっているときには問題はないが、指導者と学習者が違う主義の下で授業をしたり、受けたりしているとチグハグになるという「チグハグ問題」を指摘しました。
今回からは、それを受けて、このチグハグ問題が起きないように、目の前の授業を見誤らないようにするためにはどうしたらいいのかを考えていくことにしましょう。
そのためには、まず「主体的・対話的で深い学び」*1を考えてみることにします。
(えっ、なんでいまさら「主体的・対話的で深い学び」をやるの)って思われましたか? そうですよね、もうずいぶん言われていて十分分かっているかと思います。ただ、この「主体的・対話的で深い学び」を勘違いしている方も私は見かけます。そして、その勘違いは、チグハグ問題につながっているなあと考えています。
少しお付き合いください。
Q1. 次に示すのは、訂正の必要な話です。どこがおかしくてなぜおかしいのかについて考えてください。
Q2. また、どこを訂正すべきなのか、実際の話を考えてみてください。
訂正の必要な話の例
場面は、中学校一年生のとある教室です。今日は、入学後のオリエンテーションも終えて、いよいよ一学期の授業が始まる日です。教科担任の先生は、挨拶、自己紹介を終えた後、こんなふうに話し始めました。
「さて、これからいよいよ中学校での授業を始めていきます。皆さんは知っているかどうか分かりませんが、日本の学校の授業は学習指導要領というものに基づいて、教える内容が決まっています。そして、平成29年度から始まった今の学習指導要領では、どのように学ぶことが大事なのかということも示してあります。それには、『主体的・対話的で深い学び』が大事だと書かれています。
主体的に、対話的に、深く学んでいきましょう。それには、先生が指示したことは自分から進んでやることですし、分からないことがあったら手元にあるタブレットですぐに調べ、友達と話して、じっくりと学んでいくことが大事です。さ、頑張っていきましょう」
あなたの考え
A1.
A2.
どこがおかしい、なぜおかしい
授業開きを行うことはとてもいいことです。なぜ、授業開きをすることがよいのでしょうか。それは、意欲的に学べるからです。別の言い方をすれば、授業に関する余計な誤解を生まなくて済みますし、学習者の無駄な努力を減らすことができるからだと私は考えています。
私は、授業開きでは次のようなことを話していました。
・この授業はなぜ行う必要があるのか。
・この授業の目的は何か。
・この授業の目標は何か。
・この授業の受け方はどうするのがいいのか。
・この授業で学習者に期待することは何か。
・この授業で指導者に言っておきたいことは何か。
などを確認しておきました。
そして、この授業がいかに君たちの人生にとって、社会をよくするために大事なものなのかということを話すようにしていました*2。そのことをあらかじめ話すようにしていました。
授業において、というか、生徒と接する時に大事なことの一つとして「後出しジャンケンをしない」というものがあると考えています。活動を始めてからルールを急に変更することや、評価の観点を隠しておいて後から示すことなどです。学習者は、これをされると一気に学習の意欲がなくなります。
(んだったら、最初から言ってくれよ)
となる訳です。
だから、最初に示しておくことはとても大事です。そういう意味で授業開きをする先生は、いいと思います。
が、この内容はどうなのかなあと思う訳です。
ま、中学校一年生が聞いたところで、通じないだろうなあと(^^)。
(な、なんか、難しいこと言っているな。大事そうなことだけど、難しくてわかんないな)
となるでしょう。
1.主体的に、対話的に、深く学んでいきましょう。
ここの説明は確かに話し言葉では難しいですね。ですが、「主体的に、対話的に」と言ってしまうと、「主体的」が主で、「対話的」が従の関係に読めます。
2.それには、先生が指示したことは自分から進んでやることですし、
これは正しいように聞こえますが、違いますね。
3.わからないことがあったら手元にあるタブレットですぐに調べて、
GIGAスクールで、生徒1人に1台のデバイスが配られました。これはとてもいいことです。すぐにインターネットで調べることができます。しかし、これは同時に大きな落とし穴を用意してしまいました。分からないことがあったらすぐに調べることができるということは、たくさんの知識を身に付けなくてもいいんじゃないの? と思う子供たち、いや大人たちも生み出してしまいました。これは大きな誤解です。
4.友達と話して、
クラスの仲間と話をしてさえいれば、対話的であるとかアクティブ・ラーニングだと言われることがあります。しかし、それは違います。すでに答えがあるものをあれこれ話しても意味がありません。『竹取物語』で、蓬莱の玉の枝とはなんだろうかということをあれこれ議論しても、ほとんど意味はありません。それはテキストを読めば出てきますから。
5.じっくりと学んでいくことが大事です。さ、頑張っていきましょう
これ、何か説明していますか? 指示していますか?
