【連載】坂内智之先生の 愛着に課題を抱えた子が伸びるアプローチ~学級担任にできること~#10 「メタ認知」による自己理解を促そう ―実践編その6―

近年、教員たちが対応に苦慮し、学校現場を根底から揺るがしている「愛着障害に苦しむ子どもたち」。そうした子どもたちによって荒れた学級を何度も立て直してきた坂内先生が、今、学級担任に何ができるのかを提案し、これからの学級のあり方について考えていく連載第10回。今回は、愛着障害の子どもたちの「メタ認知による自己理解」を促す取組について考えていきます。
執筆/福島県公立小学校教諭・坂内智之
目次
はじめに
これまで、「愛着障害だな」「愛着の課題を抱えているな」と感じられる多くの子どもたちとどう関わっていくかについて解説してきました。
そんな連載も第10回を迎えた今、私には、子どもたちに対する次のような疑問が湧いてくるのです。
「あなたのその不安はいったいどこからくるの?」「本当にあなたは不安なの?」。
これまでに何度か書きましたが、私は、愛着に課題を抱える子どもと接してきたことで、自分自身も愛着に課題を抱えていたことに気づきました。両親が揃っていて、母親からも末っ子として愛されていた自分が、なぜあれほどまでに「もっと、もっと」と愛情を求め、心の苦しみを抱えていたのだろう、と不思議に思います。
また、私とは反対に、かなり家庭の環境や親の状況が厳しいのに、明るく和やかに学び、生活している子もいます。家庭環境に不安を抱えている子の全てが愛着に課題を抱えているわけではありません。それは、なぜなのか。ひょっとすると子どもたちは、「愛という幻」を追い続けているのではないか。そんなことも考え続けてきました。
今回は「メタ認知」による自己理解という視点から、愛着に課題を抱える子どもへの関わりを捉え直していきます。「メタ認知」のために私がどのような取組を行い、クラスの子どもたちとどのように対話をしてきたかを紹介していきます。
大人の社会から見えてくること
よくニュースで見かけるDVや虐待などの事件。警察や児童相談所などへの相談、訴え、通告の件数は年々増加しています。数値増加の大きな要因は「相談しやすくなった」「通告しやすくなった」ことだと思われますが、大きな社会問題として多くの人に認知されるようになってきた現在も、減少の兆しはありません。
また近年では中学受験をめぐって、両親が幼いころから過剰な学習を強いてしまう教育虐待なども社会問題になってきています。こうした社会問題に伴う大人たちの言動や姿は、愛着に課題を抱える子どもの言動や姿と重なる部分があります。
「自分の思い通りにならないと叩く、殴る」「自分の願望充足のため相手に過剰な期待をかける」「相手だけに非があると考えている」「期待した通りにならないと、裏切られたと感じる」……こうした大人たちの姿は、教室で問題行動を起こす子どもたちの姿そのものです。 これまでは、学校現場における愛着障害への対応や、愛着修復のための様々な取組を紹介してきました。しかし、そうした対応の結果、その子の小中学校時代はうまくいったとしても、それ以降の高校や大学時代にはどうなるでしょうか。その後社会人として生活し、保護者となった際には、誰が彼らをサポートしてくれるのでしょうか。
子どもの長期的な成長を考えるのであれば、その子自身の自己理解、世の中の捉え方を変えていく必要があるのではないか、そう考えています。
鍵を握る「メタ認知」
子どもを不安にさせる要因として、家庭内や学校内の環境には多くの人が目を向けています。しかし、同じ環境に置かれた子どもたちの中でも、不安の感じ方に個人差があるのも確かです。それらは個としての遺伝的特性なのか、生後の生育環境なのか、それとも神経伝達系の違いなのかなど、「なぜ人は不安を感じるのか」が、科学的に解明されるまでにはまだまだ多くの年月が必要だと思われます。
しかし、人は学習を通して自己理解を深め、思考することで自分の行動をコントロールできる生き物でもあります。子どもの愛着の課題を持続的に(大人になっても)解消していけないだろうか、子どもの対応に当たるようになってから、ずっとそう考えてきました。そのカギを握るのが「メタ認知」だと私は考えています。
