インタビュー/森万喜子さん|「そろえる」のをやめて「働き方改革」をもっとクリエイティブに【今こそ問い直す!先生を幸せにする「働き方改革」とは⑨】
全国の学校で、今進められている「働き方改革」。ともすると時短ばかりが強調されがちですが、本当の意味で教師の仕事にやりがいや楽しさを感じられる改革になっているのでしょうか。学校教育のオピニオンリーダーの方々に改めて「働き方改革」の本質を語っていただきながら、子供も先生も皆が幸せになる「これからの教師の働き方」について考えていきます。連載第9回は、元小樽市立朝里中学校校長の森万喜子先生にお話を伺いました。
〈プロフィール〉
森万喜子(もり・まきこ)
北海道生まれ。北海道教育大学特別教科教員養成課程卒業後、千葉県千葉市、北海道小樽市で美術教員として中学校で勤務。教頭職を7年務めた後、2校で校長を務め、2023年3月に定年退職。前例踏襲や同調圧力が大嫌いで、校長時代は「こっちのやり方のほうがいいんじゃない?」と思いついたら、後先かまわず突き進み、学校改革を進めた。「ブルドーザーまきこ」との異名をもつ。校長就任後、兵庫教育大学教職大学院教育政策リーダーコース修了。現在は、執筆活動や全国での講演の他、文部科学省学校DX戦略アドバイザー(2023~)、文部科学省CSマイスター(2024~)、青森県教育改革有識者会議副議長として活躍中。単著に『「子どもが主語」の学校へようこそ!』(教育開発研究所)がある。
目次
「働き方改革」に対して感じている疑問
今、学校で行われている「働き方改革」を見ていると、疑問を感じることがいくつかあります。その中でも特に気になるのは、「在校等時間」の数値だけを重視してしまう、計りすぎです。
全国のどこの学校も教育委員会に対して教員の在校等時間の報告をしています。もしもその数値が高ければ教育委員会から「あなたの学校は在校等時間が長いね」などと指摘されるため、それを避けるために一生懸命頑張って働きかけている管理職が多いのではないでしょうか。そのような学校では、「早く帰る」ことが「働き方改革」の目的になっているように見えます。その前に、なぜ早く帰れないのかを考えてみなくてはいけないと思うのです。
教員は全員がマニュアル通りに同じ作業をしているわけではありません。子供たちが生活する場ですから、日々トラブルが起きるので「時間だから今日はここまで」と打ち切れない対応も生じます。「こうしたほうがいいんじゃない?」とクリエイティブな仕事をしている場合もあります。教員は、免許を取るために大学でたくさんの単位を取得しなければいけない専門職ですから、その人の裁量や知見に委ねられている部分があります。教科書の指導書通りに授業をやって、余計なことはしなくていいから帰ってね、というのが馴染まない職場であり、よりよい教育を求める教員だからこそ帰れないことを分かってあげたいところです。
また、在校時間を短くするために、教員が本当は学校にまだ残っているにもかかわらず、帰ったことにして仕事を続ける学校もあると聞きます。子供たちに「うそはダメ、改ざんはダメ、隠蔽はダメ」と教えているのに、教員たちはうそをついています。苦しまぎれとはいえ、それが当たり前になっている学校もあるようですが、「それっていいの?」と私は問いたいのです。
管理職にしてほしいこと① 職員室の心理的安全性を確保する
そもそも「働き方改革」の本来の目的は、教育の質の向上です。それには先生方が元気で楽しくいてくれないと困ります。その目的を達成するために、管理職にしてもらいたいことが三つあります。
一つ目は、職員室の心理的安全性を確保することです。
学校で何を一番大事にするのかと考えたときに、私は子供の命に関わることだと思うのです。子供が朝、元気に学校に来て、下校時間に「今日もいろいろなことがあったけど、明日も頑張ろう」と、そんな気持ちで帰れることが大事だと思っています。
その部分を大事にするためには、子供を規則できつく縛るのではなく、学校として「絶対に譲れないこと」と、「これは緩い感じでいいんじゃないの?」ということなどを分けて考える必要があります。それには教員間で状況・背景・評価・提案の議論やコミュニケーションが求められるのですが、それらが今、「働き方改革」の影響もあって圧倒的に不足しています。