では、どんな言葉をかければよかったのか
1.「主体的・対話的」というのは、そのような主従の関係ではありません。対等の関係です。「・」はそのような対等の関係を示すときに使われます。「主体的・対話的」にやって、深く学んでいきましょうということなのです。
もちろん、この言い方では不十分ですが、まずはこの関係であることを理解します。
2.主体的というのは、中学校一年生に向けて「翻訳」すれば「自分の頭で考えて、正しいことをしようとする自分であること」と私なら説明します。誰かの何らかの指示に無批判に従うことは、主体的とは反対の概念であるのではないでしょうか。
この「翻訳」の作業はとても大事です。大人になればなるほど、音読みで構成された熟語を使って説明するようになります。しかし、音読みは児童生徒の頭には残りにくいと考えた方がいいでしょう。キーワードの説明には、訓読みを使う。「自分の頭で考えて、正しいことをしようとする自分であること」。「自分」程度の、一瞬訓読みか? と思うぐらいの音読みなら使ってもいいと思います。説明の際には、ここまで言葉を吟味することが大事でしょう。
3.人間は頭の中にある知識と経験と身に付けた技術で問題を解決していきます。特に、課題にぶち当たったとき、考え続けたり、ぼーっとしたりしているとひらめいてアイデアが出てくることが起きます。有名なアイデアの定義に、アイデアとは、「既存の要素の新しい組み合わせ以外の何ものでもない」*3とあります。が、頭の中に入っていなければ、組み合わせようもないのです。この定義は、「既存の要素が頭に入っている人は」可能になるという前提があります。
インターネットは、外部脳です。そこにある情報は、人間の脳にある情報とは違って勝手に組み合わさることはありません。ひらめきません。iPhoneのSiriは「修さん、いいこと思い付きました!」と突然に提案をしてくれません(^^)。
さらに、調べればすぐに「答え」が出るので、今までならばその途中にあった、ちょっと考えてみるということがなくなってしまいました。つまり、(ん、これかな?)ということがなくなりました。この(ん、これかな?)というのは、問いに対して仮説を出しているとも言えます。仮説を出して、調べているのであれば、その調べた結果はその仮説の検証ということになっています。
ところが、インターネットで調べると(ん、これかな?)がないので、検証するということがなくなってしまっています。
私は、大学の授業中に分からないことがあったらどんどんスマートフォンで調べることを推奨しています。ただし、一つだけ条件があります。「スマートフォンで調べる前に、自分の仮説を出してから調べること」というものです。そうすることで、スマホで調べても、仮説の検証になります。これならありだと考えています。
さらにもう一つ。「分からないこと」と言いますが、この場合の分からないことは、教師から出された問いであることが多いものです。つまり、与えられた問いです。主体的な学習に大事なのは、学習者自身が立てた問いです。
学習者が違和感を覚え、それはなんだろうと考え、なぜかなあと思い、本当なのかなあ、例外はないのかなあと考えていくとき*4、その過程で外部脳のスマホから情報を得ていく。主体的な学習を現行の授業で実施していく手掛かりは、このあたりにあると考えています。
4.ここで話すべき、話し合うべき問いは、あらかじめ答えが一つに定まらない問いについてです。『竹取物語』で言えば、「『竹取物語』では、5人の皇子が姫に求愛をして、難題を突きつけられましたね。さて、あなたが作者だとして、もし、6人目の皇子が求愛を申し出たとしたら、どんな難題を用意しますか? それは何で、なぜそれなのかの理由も答えてください」というようなものが考えられます。ここでMECE(ミーシー)*5を学ぶことになるでしょう。
5.「じっくりと」がまずいですね。私はこれを「副詞に逃げる」説明と言っています。「じっくりと」というのは説明しているようで説明していません。どうすれば「じっくりと」という状態なのかが確認できないからです。