その理由は自分の過去にあります。なぜ自分は満足できなかったのか、なぜあそこまで自分を強く見せようとしなければならなかったのか、なぜあんな振る舞いをしたのか。
過去の自分と向き合った時、自分自身で課題を解決できる方法があるとしたら、それは自己理解しかありません。もし、あの頃自分のことをもっとよく理解できていたら、もっと自分に満足できていたでしょうし、人を困らせるような振る舞いはしなかったでしょう。自分をよく理解していれば、不安からやってくる多くのトラブルも減らせたはずです。
日本の子育てや教育では、自分を抑えて相手の心情を推し量る「他者理解」を重視しがちですが、これからは自分の心をより深く覗き込み、「自己理解」を高めていくことが大切だと考えています。
そのためには「メタ認知」――自分を外側から客観的に見つめ、理解していく力が鍵となります。
とは言え、子どもたちにこうした「メタ認知」をもたせることはとても困難です。特に愛着に課題を抱える子どもたちは、これまで説明してきたように、自己中心に物事を考えて行動したり、逆に他者のことばかり考えすぎて動けなくなったりするからです。自己理解を高めていくためには、他者の気持ちと自分の気持ちとの違いを見つけていく必要がありますが、愛着に課題を抱える子どもは、つい自分のその場の感情に振り回されてしまいがちです。そうした状態にある子にとって、他者の気持ちに気づき、理解すること、自分を見つめていくことは困難です。
一方、自分の感情や行動を抑え込んでしまっている子どもは、他者の気持ちばかりを慮ってしまい、最も大事な自分自身を見失ってしまっている状態です。こうした子にとっても自分を見つめていくことは難しいでしょう。それでも私は、子どもたちのメタ認知の力をなんとか高めようと、ここ5~6年間試行錯誤してきました。
そうした実践の中で特に重要だったと感じている3つの鍵、「道徳教育」「てつがく対話」「アドラー心理学」について紹介していきます。
メタ認知力向上への鍵・その1 「道徳の授業づくり」
子どものメタ認知の力を高めていくために最も大切な授業は? と聞かれたら、誰もが道徳の授業だと答えることでしょう。
一方で多くの教師にとって、道徳の授業はやりにくく、効果が実感しにくいものではないでしょうか。特に教科書教材で学ぶ際には、登場人物の気持ちを考えることばかりに時間が割かれ、国語の教材の読み取りと変わらなくなってしまったり、教材の背景がかけ離れた時代や状況であるせいで子供たちが実感しにくかったりすることが多いのではないでしょうか。
こうした理由もあり、「特別の教科」として組み込まれた今も、道徳を重視する教師は少ないのが現状です。とは言え、授業の中で子どものメタ認知の力を高めるには、この道徳の授業がとても大切であることは間違いありません。他教科と同様、道徳のスペシャリストの実践を学び、自分の授業に取り組んでいくのが王道なのでしょうが、ここではあえてハードルを下げ、若い先生方でも教材内容と子どもの実像との距離を縮めることができる授業のつくり方を提案したいと思います。
道徳の授業をもっと子どもの身近なものにし、子どものメタ認知を引き上げるために私が大切にしている3つのポイントは、「自分事」「対話」「書き出し」です。
以下、それらのポイントについて紹介していきます。
ポイント1 「『教科書の中のお話』から『自分事』に」
道徳を学ぶ際に問題になるのは、先述したように授業が教材の読み取りに終始してしまうことや、教材が子どもの生活環境と乖離しているため、共感しにくくなってしまうことです。
私の授業では、教科書教材からスタートしたとしても、内容を軽く読み取った後、教科書は机の中に片付けてしまいます。その後は校内で起きた似たエピソードや子どもの生活環境に近いケースに置き換え、子どもにとって実感しやすく、考えやすいものにしていきます。
例えば、明治時代に男女平等を切り開いた人物の話であれば、今も学校や身の回りに残っている不平等に焦点を当てますし、順番を守らないことで起きるトラブルの話なら、あえて給食の配膳の順番などに置き換えたりします。
