聞けば教えてもらえるのだから、どんどん聞いて学んでいくことが大切 【授業づくり&学級づくり「若いころに学んだこと・得たこと」第35回】

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授業づくり&学級づくり「若いころに学んだこと・得たこと」

今回からは、宮崎県のスーパーティーチャーである日高恵一指導教諭(小学校·国語科)が、教師を志した子供時代の話や、教員として採用される前の経験、若手時代に学級経営で困ったことや授業づくりで苦労したことなどを中心にお話を紹介していきます。

宮崎県のスーパーティーチャーである、日高恵一指導教諭

小中学校時代のすてきな先生方との出会いを通して、教員を目指す

私が教員を志すようになったきっかけは、小学校から中学校にかけてのすてきな先生方との出会いでした。最初の出会いは小学4年生のときのことで、その年の担任の先生は温かみのあるおばちゃん先生という感じの優しい先生だったのです。その先生は、日頃から本当に細やかに子供たちのがんばりを見とってくれていて、例えば授業の中でちょっと自信がもてない子供にも温かい言葉をかけて、背中をそっと押してくれるような本当にすてきな先生でした。

それまでは自習の時間になると、「自習だ!」と、何だか嬉しい気持ちになりました。ところが、その先生が急な出張で自習時間ができると、何だかとても残念な気持ちになったのです。そう思っていたのは多分、私だけではなかったと思います。子供ながらに「自分たちをそんな気持ちにさせる先生って、すごいな」と思ったのが、最初に教師という仕事に憧れるきっかけになりました。

その先生は自宅学習ノートが1冊終わると、必ずいろんなコメントを書いてくださり、それがとても嬉しかったのですが、今も自分の心に強く残っているのは、「努力に勝る天才なし」という言葉です。一生懸命自宅学習に取り組んだがんばりを見とって、そう書いてくださったのだと思います。その言葉は、その後も自分自身が生きる上で、小さな曲がり角に出合うたびに私を力付けてくれました。私も、自分の教え子のノートには、よくその言葉を書いて贈っています。

翌年、5年生のときには隣のクラスの男性の先生に憧れました。その先生は、休み時間になるとグラウンドに出て、クラスの分け隔てなく子供と一緒になって一生懸命にドッジボールをする先生でした。本当に、私たちと過ごす学校生活をとても楽しんでくれるような先生で、その元気で明るい大らかさに「自分もあんなふうになりたいな」と憧れたのです。

中学校入学後、2年生のときの担任の男性の先生もとても魅力的な方で、枠にとらわれない破天荒な先生という印象が、今も強く残っています。子供たちのために既成概念を取っ払って、何でもやっていくという感じの先生で、例えば「今日は天気がいいから、河川敷で授業をやるぞ」という感じのことを言い出すような先生でした。

その先生の言動に最初に驚かされたのは、私がその年度に父の仕事の関係で転校してきたばかりのときのことでした。ちょうど思春期にさしかかる頃に転校してきたため、最初はうまくクラスになじめていませんでした。そんな私の姿を見た先生は突然、「よし、明日から毎日、帰りの会で日高くんが何かおもしろいことを一言、言うことにしよう」と言い出したのです。急にそんなことを言われ、「どうしよう」とも思いましたが、一生懸命にダジャレを考え、思い切ってみんなの前で言うと、笑ってもらえ、何となくクラスの友達に受け入れてもらえた気がしました。そんな先生の思い付きでクラスになじめるようになったことや度胸が付いたことが、とても嬉しかったのを覚えています。

そのように、小中学校時代のすてきな先生方との出会いを通して、私は次第に教員を目指すようになっていきました。ちなみに、私の両親は学校の教員で、この仕事が身近なものであったことも少なからず影響はあったと思います。ただし、うちの父親はこの仕事の苦労をよく分かっていたからでしょうか、私に教員になってほしくはなかったようです。

教材研究をしっかり行うことの大切さを身に染みて感じる

ごく若手の頃に、教室で音楽の授業を行っている日高先生。

高校時代には「小学校の教員になろう」と進路を決めており、一度は親元を離れたいという思いもあったため、他県の大学の教育学部教員養成過程に入学しました。そのときには、特に何の教科を専門にしようという思いはなかったのですが、入学後すぐに教科の研究室を決めるための希望調査があったのです。私は子供の頃から歴史が好きだったので、第一希望は社会科にし、体を動かすのも好きでしたから第二希望は体育科に、その次に本を読むのが好きだからという理由で第三希望は国語科にしました。後から考えると、男子学生で社会科や体育科を希望する学生は多く、一方で国語科を希望する学生が少なかったからだと思いますが、結局第三希望の国語研究室に入ることになりました。