しっかりやりましょう、はっきり言いましょう、きちんと片付けなさい。こうした「副詞に逃げる」説明は枚挙にいとまがありません。
この副詞に逃げる説明の特徴は、説明する側の頭の中には、ゴールの絵が描かれているということです。しかし、その絵を具体的に説明することなく、副詞だけで説明してしまいます。そして、その絵を推定できた学習者がその通りにやると、「正解!」などと言い、それが読み取れない学習者には、さらに「しっかりやりなさい」と言います。できるわけがありません。
「じっくりと」に替わる適切な指示としては、例えば、「一つの言葉を調べるときは、二つの辞書の説明を比べなさい」という指示です。これならば、学習者は確実に理解できますし、指導者もそれをやったかを確認できます。
◆
あ、字数になりました。次回、もうちょっとだけ、このテーマを扱います。
*1 この言葉の初出は、「幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の 学習指導要領等の改善及び必要な方策等について (答申) 平成28年12月21日 中央教育審議会」です。
*2『スペシャリスト直伝! 中学校国語科授業成功の極意』(池田修 明治図書出版)
*3『アイデアのつくり方』(ジェームズ・W・ヤング CCCメディアハウス 1988 )
*4 ここはもっと簡単な話し言葉で言えば「え? なに? なぜ? ほんと? これだけ?」となるでしょう。「違和感、対象確認、理由・根拠、信憑性、条件確認」です。生徒には、この話し言葉を手掛かりにして授業を受けたり、文章を読んだりすることを勧めていました。
*5 元々、マッキンゼーの社内用語で、日本語では「漏れなく、ダブりなく」と訳されることが多いです。
現場教師によるキャッチボール解説 by 藤原友和
池田先生から原稿が届きました。
現在の教育界のホットワード(というには若干時間がたっていますが)である、「主体的・対話的で深い学び」に関わって、教師の指導言を点検するという回ですね。
いやぁ、今回も恐ろしい。
何が恐ろしいって、「自分の至らなさ」を毎回自覚することになりますからね。「あぁ、これじゃだめだったんだ」と変な汗をかきます。
しかしながら、そうした自己否定の上にでなければ「新たな試み」のスタートラインは引けないわけですからね。腹をくくって考えを進めていきたいと思います。
授業開きのガイダンス機能とセレモニー機能
さて、今回の「訂正の必要な話」です。
ざっくりまとめると、「授業開き」におけるガイダンス機能を問題にしています。
エネルギーのロス無く授業を受けるには、その授業がどのように構成されていて、どんなルールで運用されるのかを把握し、アウトプットの結果がどのように評価されて成績に反映されるのかについて明らかにされている必要があります。「授業開き」というと楽しい活動で子供たちを引きつけ、授業を受けるモチベーションを高めるのだというイメージがあるかもしれませんが、そういうセレモニー機能だけではないのですね。ガイダンス機能、大事です。
はい。
かつて自分もセレモニー機能だけしか意識しておらず、「授業開きが一番楽しい」教師でした。一年を通してゆっくりとクオリティが下がっていく……。恐ろしいですね。変な汗出てきた。ガイダンス機能を発揮するほどの授業を設計・構築できていなかったという事情もあります。
池田先生の提言に戻ると、要するにこの授業開きを行った先生は、「主体的・対話的で深い学び」という言葉についてぼんやりとしか理解していなかったのです。ぼんやりした理解が、ぼんやりとした指導言となり、期待した効果が得られなかったということだと解釈しました。
だからガイダンス機能を(ちょっとしか)発揮できなかったのですね(かつての自分の姿でもあります。痛い痛い)。
では、「主体的・対話的で深い学び」という言葉の理解が正確であり、具体的な像を描きながら、「あぁ、そういうことなのね」と聞いている生徒が納得していればよかったのかというと、話はそう単純ではないようです。
「意味」と「仕組み」がわからなければガイダンスできない
池田先生の提言をもう一度読み返してみます。
以下の部分です。