そうすることで、子どもたちは問題をより身近な「自分事」として考えていくことができます。
トラブルを起こしがちな子どもも、その子のトラブルに近い事例に意図的に寄せてあげることで、自分の言動について振り返る機会をもつことができます。
ポイント2「対話」を深めていく
道徳の授業というと、教師と児童とのやりとりをイメージしがちだと思います。
私の授業では、私と子どもとのやりとりはできるだけ減らし、子どもたちのグループ同士の対話を中心にしています。教師が授業を強くコントロールしているうちは、子どもたちは教師が求める意見を逆算して探してしまい、自己理解は深まりません。
対話はまず、子ども同士の気軽な会話の中から生まれてきます。多くの場合、最初は心の浅い部分についての会話から始まりますが、そうした会話の中から、私が大切だなと考えるポイントに焦点をあて、以下のように深めていきます。
児「学校って女子ばっかり優遇されているよね。」
児「力仕事はいつも男子って言われる。」
児「女子だって大変。掃除は女子やって! って言われるよ」
私「なるほどね。学校ってそういうところがあるもんね。でも、学校って、どうして男女に分けちゃうんだろうね? なぜだと思う?」
こうした何気ない会話の流れの中で、教師が意図的に問いかけることによって、子どもたちは深く考え始めます。自分はどう考えるか、自分だったらどうするかを考えていく過程で、会話は次第に対話へと変わり、自己中心的な考えの子も、他者ばかりに気にしてしまう子も、自分の考えと周りの考えの違いを意識できるようになります。
児「学校ってやっぱり男女に分かれるのが好きなんじゃない?」
児「なんで好きなんだろうね?」
児「ん~、その方がやりやすいんじゃないのかな?」
児「えっ、どうして?」
児「何かをするときにバラバラだと面倒なんだと思う」
児「男女別だとやりやすい? どうして?」
児「発育測定とか、分かれるし」
児「あー。なるほど」
児「でも学校じゃなくて、先生なんじゃない?」
児「大人ってどうして分けたくなるんだろう」
児「分けることできちんとさせたいんじゃない?」
児「どうして?」
児「好きにさせると騒いだりするからだよ」
児「ああ、そうかもね…」
私「じゃあ、男女に分かれることも大切ってこと?」
児「あ~、そういうのあるかも。でも分けられるのっていやだな。要らないと思う」
児「私は、ちゃんとできるなら男女分かれていたほうがいいと思う」
こうした対話においては、「正解」を一つに絞らず、誰が正しい、自分は正しいと主張するのではなく、様々な考えがあることを知ること、周りの話を聞いて自分の考えを広げたり深めたりすることを大事にするよう話します。授業における子どもたちだけでの対話はとても盛り上がりますし、結果として周りの意見をよく聞くようになります。
ポイント3 子どもたちが考えを「書き出す」時間を大切に
私の道徳授業では、子どもたちが自分の考えを「書き出す」時間を大切にしています。時には道徳の授業時間の約半分を、その時間にあてることもあります。ほとんどの子どもたちは、「自分の考えを書く」ことが苦手です。もちろん、私のクラスの子どもたちも苦手です。始めは数行程度しか書けない子が多いのですが、慣れてくるとその量はどんどん増えていきます。
書き出す際に子どもたちに大切にさせているのは、「他の人と対話したことを書き出す」ことと、「もう一人の自分と対話したことを書き出す」ことです。
前者の「対話したこと」については、自分が直接関わっていますから、振り返り書き出すことが容易です。その際、自分の考えだけでなく周りの友達との比較などを交えて書き出すことで、自分との違いについて理解が深まります。
後者の「自分との対話」、これこそがメタ認知を高めていく大事な一歩となります。もちろん、自分の考えがなかなか深まらず、書き出すことが難しくて鉛筆がいつまでも進まない子もいます。そうした場合でもその子を急かさず、焦らせず、気長に取り組んでいくと、ある時から突然たくさん書き出すようになります。
また、特性上どうしても書くことが苦手な子どもに対しては、タブレットに漫画や絵でまとめてもよいと伝えています。その子の特性に合わせ、適切な方法を見つけてあげるとよいでしょう。
