恩を教え、感謝を育む ー根本、本質、原点への回帰ー【野口芳宏「本音・実感の教育不易論」第10回】

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野口芳宏「本音・実感の教育不易論」
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植草学園大学名誉教授

野口芳宏
恩を教え、感謝を育む ー根本、本質、原点への回帰ー【本音・実感の教育不易論 第10回】

教育界の重鎮である野口芳宏先生が60年以上の実践から不変の教育論を多種のテーマで綴ります。連載の第10回目は、【恩を教え、感謝を育む ー根本、本質、原点への回帰ー】です。


執筆
野口芳宏(のぐちよしひろ)

植草学園大学名誉教授。
1936年、千葉県生まれ。千葉大学教育学部卒。小学校教員・校長としての経歴を含め、60年余りにわたり、教育実践に携わる。96年から5年間、北海道教育大学教授(国語教育)。現在、日本教育技術学会理事・名誉会長。授業道場野口塾主宰。2009年より7年間千葉県教育委員。日本教育再生機構代表委員。2つの著作集をはじめ著書、授業・講演ビデオ、DVD等多数。


1 日本民族の美徳、「謝恩、報恩」

「二恩」は、「父母の恩」「師と親との恩」であり、「四恩」は、「父母・国王・衆生・三宝の恩」と、広辞苑にある。

恩の字は、「頼る」を示す因と、心から成り、「頼る心」「頼る心の本になるもの」と石井勲氏は解読されている。

人は、例外なく様々な恩を戴き、その恩のお蔭で生きていける。恩人の筆頭は父母、両親であり、多くの人々つまり衆生に助けられて生活をしている。そういう恩の有難さを知らず、あるいは忘れる者を「忘恩の徒」「恩知らず」と呼んで人々は軽んじ、あるいは戒めてきた。

知識としての恩を知ることを「知恩」と言い、恩の有難さを心に感ずることを「感恩」と言う。心に感ずるのみならず、その恩に有難いと感謝することを「謝恩」と言い、そういう心を表明する感謝の会が「謝恩会」である。ここまでは、受けた恩の存在や有難さを受けとめる段階であるが、さらに一歩を進めて、それらの恩に報い、恩返しをすることを「報恩」と言う。

日本人は、「恩」という観念を大切にしてきた民族であり、とりわけ「親の恩」や「師の恩」を大切にしてきた。子どもは、親に孝養を尽くすことが美徳とされ、「親孝行」という言葉は誰一人疑うことなく重大な徳目として長く共有されてきた。「教育勅語」でも、孝は十二徳の筆頭に置かれ、それを疑う者は一人とてなかった。

「恩師」という言葉は、ごく日常的に使われていた時代があり、学校を卒業する時には当然のようにどの学校でも「謝恩会」が開かれていた。

日本人は、「恩を知り、恩に感謝し、恩に報いること」を美徳とする民族として長い歴史を築き、そのことは開国以来日本を訪れた多くの外国人からも賞賛されることになった。

「養老乃瀧」というのは、最も古い居酒屋チェーンの一つとして知られるが、もともとの「養老の滝」というのは「孝子伝説」の一つである。酒好きの父親にたっぷりと酒を呑ませてやりたいと願いつつ、それが叶えられない身の腑甲斐無さを託(かこ)ちつつ、日々を励んでいた男が偶(たまたま)山で足を辷らせ谷に転落してしまう。ようやく立ち上がったのだが、近くに芳香を放つ滝があり、その滝の水を口にすると何とも美味この上ない酒であった。男はそれを汲んで家に待つ父に供すると、父親が大喜びで「もう十分だ」と言うまでにこの滝の酒を堪能した。この話を伝え聞いた元正天皇は男の孝心を愛でてこの滝を「養老の滝」と命名し、さらに年号までも「養老」と改めたと伝えられる。

私が子どもの頃には、孝子伝説としての「養老の滝」は広く知られた。講談社の絵本の一冊にも『養老の滝』が加えられていたほどであるが、この原話を知る者はほとんどいない。今や「養老の滝」という言葉は居酒屋チェーンとしてしか知られていない。時代も、世情も大きく変わってしまった。

