【昭和100年記念リレー連載】昭和世代の教師として、20~30代の教師に伝えたいこと ♯1 多賀一郎 ~RESTRUCTURE (再構築)―変えない信念と変える柔軟さを併せ持つ~

今年は昭和100年。 昭和100年を記念して、今年の8月、昭和世代の、昭和世代による、令和時代に向けてのセミナーを開催することになりました。ついてはそのセミナーの登壇者から、現在教職に就く皆さんへのメッセージとしてリレー連載を始めます。 昭和世代の熱い想いをお読みいただければと思います。第1回は、国語科の第一人者・多賀一郎先生によるご寄稿です。
編集委員/堀 裕嗣(北海道公立中学校教諭)

目次
しんどいが、やりがいのある仕事
今の学校現場は大変です。いろいろとしんどいことが山積みです。
インクルーシブ教育、ICTにAI、主体的・対話的で深い学び、個別最適化、道徳と英語の教科化、カリキュラム・マネジメント等々に加えて、新しい保護者対応の難しさ……。
これら全てに対応することは、本当にしんどいことです。問題は課題が増えるばかりで、何も減らされないことです。
また、現場には、いまだに旧態依然としたところがあります。パワハラに近い管理職や先輩がいれば、職員室が居心地悪くなってしまいます。
数年前に神戸市の小学校で教員によるイジメ事件がありました。イジメをしていた教員たちは、保護者からも信頼される実力者の教員たちでした。
このように、力のある者が権力者となって、若い教師たちを萎縮させてしまうような職場は、まだまだいくつもあります。
さらに、残業が多いのに、それに見合った給与形態にはなっていません。時間と給与とのタイパが合わないのです。昔の教師ならば、
「教師がお金のことを言うな。」
と時代錯誤なことを言われるかも知れませんが、疲れていてもお金が充分であれば、かなり気持ちは楽になりますよね。
このような学校現場の状況では、学生が教師になろうとは思えないのは当然です。全国的に教師不足が起きています。誰かが休職すると、代わりの先生がいないのです。現場は悲鳴をあげています。
それでも、教師は「やりがい」のある仕事です。子どもたちと暮らす生活からは、なにものにも代えがたい充実が得られるものです。子どもたちの笑顔が力になるし、子どもの成長は教師の生きがいにもなります。
でも、その素敵な教師生活の喜びを味わう前に辞めてしまう若者たちの、なんと多いことか。
SNSを見ていると、教師という仕事と現場への不満ばかりが目につきます。教師と言う仕事に明るい未来を見いだしにくいのですね。そんなものばかり目にしていたら、教職につきたいとは思えなくなりますよね。
それでも、教師とは、一生の仕事として打ち込める素晴らしい職業だということは、間違いありません。現場の先生方が、そのことをいろいろな形で発信していってほしいなと思います。
信念を持っていますか?
僕の言う信念とは、個々の教育観や教育哲学のことです。
僕の信念(教育哲学)は、まず、弱者視点です。
教室には学級弱者が存在します。
- 成績の良くない子ども。
- 体力的に劣る子ども
- 目立たない子ども
- 家庭的に苦しい子ども
- どこかに障碍を持っている子供
- 仲間から疎外されている子ども
等々、様々な理由で弱い立場に追いやられている子どもがいます。
僕は、いつもそういう子どもたちに目を向けるように心がけていました。別に自慢するつもりはありませんが、そうした子どもたちの良さを見つけ出して取り上げ、子どもたちの理解をクラスの子どもたちにも、保護者の皆さんにも広げるようにしてきました。その成果は、卒業してからの友人関係の順調さではっきり出ています。
ところで、信念を貫くには、根性がいります。痛みを伴うのです。それらを乗り越えても信念を貫くのは、至難の業です。
弱者の視点に立っていると、反発する子どもや保護者たちもいます。例えば、独特の個性を持つ子どもは、学級で多くの子どもたちに迷惑をかけてしまうこともあります。孤立してしまうのです。僕から見れば、そういう子どもは「学級の弱者」なのです。でも、多くの子どもたちと保護者から見れば、弱者ではありません。僕が彼をかばうような姿勢をとっても、納得できないのです。
そういう中では、僕も批判されます。理解していただくまでには、時間がかかりましたね。
また、僕は子どもと学校の間に立たなければならない立場になったら、必ず子どもの側に立ちました。
そのことで管理職とケンカをしたこともあります。そのとき校長に、
「お前は学校と子どもの、どっちを向いて仕事しているんや!」
と、怒鳴りつけられたことがあります。
私立学校では、僕のような姿勢は問題なのです。学校の側に立たないと、学校の評判に関わるときもあるのです。「校長にたてつくやつ」という評価を受けて、ブラックリストに載っていただろうと思います(笑)。
僕はそうしてきたことを、微塵も後悔していません。
みなさんは、教師として生きてきて、どのような「信念」を持っていらっしゃいますか? そして、それをしっかりと守っていらっしゃいますか?