合意形成のためのコミュニケーションが少ないと、若い先生方は「マニュアルがほしい」と言います。「これはよい、これはダメと教えてくれたら、その通りに指導しますから」というのです。しかし、マニュアルをつくって教員がその通りの対応をするのがいい場合も、そうじゃない場合もあるはず。私は「あなたの考えはどうなの?」と問いたくなります。
私は教員がクリエイティブであることを大事にしたいと思っています。ですから、若い先生も含めて、みんなで議論を重ね、合意形成を図ることを大事にしたいです。そのときに心理的安全性が保たれていなければ、誰も意見が言えず、声の大きい人の意見が通ることになります。それではイノベーションは起きないでしょう。
職員室の心理的安全性を確保する、といってもそれほど難しいことではありません。大事なのは雑談ができることです。例えば、放課後の職員室で学年の先生方が、「今日1日どうだった?」「あの子が今日こんなことを言っていたのよ」「え、すごいじゃん。この間からあの子は変わったよね」などと話をすることが大事なのです。そういった何気ない雑談から、まるでパズルのピースがうまくはまるかのように、「あの子のあの行動はそういうことだったのか……」と気づくのは、 中学校ではよくあることです。ですから、どんなに忙しくても日ごろの何気ないコミュニケーションの時間を排除してはいけないと思うのです。
しかし、コロナ禍もあり、「働き方改革」もありで、相談する、愚痴をこぼす、雑談をする時間を学校はもてずに今に至るのです。その結果、誰にも話せず一人で困り果てて潰れてしまう教員が出てきます。ある日突然、先生が学校に来なくなって、その穴埋めで他の先生がまた忙しくなってしまい……というループにはまっていませんか?
だからこそ、普段は雑談ができて、困ったことがあるときには「今、困っているんです」と言えて、それを聴いた人が「お互い様」と言ってお手伝いしてくれるような、そういう職場をつくる必要があります。
職員室の心理的安全性を確保するのは校長と教頭の仕事です。具体的には、雑談ができる時間と場所、おやつなどのちょっとしたしかけを用意してはどうでしょう。
例えば、私の校長時代は、校長室のドアを開けっぱなしにしておいて、「好きに使っていいよ」と言ってありました。私が校内を回って戻ってくると、校長室のテーブルで何人かが話をしていて、「すみません。ちょっと借りていました」と言われたこともあります。それでいいのだと思います。私の校長室には話が弾むように、お菓子が常に用意してありました。
それから、校長は個々の職員と1対1で面談をすると思うのです。そのときに、「先生は何を大事にしていて、どんなことをしたいと思っているの?」と聞いてみることをおすすめします。校長には一人一人の職員が何を大事にしているのかを知っておいてほしいからです。それを知っていれば、ちょっとした会話の中でも、その先生の発言に対して「なるほど。〇〇先生は国語の先生で、言葉にこんなこだわりがあるから、そういう切り口がありますね」などと納得できます。
さらに、職員室のコミュニケーションを活性化させるために、先生方が互いに大事にしているものを聞き合う機会を校内研修などでつくるのもいいと思います。たとえ15分間であったとしても、互いの大事にしているものが分かると、リスペクトが生まれます。共通点が見つかったら距離も近くなりますし、よい人間関係が築けるかもしれません。組織とは、そうやってつくられていく側面もあるのですが、やはりコロナ禍の影響も大きかったようですね。
管理職にしてほしいこと② 「そろっているのがいい」をやめる
管理職にしてもらいたいことの二つ目は、「そろえる」のをやめることです。
多様性が大事と言われて久しいのに、多くの学校はいまだに「そろえる」ことを重視しています。例えば、今も「〇〇小学校スタンダード」、学習規律などを使っている学校が多いようですが、あれは子供たちの学びやすさのためだったはずです。しかし、授業中に子供は黒板の方を向いて座り、静かにしているのがよい、そういう教室をつくるのが教師の力量、のようになっていないでしょうか。「そろえる」という呪縛、子供たちを統率するのがよい、という意識から、学校はなかなか抜け出せないのです。だから、マインドセットが必要です。
