研究授業に熱心すぎた弊害【連載小説 教師の小骨物語 #13】
新米でもベテランでも、教師をしていると誰でも一つや二つは、「喉に詰まっている”小骨”のような」忘れられない思い出があります。それは、楽しいことばかりではなく、むしろ「あのときどうすればよかったの?」という苦い後悔や失敗など。そんな実話を取材して物語化して(登場人物はすべて仮名)、みんなで考えていく連載企画です。
13本目 「偉くなりたいんでしょ!」離れてしまった自分の学級の子供たち
教師にとって、「研究授業」は実力をつける貴重な機会ではあるが、準備に時間を取られるので消極的な先生も多い。だが、当時30代前半だった僕(上野宏一・教師16年目)は、むしろ研究授業をするのが楽しみだった。
初任校の先輩から「研究授業は1年に3回はやりなさい」と教えられ、僕はその教えを守って研究授業を重ね、周囲からも認められるようになっていた。
僕の専門は体育だが、クラスが一体になる雰囲気づくりが得意で、どんなクラスでも上手くまとめられる自信が生まれていた。実際、その手腕が認められたのか、転任校では翌年に創立記念行事を担う5年生の担任を任された。
「上野先生、頼みますよ。最高の6年生に育ててください」
少し“天狗”になっていた僕は、校長の期待に必ず応えられると思っていた。
「よ~し、最高のクラスを作ろう」
意気込んで、新5年生のクラスを受け持った。和気あいあいというよりは、スタートから厳しめに指導し、叱ることも度々あった。
一方で、ぼくの研究授業への意欲もますます高まっていた。校内だけでなく、他校に赴いて大きな研究授業も行うこともあり、出張が多くなっていた。音楽専科が入るような午後は外出することが多く、子供たちも慣れていた。
「今日も出張でしょ? いってらっしゃ~い」
研究授業で忙しくなると、週3でクラスを空けることもあったが、ほかの先生に迷惑をかけないように、出張中の段取りは完璧にした。
(最近、自分のクラスに向き合えてないなぁ……)
少し心が痛んだが、とくに問題も起こらなかった。
だが、秋も深まる頃になって、何となく子供たちとの関係がギクシャクしてきた。
◇
ある日、午後の出張が早めに終わって、帰りの会に間に合うように急いで戻ってきたら、教室には誰も残っていなかった。僕がいないことに慣れてしまった子供たちは、僕の帰りなど待ってはいなかった。
「どうして昨日はみんな帰ってしまったの?」
翌日、子供たちに聞いてみると、
「別に先生なんていなくていいし~」
「よその学校で立派な研究授業してたらいいじゃん」
冷ややかな言葉が返ってきた。
「どうせ私たちよりも、自分の研究授業のほうが大事なんでしょ?」
「そんなことないさ。みんなのことを一番大事に考えているよ」
「ふ~ん。言葉では何とでも言えるけどね。偉くなりたいんでしょ? 校長先生になったら?」
「教育委員会とかに行ったらいいじゃん」
高学年ともなると、嫌みも核心を突いてくる。ギクッとしたが、それよりもここまで子供たちの心が離れてしまったことにショックを覚えた。僕は、自分の授業力が高まることが、クラスの子供たちにとってもプラスになると思っていた。でも、それは教室を空けてしまうことを正当化する、自分への言い訳だったのかもしれない。