そんなわけで、第一希望ではない教科が専門になりましたが、小学校の教員を志望していましたから、特に不満を感じてはいませんでした。3年生になって行った教育実習でも、特別良い授業ができたという記憶はありませんが、実習担当の先生がとても良い先生でしたし、実習期間の仲間と充実した時間を過ごせたこともよく覚えています。当時、教育実習を行う大学の附属小学校は、自宅通学のできる県内の学生はこの学校、他県からの学生はこの学校と決められていて、私たち他県の学生は附属学校の敷地内にある宿舎に寝泊まりしながら、実習に通ったのです。2段ベッドの部屋で、同期の学生と本当に楽しい時間を過ごせましたし、教員になろうという思いも一層強いものになりました。

当然、大学4年生のときに地元宮崎県の教員採用試験を受けたのですが、当時の採用倍率は高かったにも関わらず、大学生活を犠牲にしてまで試験勉強をするほどまじめな学生でもなく、その年の採用試験には合格できませんでした。そのため、大学卒業後は地元宮崎に帰り、市や県に臨時講師の登録をして2か月少々、講師の仕事の連絡を待つことになったのです。地元に帰り、周囲の同世代は仕事をしている中、私だけ何もせずただ連絡を待つ間に、「ああ、自分は社会の歯車から外れている」という、とても後ろめたい気持ちになったのを覚えています。後から考えれば、後に若手教員として思うようにいかず悩むこともありましたが、つらくても「教員をやめよう」と思うことがなかったのは、そのときの「仕事をしていない後ろめたさ」があったからだと思います。

講師の1校目は中学校で、産休の先生に代わって1年間、国語の専科をやったのは後から考えれば大きかったと思います。身近に教師を志している仲間はいなかったため、授業づくりは主に産休の先生から資料をもらい、次の時間の板書を考えて授業をするというような状況でした。授業も見よう見真似でやったのですが、教材研究も不十分でしたし、「国語はむずかしいな」「自分が本を読んでおもしろいと思うのとは違うな」というのが、その頃の率直な印象です。その体験を通して、教材研究をしっかり行うことの大切さを身に染みて感じました。現在はスーパーティーチャーという立場ですが、今でも、「この教材は、本当にこの指導事項、言語活動でいいのだろうか?」と悩みますし、しっかり準備もします。それは、この中学校の講師時代の経験があったからだと思います。

中学校の勤務は1年間で、翌年の夏頃まででしたが、やはり小学校の教員を目指したいということで、小学校での講師希望を出し、採用試験の合格通知を受けた後の夏休み明けから小学3年生の担任を任されました。小学校は初めてだったので、前の担任の先生のやり方を踏襲することから始め、隣のクラスでこんな係活動をしているとか、こんなイベントをやっていると聞くと、すぐに行って様子を見て、やり方を聞いてみて、実際にやってみながら学んでいくような具合でした。

ただ、学級経営がうまくいっていたかと言うと、大きな問題はなかったけれど、決してうまくいっていたとも言えないような気がします。当然今なら、「学級経営の修正点はこことここだね」と分かりますが、当時は何ができていないのかが分からない状態でした。おそらく他の先生も若手の頃にはあったと思いますが、指導力の不足が自覚できているだけに、「学級をちゃんとしないといけない」と考えて、ちょっと厳しくしすぎたところがあったと思います。おそらく最初の何年かはそういう傾向があったのではないでしょうか。

とはいえ、力不足の若手をものすごく受け入れてくれる学校で、同学年の先生が声かけをしてくださり、相談にも乗ってくださいましたし、他の先生方もサポートをしてくださいました。だから「先輩の先生って、本当に頼りになるな」と実感しましたし、「聞けば教えてもらえるのだから、どんどん聞いて学んでいくことが大切だ」と実感したものです。

今回は、日高先生が教師を志した経緯や、講師として教職の道に入ったごく初期までの話を紹介しました。次回は、現場での経験を通して、次第に国語の研究に力を入れていった経緯を紹介します。

【授業づくり&学級づくり「若いころに学んだこと・得たこと」】次回は、12月1日公開予定です。

執筆/教育ジャーナリスト・矢ノ浦勝之

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