さて、この時代風潮、世相をどう見るか、ということを問題にしてみたい、というのが今回の「教育不易論」のテーマである。

イラスト10

2 「恩」を知れば「感謝」が生まれる

日本人は、感謝を「有難う」という言葉に托す。英語のサンキューは、「あなたに感謝します」という意味であり、中国語の謝々も、ドイツ語のダンケも同様である。これらの語は、まことに明快な感謝の伝達語彙であるが、日本語の有難うとは僅かニュアンスを異にする。

有難う、というのは、もともとは「有り難し」「在ること難し」が語源とされている。これは、現在眼の前にある状況や事態が、当然のこと、当たり前のことではなく、それらは本来「有ること難し」、つまり「滅多にないこと」「稀有の出来事」なのだ、という認識に立つ言葉である。

換言すれば、日本人は、万象を当然のこととして受けとめるのではなく、大いなる存在の恵みとして受けとめて感謝を表明する民族なのだということもできよう。人様から親切にされたり、何かを頂戴した時に、それを「稀有な出来事」「滅多にないこと」つまり「有り難いこと」と受けとめる。何か大いなる力、大いなる恩恵によって得られた恵みとして解し、受けとめるのだ。

さらに換言すれば、全ての事象に「恩」を感じ、「恩」として受けとめ、その発露を「有り難う」という語に托すのである。

日本の宗教は「多神教」と言われ、「八百万(やおよろず)の神」が自然と共にあると考える。山の神、海の神、田の神、川の神、天の神、地の神、木の神、水の神、道の神といった具合である。これらの多くの神によって護られていると考え、それらの恵みを有難い大恩として受けとめるのである。

このような考え方、受けとめ方、見方をすることによって、心が和み、和らぎ、温かくなってくるのである。「恩の教育」は心を健康にする。「恩」を知り、「恩」を感じとる時、人の心は自然に「感謝」に向いていく。恩に気づけば感謝の心が育つのだ。

いつでも「感謝の心」でいられる人は幸福である。自分の人生の来し方を顧みて大方が感謝に彩られていたならば、その人の来し方は幸せであったと言える。反対に、不平や不満で満たされているとしたら、その不平や不満がよしんば正義だったとしても、その人の人生が幸福だったとは言えまい。「感謝」は、自分への数多の大いなる「恩」への気づきによって生まれてくるものなのだ。その故にこそ、「恩の教育」、「感謝の教育」が大切になるのだ。これらは、自然に生まれてくる感情、心性だとは言えまい。意図的な教育によって育てるものだ。

3 親に感謝する「孝心」の意義

小学生でも大学生でも、「あなたを最も大切にしてくれる人は誰か」と問えば、ほゞ全員が「親」と答える。正解である。親以上に子どもを愛し、育てられる存在はない。その故にこそ、教育勅語では「爾(なんじ)臣民父母ニ孝ニ」と、父母への孝養を徳目の筆頭に示したのである。

「父母ニ孝ニ」という、この言葉一つの意味と重大さを、本当に子どもの心に教え、植えこむことができたとすれば、現代の日本に生起している多くの不祥事は激減するだろうと思う。

「父母への孝養」「父母の大恩への気づき」は、それほどに重要な教育だと私は考えている。

「孝行の本質」は何か、という問いに対する正解は、「心配をかけないこと」だと教えられた。名答、至言である。

親は、子どものことがいつも心配になる。愛すればこそ、期待すればこその親心である。このような親の愛に気づき、親の心が分かれば、「心配をかけない」ということがどんなに大切かが分かる筈だ。

適切な例とは思われないが、世間を驚かすような大罪、犯罪、不祥事が生起する度に、私は、それらを犯した者の親の苦悩を思うようになった。犯罪者への怒りは言うまでもないが、それを知った親の苦悩はいかばかりであろうか、と思ってしまうのだ。「世間に顔向けができない」という言葉があるが、犯罪者の親は大方、こっそりとどこかに転居してしまうようである。夫の不始末の生んだ不名誉に自殺をした妻もいる。本人以上に、本人以外の人を苦しめることになる例は多い。