様々な学校を訪ねていると、見栄えのいいことにこだわっている学校に遭遇することがあります。例えば、今学期の目標や文化祭への意気込みなどを子供に書かせて、それに教員がはんこを押してさらにコメントを書いたうえで、全員分をクリアファイルに入れて 廊下に貼ってある学校がたくさんあります。
私はこういうものを見ると、「この仕事って本当に意味があるの?」と言ってしまいます。手間をかけ、並べて貼っても、子供たちには全部見る時間なんてないですし、そもそもあんなに高いところに貼ったら何が書いてあるか読めないでしょう。
その学校の先生によると、全員分の作品が掲示されていて、かつ、それに先生がコメントを書いているかどうかを、管理職だけではなく、教育委員会訪問のときには教育委員会の人がチェックするそうです。だから、どの学年もきちんと行っていますと。
その一方で、その掲示物を見れば、誰が学校に来ていないかがすぐに分かってしまいます。担任にとって手間のかかるこの仕事が、本当に必要なのかどうかを議論する必要があると思います。
しかも、「そろえる」ことは「みんなやっているから」という横並び意識を生み、働きすぎてしまう教員を生み出します。「学年でそろえようと言われたから、やらなくちゃいけない」と思って、意味があるのかないのか分からないことを一生懸命続けることになっていないでしょうか。
私はいつも「それって誰が主語?」と考えることにしています。見栄えのよさを求めるのは誰でしょうか。担任ですか? 校長ですか? 少なくとも子供ではありません。子供にとっては、みんなと学ぶことが楽しい、友達とよい関係が築けている、いじめがないなどが、よいクラスの条件だったりします。「全員の作品が飾ってあるから、私はこのクラスが好き」という子供はまずいません。
子供の中には、「自分は絵が下手だし、これは失敗したから貼らないでほしい」と思っている子供もいるはずです。だからこそ、「そろえる」呪縛を捨て、大人が主語である作業を減らしてみてはどうでしょう。
そのために管理職にお願いしたいのは、学校の中で教員に対して「学年としてそろえることをできるだけ少なくしてほしい」という働きかけをしていくことです。それと同時に、「そろっているからこのクラスは素晴らしい」という評価軸も捨ててもらえればと思います。いっそのこと、希望する子供に一人あたりA4判1枚分のスペースを与えることにして、貼りたいものがある子供が自分で貼るのでもいいのではないでしょうか。
管理職にしてほしいこと③ 「空気を読まずにNO」と言える勇気をもつ
管理職にしてもらいたいことの三つ目は、校長が自分なりの軸をもち、横並びに甘んじず、時には「いたしません」と言える勇気をもつことです。
「働き方改革」に限らず、校長会や教育委員会の取組など、学校には様々な要請が来ることでしょう。その中には必要なこともあれば、あまりそう思えないものまでいろいろとあると思うのです。参考までに私が校長時代にそれらにどう対応していたのかと言いますと……なんでもイエスとは言いませんでした。
そういうと、「他はみんなやっていますよ」と言い返されます。この言葉は日本人を動かすキラーワードですが、いくらそう言われても、「それは違うのでは」と思うことについては、「でも、教育課程編成権は校長にありますので」と答えていました。そうするとさらに、「全ての学校で取り組まないと不平等になる」などと言われることもありました。それに対して私は「お気持ちは分かりますが、最上位目標は〇〇ができること。それを達成する方法については学校に任せてほしいのです」。
教育委員会や校長会が決めたことだからといって、自分の学校の子供にとってベストな方法だとは限らないと思うのですが、「取組」となると「手段そろえ」となることが多いのです。例えば、「不登校生徒を少なくしたい」がゴールだとしたら、やり方は学校によっていろいろあっていいと思います。「子供に勉強の楽しさを分かってもらう」のがゴールだとしたら、学力調査の 過去の問題をやらせるよりも、もっと別な方法があるのではないかな、などと思うのです。