スーパーティーチャーの限界
僕は若い頃からスーパーティーチャーに憧れて、目指してきました。ありとあらゆる時間を教育に打ち込んで自分の力をつけていきました。
「多賀先生に任せていれば、大丈夫。」
と言ってもらえるようになりました。学級崩壊を起こした学年の保護者たちが
「来年度は多賀先生を担任にしてくれ。」
と、管理職に訴えるようにまでなりました。
そのことに天狗になっていましたね、今から思えば。
中堅の教師たちが仕事をサボっているのを見て
「こんなやつらは、ぶっつぶしてやる!」
という気持ちでいました。本当に、生意気で鼻持ちならないやつだったでしょう。
あるとき、尊敬する先輩から言われました。
「あんたは、人を認めない。」
と。それに対して、その頃の僕は
「あんな真面目にやらない連中のことなんて、認めません。」
とまで、言っていたものです。今ならば、先輩の言っていた言葉の意味が分かるのですが。
でも、中堅になって、若い先生方と相担任になるようになったときから、考えが変わりました。
僕が本気で実力を出して自分のクラスのことに全精力をつぎこんだら、間違いなく若い先生たちは潰れていくでしょう。私立学校の保護者は、直接お金を出しているという意識が高いですから、隣のクラスのことが気になって仕方ありません。隣だけがいい状態になることに対して、敏感なのです。
ですから、一緒に受け持っている若い先生が気持ちよく過ごせるように、自分をセーブするようにしました。学級通信も、僕なら年間に100号は簡単に出せるけれども、隣のクラスが通信を出したら僕も出すようにしていました。ですから、その頃から僕の学級通信の数は年間に50程度になっています。ときには、「こういうことを書くといいよ。」とアドバイスをして、隣の先生が通信を出せるように気配りしました。
国語の授業をつくるときは、僕が授業をするレベルではなくて、隣の若い先生でもできるような授業を設計して、渡すようにしていました。
若手には完全に仕事を任せて、僕は後ろから支える形をとるようにしていました。若手のモチベーションを下げないように気を遣っていました。
僕があのままスーパーティーチャーを目指して年齢を重ねていたら、仲間からは完全に浮いてしまっていただろうし、学校全体の力にはならなかったんじゃないかなと思うのです。
今、学校にとって必要なのは、スーパーティーチャーよりもチームビルディングのできる教師だと思います。
多様性に対応する柔軟な姿勢を
ベテランになればなるほど、自分を変えることが難しくなっていきます。成功体験が邪魔をするのです。圧の強い指導で子どもや保護者から高評価を得てきた教師にとっては、特に自分を変えるのは難しいようです。
「先生のおかげで、この子たちは立ち直ることができました。」
などという言葉を受け続けてきたら、自己肯定感はかなりアゲアゲですよね。そんな教師が自分のやり方を反省して新しい教育に対応していくというのは、かなりハードルの高いことなのです。
しかし、それでは、現在の多様性に対応した教育などできません。
自分を変えるには、RESTRUCTURE(再構築)が必要です。再構築するためには、一度旧いフレームをぶち壊さないといけません。
けれども、それは自分の過去の経歴や成功を否定してしまうことになりかねません。そんな恐ろしいことに足を踏み出せないのは、ある意味、仕方ないことだと思います。
漢字の指導に定評のある教師がいました。この先生が受け持つと、全ての子どもたちが漢字のテストで高得点を連発するようになりました。子どもたちはきれいな漢字を書くようになっていきました。
しかし近年、ICTが進んで手書きすることに意味がだんだんとなくなってきています。漢字についても、書けることには重きがなくなって、読めることが大切になってきていますよね。その時代に漢字の書き取りテストに時間をかけることにどれだけ意味があるのでしょうか。
「おじいさんのランプ」(新見南吉)という童話があります。ランプ屋として成功した巳之吉が、電気という新しい流れに出会って、自分のやってきたことが、もう必要なくなるのだと実感するお話です。