「書き出す」という行動そのものが、自己理解を深めていくことにつながります。
メタ認知力向上への鍵・その2 「てつがく」
「哲学(てつがく)」というと、非常に難解な言葉を解釈していくようなイメージをもつ方も多いと思います。私もいろいろな本を読んで哲学を学んできたつもりですが、まだまだその深層にたどり着くことはできません。それでもこの「てつがく」が、学校現場においてとても重要だと考えている理由は、それが「自分を知る」ことを追究していく学問だからです。「てつがく」を学び、考えることを通して、子どもたちの実生活や他者との関係性構築に役立つ力がつくからです。特に日本のような集団的組織的なつながりが深い社会においては、西洋哲学だけでなく、東洋哲学の思想も役立つと考えています。
私は、朝の時間や帰りの時間、学級活動の時間に、「てつがく」的なことをよく話しています。
以下、具体的に「てつがく」をどのように学級で活用しているのか、実際に子どもたちにどんな話をしているのか、いくつかの例を紹介します。
大切にしている「てつがく」対話・その1 「誰もが正しい」
子ども同士のトラブル対応。多くの場合教師が間に入り、詳しく事情を聞き取って情報を整理し、どちらが悪かったのかを判断し、指導または助言します。
しかし、そのやり方では教師が思ったように解決しない場合が多いものです。その場では謝り、自分の非を認めた子どもが、帰宅後、「先生に悪者にされた」「本当は相手が悪いのに…」などと保護者に伝え、怒った保護者から苦情の電話を受けた……という経験をもつ方は多いのではないでしょうか。
AさんとBさんのトラブル。私たち大人から見ればどう考えてもAさんが一方的に悪いと思えることでも、Aさんの目に見えている景色は異なります。人の行動にはどんなことにも理由がありますから、Aさんにももちろん、そうする理由があったわけです。それが大人にとってどんなに理不尽な理由だとしても、です。
ですから私は、「教師が聞き取って裁く」ことは、できるだけ避けたほうが良いと考えています。トラブル対応において大切なのは、「どちらも正しい」という視点をもつことです。どの子も、「自分が間違っている」「自分が悪い」と思ってトラブルを起こしているわけではありません。
教師の最初の対応としては、「そうだね。君は正しいって思ってやったことだもんね」と伝え、安心感をもたせたうえで、
「じゃあ、どうしてそうなったのか、自分の思ったことを相手に伝えてみようか」
「このままだと君たちも先生も困っちゃうから、次こんなことが起こりそうな時にどうしたら防げるか、話し合ってみて」と伝えます。
こうした言葉かけが、子どもたちにとって「自分が否定されることなく」トラブルを解決していくための糸口となります。どんな子どもだって、目の前のトラブルは解決したいと思っているのです。でも、その過程で自分が否定されるのは嫌なのです。
我々教師が「どちらが正しい(悪い)」と裁くのではなく、「どちらも正しい」という見方をもつことで、子どもたちは「正しい」「悪い」という二者択一から解放され、自分自身が納得して解決へと歩み出せるのです。
「自分は正しいと思っているけど、相手だって自分は正しいと思っている」。
これは大人になって仕事や家庭生活をしていく上でも、とても大切な視点となっていきます。
大切にしている「てつがく」対話・その2 「みんな0(ゼロ)」
東洋哲学には陰陽や美醜など、一見対極するようなものも、じつは一体であるという思想があります。どの角度から見るかによって同じ物事も善にもなり、悪にもなります。私は子どもたちによく次のような話をします。
「例えばね、Aさんは頭がいいからうらやましいってみんなに思われている。でもそれはホントかな。勉強の成績をよくしようと、本当はやりたい遊びの時間をすごく削って頑張っているのかもしれない。それなのに『〇〇さんは頭がよくていいね』って周りから言われたら、Aさんはどう感じると思う?」