子供たちを一番近くでよく見ているのは、その学校の教員たちですから、その教員たちが議論して、一番よい方法を考え、挑戦し、リフレクションを重ねて学校としての最適解をつくればいいのです。
それは、先生方にとっても楽しいことです。「校長会でこうしろって言われたからその通りにやってください」と言われるより、「こういうゴールをめざしたいんだけど、先生だったらどうする? この学校としてどんな取組をしたらいいかな」と言われて、自分たちで考えたほうがクリエイティブになれるからです。
市内の学校が開催する公開研究会についても、「やること」が目的化してしまい、みんなが準備に疲弊するわりにその結果が日々の学習に十分に引き継がれていないことがよくあります。指導案を書いたら、重箱の隅をつつくように細かくあれこれ言われて修正を繰り返し、その授業のリハーサルを隣のクラスでやってみて「あそこがダメだった」と修正して、研究会の当日は自分のクラスでショーのような授業をするわけですが、これが本当に有効なのでしょうか。私は特定の1時間だけを公開するのはやめ、「授業は毎日公開していますから、いつでも見に来てください」と教育委員会には申し上げました。普段の授業の様子を見てもらえばいいと思うからです。だからといって、先生方が学ばないわけではなく、必要な研修は学校で企画し、教科ごとの部会をしたり、外部の専門家を呼んでご指導いただいたりするなど工夫して実施していました。今、子供の学びと教職員の学びは相似形と言われています。私もそう思います。それなら、形を気にすることを手放す勇気があったほうがいいのではないでしょうか。
「働き方改革」の成果は数値で評価できない
学校には、「定時退勤ができました」「会議が短くなりました」などと一言で言えることや数値で表せるものではないところで、日々勝負している先生たちがたくさんいます。管理職はそこを分かってあげないといけないと思うのです。にもかかわらず、学校は数値で測りすぎな傾向が強くなっていませんか。「在校時間が短くなった学校はよい学校」などと、あまりにも単純すぎる判断をするなら、教員は仕事にやる気を失うのではないでしょうか。
健康診断だって、血糖値や血圧、コレステロール値が基準値より高くても元気な人がいます。在校時間が平均値よりも少ない教員が、必ずしも幸せとは限りませんし、教育の質が向上するとは限りません。数値で判断しようとしても無理があります。
つまり、「働き方改革」の成果は、数値のみで評価できないものを、数値で強引に評価しようとするから、数合わせや虚偽の報告など、くだらないことにエネルギーを使ってしまうのです。
大事なのは、先生方が元気かどうかでしょう。人は生き物なのです。生きているから毎日様子を見なくてはなりません。それをしながら子供も大人もハッピーに過ごすために何ができるかなと考えてやること、管理職の仕事はそれに尽きると思います。
結局、子供への対応と同じです。先生たちの顔色、 健康状態に加え、人間関係もよく見ていることが重要です。そして、疲れていそうな人、つらそうな人がいたら、管理職が早めに介入しなくてはなりません。「先生、大変なんじゃないの? 何か困っていることはない?」などと声をかけ、できることをサポートしていきましょう。
学校はもっとクリエイティブになろう
このインタビューで私は何度も「クリエイティブ」という言葉を使いましたが、「働き方改革」は教員一人一人が工夫して、もっとクリエイティブであるべきだと思っています。
ある学校の講演会で「働き方改革」の話をしました。講演の後、その学校の先生に呼び止められました。その自治体でも「働き方改革」を一生懸命進めているそうです。そのため、「勤務時間が終わると17時以降は外線の電話がつながらなくなったのですが、逆に困っているのです」と言っていました。