この話と同じことが教育界でも起こっているのです。電気を否定して、ランプをいつまでも大事にしていこうとする教師に、明日はないのです。
自分がこれまでにやってきたことを否定して(ぶっ壊して)、新しく再構築してほしいと思います。
子どもの多様性に対応していくには、柔軟な姿勢が必要です。「自分にはこれしかないんだ」というような頑なな態度では、やっていけません。
よく「子どもが答えを持っている」という言い方を聞きます。そう言っている方が、どこまで本当にそのことを考えて実践しているかは、疑わしいのですが、その言葉はホントその通りなのです。
難しいことではありません。子どもに直接、
「困ったことがありますか?」
「何か分からないことはあるのかな?」
等と問いかければ良いのです。
もちろん、子どもとの関係性が十分に育っていなければ、子どもが本音を語ってくれることはないでしょう。時間もかかります。
それでも、子どもに聞くということは続けていかなくてはなりません。
それと、子どもは言葉で応えるとは限りません。ノンバーバル(非言語)に表現することが案外多いのです。そして、場合によっては、言葉よりもノンバーバルの方が子どもの思いを素直に表現していることも多いのです。
「先生なんかきらいだ!」
という言葉だけ聞いていたら、腹が立ちますが、その言葉が子どもの本音かどうかは分かりません。だいたい、本当に嫌いな相手には、そんな言葉は言わないものでしょう。
嫌いだと言いながら、
「先生、僕の気持ちを受け止めてよ。」
と思っていることもあるのです。(本当に嫌われている場合もありますが、そのときは、表情や態度で分かりますよね。)
表情、動作というものを注意深く観察していれば、子どもの思いというものが分かってきます。
教師には限界がある
40年近く前に受け持った学年は、三年生のときに荒れに荒れた子どもたちでした。僕は精いっぱい取り組みました。その子どもたちとの関係はつくれたと思います。今でも毎年、60人の卒業生たちのうち、20人くらいが年末に集まる会に僕も呼ばれます。この子たちの結婚式には、10回くらい出席しました。熱血教師だった僕に、子どもたちはついてきてくれていたと思います。
でも、子どもたちの言動は顰蹙を買うものばかりでした。テレクラで男性を呼び出してやってきた人を近くで見ていてあざ笑ったり、書道の時間、12時きっかりにクラス全員で一斉に文鎮を床に落としたり、他校の子どもたちとケンカしたり……、挙げればキリがありません。毎日何かがあって、僕はその度に、各所に謝りに行っていました。
保護者のみなさんとも関係は良かったと思います。当時は電話番号が公開されていましたから、毎日のように保護者から相談のお電話をいただきました。
「今、家の中で暴れているので、外に出てきて公衆電話からかけています。」
「私も我慢できなくなって、車の電話からかけています。(まだ携帯電話がなかった頃です。)」
などということは、日常茶飯事でした。でも、多くの保護者の皆さんは僕を信頼してくださっていたと思います。
僕は日々疲れていて、毎朝トイレの便器が真っ赤に染まっていました。血尿が出ていたのですね。
そんなとき、私学の先輩の先生に、
「先生、もう僕は限界です。保護者や子どもたちとの関係はつくれても、子どもたちの荒れは止まりません。」
と、愚痴りました。そのとき、小川先生は、
「限界を知ってからが教師ですよ。」
と、おっしゃってくださったのですが、僕は、
「いやいや。限界だということは、もう何もできないってことですよ。」
と、心の中で思っていました。
でも、今にして思えば、限界を知った僕は、それまでの「俺に任せておけば大丈夫だ。」というような不遜な態度から、他の先生の力を頼るようになったし、子どもたちの力を借りようという方向へも変わっていったと思うのです。
教師には限界があります。それは人によって様々です。介護や育児など、家庭的な問題で限界のある方もいらっしゃるでしょう。自分の能力に限界を感じる方もおられるでしょう。学校という職場環境にいっぱいいっぱいの方もおられるでしょう。