「いじめ」の問題が、依然として解消しない。いじめをするような子どもは、例外なく「孝心」を欠いているに違いないと思う。いじめは親を悲しませ、苦しめ、辛くさせることだからだ。親を悲しませることに耐えられない者は、親を悲しませるようなことは決してしないだろう。

警察の青少年課の方の話を時々思い出す。女子高生数名が万引きをして捕まった。一人だけ万引きをしなかった生徒がいたので理由を問うたら、「お母さんの悲しそうな顔を思ったらできなかった」と答えたそうだ。そこで、他の生徒に同じ問いをしたところ、「思い出したらよけいやりたくなった」と答えたということだった。

これは、「孝心」の有無がどんなに大切かを考えさせる一つの材料になると思う。万引きをした生徒は、事の善悪を知らないのではない。悪であることは熟知している。だから「見つからないように」やるのだ。知的に欠けているからの事件ではない。問題なのは、親の恩、親の有難さへの無知、無関心である。

小学校長の時に、卒業生数名が休日の小学校の飼育舎を壊したり、電灯を割ったりした事件があった。中学校長に話して親子で謝罪に来るよう求めた。一組の親子が来校し、私に謝罪をした。その後で、私は「校長の私への謝罪はこれでよい。だが、君が本当に詫びなければならないのは、お父さんに対してだ。お父さんは、君に立派な人間になってもらいたくて毎日働いているんだぞ。そのお父さんにこんな心配をかけては申し訳なかろう。ここでお父さんにお詫びしなさい」と話した。

この言葉に彼ははっとしたようだったが、ためらいがちに立ち上がった。が、「お父さん、すみません……」と言い終わらぬうちに、わあっと泣き噎(むせ)んだ。父親も立ち上がり、涙ぐみながら、我が子の肩を両手でつかんだ。私も目頭を熱くした。彼の家は父一人、子一人の父子家庭だったのだ。

親の恩の有難さを、心の底から知らしめれば、子どもはかなりまっすぐに成長するのではないかと、この一件を通しても私は強く思ったことである。

4 教育再興の鍵は「恩」の教育

戦前の教育は、と、つい言いたくなるのも老化の兆しかもしれないが、戦前の世相では「親孝行」という言葉は一つの常識として共有されていたように思う。反対に、「親不孝者」は、世間に顔向けができないという風潮があった。親不孝は、恩知らずであり、忘恩の徒は世間の指弾を受けた。

家長制は封建的として廃され、「孝」の教育も戦後は急速にトーンを落とした。昔の子どもは、親と教師を敬しつつも恐い存在として受けとめていた。子どもにとっては親や教師はいつもかなり「恐い存在」であった。だから、昔の子どもは親や教師の言うことには素直に従い、従うことによって様々な人間としてのあり方を学んでいけたのだ。

今の子どもらは、親や教師に親しみ、軽んじこそすれ、恐がってなどいない。反対に、親も教師も子どもを恐れるようになった。「叱る」ことが「悪」とされ、「叱らない教育」が広まり、傍若無人の勝手者が跋扈するようになった。体罰根絶が徹底し、それを嗤うように対教師暴力が増えてきた。

子どもの主体性、自主性、自発性が尊重され、個性と多様性が奨励されている。指示や命令や強制には子どもの納得が必要とされる風潮にもなった。一言でこれらの傾向を「子ども中心主義」と呼んでいる。

さて、それらによって現代の子どもは幸せになったか。幸せになっているか。否、である。欲望と自分本位が許容された子どもらは、常に不平と不満といらいらを募らせてはいないか。

不登校、中途退学、いじめなどを減らすべく諸策が云々されるが効果は殆どない。

「恩」の恵みの有難さを心の底から分からせ、「感謝」の心性を育む教育を欠いた対症療法的弥縫策をいくら弄しても、現代の教育の昏迷は救えまい。恩を教え、感謝の心を育む根本策への回帰を強く訴えたい。

執筆/野口芳宏 イラスト/すがわらけいこ

『総合教育技術』2018年1月号より

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