3.人間は頭の中にある知識と経験と身に付けた技術で問題を解決していきます。特に、課題にぶち当たったとき、考え続けたり、ぼーっとしたりしているとひらめいてアイデアが出てくることが起きます。有名なアイデアの定義に、アイデアとは、「既存の要素の新しい組み合わせ以外の何ものでもない」とあります。が、頭の中に入っていなければ、組み合わせようもないのです。この定義は、「既存の要素が頭に入っている人は」可能になるという前提があります。
この部分の記述は、前述の「主体的・対話的で深い学び」の意味から、もう一歩踏み込んでいますね。先ほどは言葉の定義を問題にしていたわけですが、ここで言われているのは、そのような学びが起きる「前提」です。続けて、インターネットで簡便に知識を参照できるようになった結果、調べるプロセスでちょっと立ち止まって考えることがなくなった現在の多くの人が持つであろう思考習慣や、主体性の発揮のための問いの重要性など、「深い学び」に必要な要素が語られていきます。
つまり、「主体的・対話的で深い学び」が起きる仕組みについて語られています。
私は本稿の冒頭で、「ぼんやりとした理解に基づくぼんやりとした指導言では、意図した機能を発揮できない」と述べました。
ガイダンス機能を発揮するための指導言には、意味の理解だけではなく、こうした仕組みの理解も合わせて必要だ、ということでしょう。換言すると、自らが敷こうとしている授業システムについて、説明を受ける生徒の理解を促すようなメタ的な視座から把握できていなければなりません。全体像を描き、現在地がわかるから、ゴールを指し示すことができるということです。
もちろん、「やっているうちにだんだんわかってくる」「慣れるまでには時間も必要」という側面は確かに無視できません。その意味では「まずは歩きだそう」というアプローチもあり得るような気もします。
しかし、そうした教師が敷こうとしているシステムに、子供がなじむための必要な時間や段階性までが事前にデザインされていることが肝要なのだと思われます。教師自身に見通しがない状態でガイダンスを行うことは原理的に難しいことは論を俟たないでしょう。ツアーコンダクターが目的地を把握できていなければ道案内もできませんからね。とりあえず歩き出すにしても、その後の試行錯誤や目的地の決定あるいは変更に教育的効果が認められる場合だけです。
そのような見通しなく行き当たりばったりの授業開きだから、「副詞に逃げる」という現象が起きるのでしょう。あいたたた……。
今回のまとめ
授業開きにおける指導言は、「全体像を把握」し、「相手にどうなってほしいのか」という目的を認識した上で、見通しと方法を伝えることが肝要です。
そのためには、自らの授業デザインの中核を「主体的・対話的で深い学び」と定めたということであれば、その「意味」と「仕組み」には自覚的であろうよ、ということだと学びました。
よし、次年度はしっかりやろう。
……おあとがよろしいようで。
池田先生、次回もよろしくお願いします!
池田修先生×藤原友和先生コラボ連載「指導のパラダイムシフト~斜め上から本質を考える~」ほかの回もチェック⇒
第1回 避難訓練のパラダイムシフト
第2回 忘れ物指導のパラダイムシフト その1
第3回 忘れ物指導のパラダイムシフト その2
第4回 漢字テストのパラダイムシフト その1
第5回 漢字テストのパラダイムシフト その2
第6回 コンテストの表彰のパラダイムシフト
第7回 宿題のパラダイムシフト その1
第8回 宿題のパラダイムシフト その2
第9回 自由研究のパラダイムシフト
第10回 グラフの読み取りのパラダイムシフト その1
第11回 グラフの読み取りのパラダイムシフト その2
第12回 教師の間違い
第13回 夏休み明けのパラダイムシフト
第14回 指名のパラダイムシフト
第15回 対応のパラダイムシフト その1
第16回 対応のパラダイムシフト その2
第17回 対応のパラダイムシフト その3
第18回 対応のパラダイムシフト その4
第19回 対応のパラダイムシフト その5
第20回 対応のパラダイムシフト その6
第21回 対応のパラダイムシフト その7
第22回 学習観の転換