ギフテッド当事者が語るー 不登校の子の心の内は?(広島LD学会報告・前編)
不登校が話題になることが増えましたが、聞こえてくるのは大人の声ばかり。不登校の子どもたちは、何を思っているのでしょうか? 2023年10月、広島で行われたLD学会で、ギフ寺(★)住職・小泉雅彦先生が、子どもたちの言葉に耳を傾けながら、考え続けてきたことを発表されました。
★ ギフテッドのための寺子屋

目次
ギフ寺とは?
小泉雅彦先生が長年にわたり運営してきた「ギフ寺」とは、高い知的能力を有しながらも、困っている子どもたちの居場所です。木曜日と土曜日、月に7回程度開催され、不登校や五月雨登校の子どもたちが在籍している、小2から高校までの異年齢集団です。
知能が高く、繊細なギフテッドは、周りと自分の違いを幼くても感じとります。「私は、普通じゃない」と異質感を訴えて、学校に行けなくなる子も多いんです。(小泉先生・以下同)
ギフテッドの子どもたちは、まだまだ理解してくれる人が多くはなく、幼稚園や保育園、学校で孤立してしまうことがあり、不安や孤独感を抱えがちです。
ギフ寺はやりたいことをする場所
ギフ寺では、ゲーム、Gifトcafe(子どもたちが主体的に企画、運営するカフェ)についての話し合い、外遊び、調理、レゴ、折り紙など、やりたいことをして過ごします。
子どもたちは、ギフ寺のことを、こう話します。
※本研究での当事者及び保護者からのコメントは発表の承諾を得ています。
勉強はしていないけれど、もっと広い意味で学んでいる。
ギフ寺では、教育や指導はしていない。
小泉先生は、言います。
子供たちからは、愚痴と秘密の話はよく聞かされます。私は、相談(世間話)にはのっていますが、支援はしていません。以前作った個別の支援計画は白いまま……。
ギフ寺は、源泉掛け流しの温泉のような存在です。何も足さない、何も引かない。私は、快適な湯温を保つ湯守です。
小泉先生は「支援はしていません」と言いますが、かつて不登校で、今はボランティアとしてギフ寺に関わっている高校生は、こう言います。
土砂降りの中、いくら傘を差し出されても、歩きたくない時はある。傘を差し出されると、自分では自立しているつもりもあるし、能力もあるんだと意固地になってしまう。
ギフ寺では、見守ってもらえた。住職(小泉先生)は、『何もしていない』と言っているが、自分は『何もしないでいてくれている』と感じた。ギフ寺では、傘を差し出されるのではなく、傘を買いにいく勇気をもらった。(自分が必要だと思うタイミングではない時に)傘を差し出されても、一緒に歩いていかないといけないと思う圧迫感、自分が動かないと相手を拘束してしまう不甲斐なさを感じる。自分で何かをしたい気持ちは、誰の中にでもあるのだと思う。(発言時は中学3年生)
ギフテッドの現場の声を聴こう!〈みん教ギフテッドセミナー〉第3回ダイジェスト
「私たちの秘密基地 ~「ギフ寺」が問いかけるもの~」
一般財団法人 日本児童教育振興財団が「ギフ寺」を取材したドキュメンタリー動画があります。教育ビデオライブラリー第57巻「私たちの秘密基地 ~「ギフ寺」が問いかけるもの~」として、DVDを有料でレンタルすることができます。
その動画には、「ギフ寺」の子どもたちの姿が生き生きと記録されています。レンタルお申込みの詳細については、下記にリンクを張っておきます。
一般財団法人 日本児童教育振興財団 ビデオライブラリーについて。
子どもたちにとっての学校とは?
小泉先生のもとには、子供たちの本音が集まります。
学校に対する想い
「勉強は塾でできるのよ、友人関係もこういう風なところ(ギフ寺)があればできるのよ」「正直、学校でしかできないことってないよね」
「学校に行くのは大前提」と思っている大人が聞いたら、ひっくり返りそうな声に面喰らいます。
ギフ寺に通ってくるギフテッドの子どもたちは、学校に対する依存度が低いのです。私は、この状態を「不要校」と呼んでいます。(小泉先生)
先生に対する思い
先生のことは大好きだけど、教室という場所は別なの…。
学校に行ったら、先生とはたくさんお話ししている。
担任の先生が、自分のことを色々と考えてくれているのは、すごく感じています。
子どもたちの担任の先生への印象は、ポジティブです。また、先生の想いは、子どもたちに、充分に伝わっているとも思います。ギフ寺に通う子の担任の先生とお会いした際には、子どもを最も理解し、その子の最善を考えてくれていると感じました。
不登校の子は、先生との関係性の問題ではなく、「学校というシステムが合わない」…そんな印象を持っています。(小泉先生)
学校に対する思いのズレ
そうは言っても、「学校には行くものと思っている保護者」「学校に行くのが辛すぎると感じている子ども」との間には、葛藤があります。
■子ども視点
やっぱり学校に行くことがメインになっていて、(不登校時)温かく見守ってはくれなかった。僕が学校に行けるようになるために、(周りは)めちゃくちゃ頑張ってくれた。(学校に行きたいわけではないのに)自分自身で「僕が学校に行きたいと思っている」というふうに思い込もうとずっとしていた。(苦しんでいた)
■母親視点
小学校時代すごい大変だったので、(進学校を)受験して合格をして、新しいステージに行けたっていうことで、なんとなく私の中で、ハッピーエンド、やっと落ち着けるって思いがあった。けれども、中学校に入ってすぐに不登校になったので、心が追いつかなかった。「またか」と思って、こんな思いをしてここまで来たのに、同じことをまた繰り返すのって思ってしまって…。「ふざけるな、行け」という態度をとってしまった。
学校に行く・行かないの水かけ論
この「思いのズレ」について考えるため、ギフ寺での、高校生と年下の子どもたちとの対話を紹介します。
親も友人も、友達の親も、先生方も、みんなが自分たちが学校に行くために、頑張ってくれていた。それって、不登校のギフテッド当事者にとって、やってほしいことなのかな?
「スーパーウルトラアルティメットありがた迷惑」「やられるだけ、誰も幸せになんない、それをやると」
高校生が、話をまとめてくれました。
親や教師は、学校に行く意義を子供に理解させているのか? その意義が、子どもが求めている教育と、どれだけすり合わされているのか? そこの対話がなされていない状態。学校に行く、行かないという次元での、水かけ論をしているだけなので、対立や溝が深まるのかなっていう気がします。