【野口芳宏「本音・実感の教育不易論」第76回】今どきの教育と敗戦前の教育(その4) ─AIによる「現代の子供観」への疑念─

国語の授業名人・野口芳宏先生が、65年以上にわたる実践の蓄積に基づき、不易の教育論を綴る連載です。第2部では今どきの教育と戦前の教育とを比較吟味し、戦後80年の教育の功罪について考えていきます。「謙虚に教わる」こと、「自信をもって子供を善へと導く」ことの大切さを再認識させてくれる、硬派なメッセージです。
執筆
野口芳宏(のぐちよしひろ)
植草学園大学名誉教授。
1936年、千葉県生まれ。千葉大学教育学部卒。小学校教員・校長としての経歴を含め、65年以上にわたり、教育実践に携わる。1996年から5年間、北海道教育大学教授(国語教育)。現在、日本教育技術学会理事・名誉会長。授業道場野口塾主宰。2009年より7年間千葉県教育委員。日本教育再生機構代表委員。2つの著作集をはじめ著書、授業・講演ビデオ、DVDなど多数。

目次
10、教育の根底にある、私の「子供観」
前回の連載第25回の稿末の「10、根底にある私の子供観」に付け加えたい。
教育の在り方はその根底に子供観の確立が必要だ。「子供観」というのは、次の通りである。
子供という存在の根本、本質、原点の見方、考え方、受けとめ方である。
これは、私なりの定義だが大きな誤りはあるまい。そして、私の子供観は、次の通りであり、これは、昔も、今も、これからも不変、不動である、と考えている。
無知、未熟、未完
この子供観は、私の38年間の小学校教員実践と、その後の大学の教員としての20年間の経験を通して確立されたものだ。その背後には、次の二つが大きな支えとしてある。
人は、人によって、人となる。(カントの言とされる)
ヒトは、教育によって人間になる。(「ヒトの教育の会」井口 潔先生)
先に「無知、未熟、未完」という私の子供観について、「昔も、今も、これからも不変、不動である」と書いた。そもそも、「根本、本質、原点」は「昔も、今も、これからも」当然ながら「不変、不動」でなければならない。引用したカントの言葉も、井口 潔先生の言葉もまさに真言である。
さて、AIによる「現代の子供観」を検索すると、思いがけないことが書かれていて気になった。次の節で、詳細な検討を紹介するが、大略次のように書かれている。
子供観は、「未熟な保護の対象」から、「自ら育つ主体的な権利者」へと変化している。(中略)
「保護と管理の時代」から、「子供の個性を尊重しつつ子供と伴走する『共育』の視点」へと移行している。
これによれば、子供は「未熟な保護の対象」ではなく、「自ら育つ主体的な権利者」である、ということだ。この考え方は、正しいか。
子供は「未熟」ではないのか。子供は未熟な存在だと誰もが思うのではないか。私は強くそう思う。それが当然だろう。カントも、井口先生も当然「無知、未熟、未完」と思うに違いない。
ざっと40年続いている「木更津技法研」という10人足らずの教育サークルがある。現職者の集まりだが、メンバーは誠実で熱心な実践者である。毎月一回、拙宅で開かれている。その仲間に、私の子供観を繰り返したところ、例会では、次のような発言があった。
ア.今の職場では、「無知、未熟、未完」などと言えば問題になる。禁句だ!
イ.そうだ。子供の自主性、主体性、個性を大切にしなくてはいけないからね。
ウ.子供にちょっと強く言うと、親からクレームが来る。管理職も、教委も「波風を立てるな」の姿勢が強い。現在の教育風潮に合わせるしかない。
これらは、正直な発言だろう。私の子供観は、「全くその通りだと自分も思うのだけれども」と、口を揃えて言うのだが──。
そうか、成程。簡単に言えば「子供のやりたいようにさせておくしかない」という諦めにも似た思いを抱いているようなのだ。
それなら、不登校も、苛めも、暴力も、小中学生の自殺も「過去最多」を記録し続けるのだろうな、──と、私は思った。
11、井口潔先生の対談の中の一節
月刊誌『致知』の2019年9月号で「博多の歴女」として著名な白駒妃登美氏との対談がある。その一節を引く。
「アメリカ流の教育はデューイに代表されます。彼は進歩主義教育運動を主導した教育者で、要するに管理教育はやめて教師と子供は友達のような関係になる。その方が子供たちの人間性は伸びる、という今日まで続く子供中心主義の理論的根拠を考え出したんです。
ところが70年代になると、当のアメリカで教育は荒廃し始め、その荒廃の波は日本にもやってきます。その頃の日本は管理教育を謳いつつも、アメリカで破綻したはずの進歩的教育法を一つの考え方として認めるという姿勢でした。当然、日本固有の自己抑制の教育ということについては何の検討もされないまま、置いてけぼりにされてしまったわけです。言い換えれば、本当の人間教育ということを考えてはこなかった。
その結果として、自己抑制力が脆弱な『すぐにキレる子』や、未熟な大人が増え、近年、耳を疑うような青少年の反社会的行為が増えてきたことは、申すまでもないでしょう。」
白駒先生はこれに応えて言う。
「新しい考え方が常に進歩的であるという人間の驕りのようなものが感じられます。先人たちへの敬意さえ失ってしまったのかもしれません。」
井口先生は、これにも触れて応える。
「明治政府は江戸期の教育を受け継いで、『教育勅語』を発布しました。しかし、終戦後は人間教育を研究する人が誰もいなくなってしまった。(中略)いまの文部科学省でそのことを考えている人はおそらく皆無でしょう。」
引用したこの部分のお二人の発言をぜひもう一度読み返して欲しい。私は全く同感、共鳴、感動の至りである。何か、とてつもない考え違いが、今の日本を覆っているのではないか。そんな気がしてならない。