特に、対子どもについて限界を感じることは多いものです。そんなことは当たり前のことなのです。教師はスーパーマンではありません。どんなことでも全て解決してしまうような漫画の世界のような存在ではないのです。
できないことはあって当たり前です。少しでも解決しようともがきますが、それにも限界があります。
例えば、多様性のことでいうと、現代科学の発達によって、LD児童の特性がいろいろと分かってきました。これまで
「あの子は勉強ができない。頭が悪いのかもね。」
と言われていたような子どもに、秘めた可能性があることが分かってきています。
ディスカリキュリアと言って、算数障害の子どもがいると分かってきたのは最近のことです。高等数学の理論は理解できるのに、計算が全くできない子どもがいるということです。
では、そういうことが分かったとして、ふだん大勢の子どもを相手にしている一教師に何ができますか? はっきり言って、その子に対する何らかの手立てを考えて授業を仕組むなどということは無理なことですよね。
この子はそうじゃないかと思っていても、その子に対する手立てを研究してその子が生きる授業を考える時間的な余裕なんて、今の現場にはないでしょう。苦しいのですよ、教師として子どもを見殺しにしているようで……。
でも、それは逆に教師の傲慢だと思うのです。すべての子どもに対して、その子に応じた授業を仕組むなんてことは、一教師にできることの限界を超えているのです。限界を超えたことに苦しむのは、教師ならば全ての子どもに何かしてやれるだろうという、傲慢なのです。
できないことは無理だと割り切って、せめてどんな子どもも自己肯定感を高めることができる生活を送れる学級づくりをしていくことが必要だと思うのです。
自分の人生を豊かに
教師として生きるということは、子ども(教え子)の人生の傍らに居させてもらえるということです。教師生活を終えてからも、教え子たちは僕にたくさんのものをくれます。
数年前に教え子の結婚式に出ました。僕は結婚式に出るときの座席は同じクラスの仲間と同じ席にしてもらうようにしています。そのときに同じ席には4組の夫婦がいました。僕はお嫁さんたちとも面識がありましたから、楽しい会話が弾んでいました。
新郎から新婦へのサプライズということで、ピアノの演奏が始まりました。
「おい、あいつピアノなんて弾けたっけ?」
「いや。このためだけに練習したんだと思いますよ。」
へーえ、やるものだと感心していました。
新婦のお母さんが半年前に亡くなっていて、その方が大好きだったという曲を教え子がとつとつと弾いていました。新婦は号泣していました。僕も感動してじいんとなって、
「あいつ、いいとこあるなあ。」
と言って4組の夫婦を振り返ると、なんと8人とも号泣しているではありませんか。
「ああ。この子たちも、いい子たちだなあ。」
と、つくづく思わされたのでした。
そのとき、こういう瞬間に立ち会わせてもらえることに、幸せを感じたのでした。
こういうことがいくつもあります。教え子たちとの人生は、僕の人生を豊かにしてくれているのです。
教師の仕事は、子どもたちと共に生き、その子の人生の傍らにいて、少しだけ人生を共にするということです。
そして、そのことは自分の人生を豊かにするということなのです。

執筆者プロフィール
たが・いちろう。教育アドバイザー。前・追手門学院小学校講師。神戸大学附属住吉小学校を経て私立小学校に30年以上勤務。「親塾」を各地で開いて保護者の相談に乗り、公私立小学校での指導助言や全国でのセミナーを通して教師を育てることにも力を注いでいる。 著書に『学校と一緒に安心して子どもを育てる本』(小学館)、『危機に立つSNS時代の教師たち―生き抜くために、知っていなければならないこと』(黎明書房)、『全員を聞く子どもにする教室の作り方』(黎明書房)ほか多数。
8月9日(土)~10日(日)の超豪華リアルセミナー、4月から参加者募集開始です。

※主催/研究集団ことのは