「先生もみんなも0(ゼロ)なんだよ。みんなから見て先生のここがダメって思うところ、あるでしょ? その通りなんだよね。でもね、先生だってメチャいいところあるでしょ。だから先生はそれでプラスマイナス0って思っているんだ。そしてそれはみんなもそうなんだよね。いいところばかりの子なんていないし、その逆のダメなところだけの子もいない。みんなどこかダメで、どこか素晴らしい。だから0(ゼロ)。みんな0なんだよ」
愛着に課題を抱えた子どもたちの思考は極端です。「自分の非を一つも認められない」とか、その反対に「自分には一つもよい所がない」とか、極端な発想に向かいがちです。
東洋哲学における、すべての物事は一体であるという考え方は、今の子どもたちにとってとても大切だと考えています。同じものでも角度を変えると見え方は変わること、人はみな、「よい所」も「ダメな所」も抱えているからこそ一人の人間であることを日常的に伝えています。
大切にしている「てつがく」対話・その3 「友達はいらない」
学校に入るとたくさんの友達ができることが大切で、友達のいない人はダメな人――。それは本当でしょうか。「てつがく」というのは、こうした誰もが当たり前だと思っていることに疑問をもって考えていくことです。
私は、よく子どもたちに対して「友達って本当に必要なの?」と問うことがあります。最初は「当然必要でしょ」と思う子たちも、以下のようなやり取りを通じて、次第にその考えが揺らぎ始めます。
私「ねえ、友達って本当に必要なのかな?」
児「当たり前」「絶対大切」「いないと寂しい」
私「でも、学校の中の多くの悩みって、友達関係じゃない?」
児「ケンカすることもあるけど、遊んでくれるときもある」
私「そうかなぁ。でも、友達の悪口言ったり、嫌なことをしたりして喜んじゃうのはなぜ?」
児「う~ん、そんなときもあるけど…」
私「そんなに大事なら、そもそもケンカなんてしないんじゃないかな?」
児「ケンカしてもまた仲直りできる」
私「ケンカしたとき、『もう二度と話をしたくない』って思わない?」
児「うん、そう思う」
私「一人だったらもっと自由になれると思わない? 好きなことを好きなだけできるよ」
児「確かに…。でも一人だと寂しくなる時もある」
私「それって本当かな。本当は一人でも大丈夫なのに、友達いないとだめな人、って思わされているんじゃないかなぁ」
児「なんだかよく分かんなくなってきた…」
このように、「当たり前だ」「常識だ」と考えてきたことについて、改めてそれが本当かどうかを問い直してみると、次第に曖昧になっていきます。こうした経験を何度もしていく中で、子どもの中に「当たり前だ」と思ってきた(感じてきた)ことをもう一度見直す力が生まれてきます。
当たり前だと思っていることに振り回されず、自分でもう一度問い直す力を身に着けさせていくことが大切だと考えています。
メタ認知力向上への鍵・その3 「アドラー心理学」に基づく対応
この連載を読んでいる多くの方は、アドラー心理学をご存じだと思います。私はアドラー心理学での学びを、子どもへの対応に活用しています。
アドラー心理学というと、岸見一郎さんのロングセラー解説書『嫌われる勇気』(岸見一郎/著、ダイヤモンド社)が有名です。私は、この「嫌われる勇気」という言葉は、愛着に課題を抱える子どもが大人になっていくうえで、最も重要な視点だと考えています。
お茶の水女子大学附属小学校において著者の岸見一郎さんが講演された内容の中で、特に大切だなと思われる部分を引用します。
・人からよく思われたいから生き方がつらくなる
(2017年2月17日・お茶の水女子大学附属小学校における講演記録より)
・ありのままの自分を受け入れる(ありのままではだめだと思わせているのは教師)
・失敗したときに特別悪くなろうとする 積極的→問題行動 消極的→不登校
・「悪いあの人」「かわいそうな私」「ではどうするか」
・我々は幸福になるのではなく、今が幸福である
・「えらかったね」ではなく「ありがとう」
今から8年前ですから、私が子どもたちの大きな変化に戸惑っていた頃、ちょうど愛着障害という言葉に出会った頃の講演です。その頃の私にはまだ、講演内容の意味を子どもの姿と重ね合わせ、対応する力はありませんでした。
その後何年にもわたって子どもへの対応の試行錯誤を重ね、愛着の課題に関する様々な情報を得ていく中で、結果的にこうしたアドラー心理学の知見の重要性を再発見できたのです。