12、現代の子供観の確認と批判
AIによる「現代の子供観」の中に「主な特徴」として4つが挙げられている。順番に、それらへの私の考え方を述べるが、読者各位の率直な御批判を期待している。
なお、「主な特徴」は、紙幅を節約すべく、全文引用でなく要約紹介となる旨御了承を願いたい。
① 子供は、主体的存在
「大人が導く対象ではなく、自ら学び、考え、育つ権利を持った一人の個人として扱う」(この鉤括弧の中は、要約した解説文。以下同様である。)
上記の要約解説の後半部に「自ら学び、考え、育つ権利を持った一人の個人として扱う」とある。「権利を持った一人の個人」というのは「子供」を指している。「児童、生徒」あるいは「幼児」まで含むのかもしれない。「権利」の修飾句は、「自ら学び、考え、育つ」である。「自ら学び」は、子供を導く立場の教員にとっても生易しいことではない。先に述べた木更津技法研のメンバーは10人足らずである。正規の教員でさえ、「自ら学ぶ」者は例外的に少ないのが現実である。その上に「自ら考え、育つ権利」を子供が持っている、ということになると、そうは思わない私は、子供の持つ権利を認めないという「権利の侵害者」ということになって「責められる」羽目になる。こういうロジックが、今の日本の教育界の「空気」となっているらしい。これでは、黙るしかない。つまり、「子供がしたいようにさせて置く」ことになる。これが、デューイの「子供中心主義の理論的根拠」なのである。70年代のアメリカの教育は、これを信じて荒廃を招いたのである。今の日本は、その後塵を拝しているのではないか。不登校、苛め、暴力(私はこれを子供三悪と呼ぶ)の過去最多の連続更新という事実は、米国の教育荒廃とそっくりである。デューイの「子供中心主義」は、教育現場の荒廃の事実を以て、否定され、敗北したのである。それをこのまま続けてよいのだろうか。事態は更に悪化するに違いない。
先の解説文の書き出しは、子供に対して「大人が導く対象ではなく」とある。
子供は、「無知、未熟、未完」なのだから「導く」のは当然であり、不可欠なのである。それをほぼ全面否定している文言は、カントを笑い、井口潔博士を侮り軽んずるものだ、と私は思うのだが、どうだろう。
井口潔先生の、白駒妃登美先生との対談に出てくる「いまの文部科学省でそのことを考えている人はおそらく皆無でしょう」という井口先生の怒りにも似た失望感に私も同調する。
② 個性の尊重
「一人ひとりのペースや個性を認め、多様性を受け入れる」
この解説に異は唱えにくかろうが、何人(なんびと)も異を唱えられないような言葉はどこかに嘘や偽りがあるのではないか、と私は思う。もし、全く正しかったとしたら、教育の成果として「子供三悪」は無くなる筈だ。不登校も、苛めも、暴力も消滅するはずだ。この「現代の子供観の特徴」は間違っている。
まず、「個性」である。真の個性は、「常識、一般、妥当」を身につけたその上で表れるものだ。常識、一般、妥当を身につけていない個性は、我侭、非常識、自分勝手と変わらない。これは、一般的社会生活に馴染めない、変人に等しい。
同様に「真の多様性」は、個性と同様に常識、一般、妥当を踏まえたその上で生み出される独自性でなければならない。これを私は「通念を踏まえた独自性」と呼ぶ。風変わりな自分本位の考えは、思いつきであり、軽薄な言動に等しい。
初等普通教育、中等普通教育と言われる「普通」というのは「通念を踏まえた」という意味と考えてよいだろう。
学校は、個性や多様性を養う所ではない。個性や多様性の大元になる初等、中等「普通教育」をする所である。それが全ての「基礎教育」になるのである。
③ 権利者、消費者
「子供独自の文化や、一人の社会メンバーとしての権利が重視される」
子供も「権利者、消費者」であるには違いない。しかし、大人のそれと同一ではない。せいぜい「子供なりの権利」であり、「子供なりの消費」しか許されない。極めて部分的で、特別のそれぞれである。「一人の社会メンバーとしての権利」と言うけれど、勤労者ではないし、所得もないし、知識も経験も、思考も「未熟、未完」である。だから法律用語としての「保護者」が現在も使われて久しいのである。
④ 現代の対子供認識の移行
「保護と管理の時代から、子供の個性を尊重しつつ、伴走する「共育」の視点へと移行している」
「保護、管理」は、もはや古く問題のある子供認識である。これからは、親も子も共に成長すべく、個性を重視し、子供に寄り添って一緒に走る伴走者になろう──ということらしい。
ここには、大人としての責任感、家庭人としてのリーダー論、人間教育観の欠如がある。現代の「子供観」は、間違った方向に向かっている。このままでは、子供三悪は更に広まり、子供の不幸は募るだろう。
一見子供を大切にするように思われるデューイの「子供中心主義」は、結果的に子供三悪を拡大し、子供を不幸に陥れる。子供三悪は、子供らの悲鳴であり、告発である。

イラスト/すがわらけいこ 写真/櫻井智雄