学校は始業時間が早いので、16時45分で勤務時間が終了するかもしれませんが、多くの企業の終業時間は17時です。つまり、働いている保護者が子供のことなどで先生に相談したいときに、17時に仕事が終わってすぐに電話をかけてもつながらないのです。その結果、保護者から「どうして誰も出ないんだ」とお怒りモードの苦情が来て、その対応にかなりの手間がかかっている、とのことでした。
私が校長をしていた中学校では16時45分が終業時間でしたが、実際はその時間を過ぎても部活動をやっていますし、職員室には誰かがいます。部活動が終わって子供たちが帰るまでは電話がつながるようにしておきました。
「毎日17時を過ぎたら一切電話に出ない」のは、使う側の保護者の利便性という視点を忘れている気がします。自治体としての方針がそうであったとしても、相談をしたい保護者、何か聞きたいことがある保護者の不満を放置すると、後々もっと大変なことになるわけです。もう少し融通の利く対応はできないのかと思わずにいられません。
そんなときに思い出してほしいのは、教員はクリエイティブな職種であり、学校はそういう人たちが働く場所であるということです。多様な人々に対応できる方法はないかと、学校の教職員がみんなで考え、最適解を見付ければいいのではないかと思います。そうやってみんなで考えた仕事に「負担感」を強く感じたりはしないはずです。
教員は、学ぶことが好きな人であれ!
最後に、私からこの記事を読んでいる先生方に申し上げておきたいことがあります。それは、先生方には学ぶことが好きな人でいてほしい、ということです。本を買って学ぶ、セミナーへ行く、映画を見る、美術館や博物館へ行く……など、いろいろなことをインプットする楽しさを知っていてほしいです。
ところが、多くの先生方は、学校と家の往復だけになりがちです。そのような生活をしていたら先生自身も楽しくないと思いますが、そんな大人に教えてもらっている子供も楽しくありません。ですから、先生方には機嫌よく学び、「学ぶって楽しいよね」と、さりげなく語れる大人であってほしいです。そして、学ぶ楽しさを子供に伝えてもらいたいのです。
ある海外の研究によると、2007年に日本で生まれた子供の半数が107歳より長く生きると推計されているそうです。もうすぐ人生100年の時代がやってきます。人生の時間が長くなると何が起きるかというと、学校での学びだけでは足りなくなります。これまでのように「学校で学びという苦行を強いられたけれど、卒業して学びから解放されてよかった」と考えるような大人にしてはいけないのです。どんどん学び直しをしていかなくてはなりません。
その場合の学校の役目は何かというと、「学ぶって面白いよ、楽しいよ」と思うような体験をさせてやり、学びの種をたくさん子供たちにまいてやることです。そうすると、大人になってどこかのタイミングでその種の中から芽が出てくることがあります。「そういえば、あれは面白かったな」とふと思い出して、市民講座に参加してみるなど、種から新しい世界が広がっていったら素晴らしいと思います。
しかし実際は、中学校の段階で教員が種から一生懸命実らせようとしてうまくいかないときに「これは君には向いてないから、やめておいたほうがいいよ」などと言ってしまうこともあるようです。学校の教員は、子供に未来をあきらめさせるためにいるのではありません。教員は子供が好きなことをたくさん見付けるのを手伝ってやり、学びの中では失敗はつきものだから失敗するのはよいことだよと教えてやり、「いつか花咲くことがあればいいな」と思いながら、「行ってらっしゃい」と見送る人であればいいと思うのです。
そのためにも教員はもっと多様であっていいはずです。自分の学生時代を思い返してみると、変なところにこだわる先生、ちょっと変わっている先生がいましたが、今はどうでしょう。みんなが同じであることを求められていて、先生方もマニュアル化されていないでしょうか? 先生自体も日々の仕事を「べき」と「ねばならない」で固めて、人生や学びをつまらなくしていませんか? 「そろえる」ための仕事など、大人目線な業務を削減し、先生自身が学ぶことが好きな大人になってもらいたいと願っています。
インタビュー・文/林孝美 イラスト/池和子(イラストメーカーズ)