以下、私が日常の実践においてアドラー心理学をどのように活用しているのかを紹介します。
アドラー心理学に基づいた対応例・その1 「ではどうするか」
トラブルになった時、当事者である子どもは「悪いあの人」「かわいそうな私」を様々な形で訴えてきます。特に愛着に課題を抱える子どもは、「悪いあの人(相手を悪者にすることで自分は変わらなくてすむ)」「かわいそうな私(同情を得ることで、他人に行動を促し、自分を変えずに済ませようとする)」という姿を強く表現し、周りを困惑させます。
アドラー心理学では人がこの二つの認識にとどまることをよしとせず、もう一つの道、「ではどうするか」について問いかけます。この問いによってトラブルの解決法とそれに向けての前向きな行動を模索し、主体的に自分の人生を選び取る姿勢をもたせようとするのです。
子どもが困った状況に陥った時、私もそうした姿勢で問いかけるようにしています。
私「きみはDさんが悪いって思うんだね?」
児「Dが全部悪」
私「だからひどいことされた自分がかわいそうだってこと?」
児「そう」
私「でもDさんは君じゃないんだし、君がDさんを変えることも、先生がDさんを変えることも難しいなぁ…。じゃあ、今度またひどいことをされた時、かわいそうなままの自分でいたいかな?」
児「それはやだ」
私「そうだよね。では、またそんなことがあった時に、君はどうしたらもっと楽に生きていけるか、考えてみようか」
もちろん、こうした言葉は初めはなかなか子どもに届きません。愛着に課題を抱える子どもは、「悪いあの人」「かわいそうな私」という認識からどうしても抜け出しにくいのです。
また、自分で選択することを極端に嫌うことも特徴です。うまくいかないことの全てを誰かのせいにしなければ、自分の心の安定が保てないのです。
ところが、その子の中に「周りから否定されない」という安心感が広がってくると、こうした言葉が次第に入りやすくなります。
最初に述べたようにこうした取組は、「子どもが大人となった後」にも使える「メタ認知」の力を育てていくための超長期戦ですから、粘り強く言葉をかけ続け、自分を変えていくことで困難を乗り越える選択ができるよう、勇気づけていくことを心がけています。
アドラー心理学に基づいた対応例・その2 「自己有用感を高める」
アドラー心理学を学んでからは、「えらいね!」「さすがだね!」といった言葉を極力使わないようにしています。これらは教師である自分が、上の立場から子どもをほめる言葉だからです。
こうした上からの立場で「ほめる」ことがなぜ問題なのかと言うと、子どもたちが「私にほめられること」を目的にして行動するようになってしまうからです。
愛着に課題を抱えた子どもの中には、私にほめてもらいたくて、毎日何ページもの宿題をやってくる子がいます。そうなると私にほめてもらうことが家庭学習の目的になってしまい、そもそも大切な自分の力を伸ばすという目的に考えが向きません。
ですから私はそうした場合、その子の努力や存在そのものを「対等な関係で認める」ことを大切にしています。「続けているのがすごいね」「毎日積み重ねをしているんだね」というように、その姿勢について後押しする勇気づけの言葉をかけるようにしています。
また、「あなたがいてくれて助かるよ」という気持ちを伝えるために、「ありがとう」という言葉を多用しています。「君がいてくれるおかげで」→「ありがとう」、「みんなのために」→「ありがとう」というように、その子の存在や努力を認め、その子の自己有用感を高め、前向きな行動を促す言葉を使っています。
その裏には、その子が将来大人になった時に、他者との上下関係や比較によって苦しんだり、それを理由に他者(家族を含む)にプレッシャーをかけ、自分の思う方向へ誘導したりしない大人に成長させたいという思いがあります。
今回のまとめ
愛着に課題を抱える子の中には、メタ認知が弱いため、大人になった後でも対人関係のトラブルが続き、それらが一部のDVや子ども虐待につながるケースがあるのではないかと考えています。
近年増大している愛着に課題を抱える子どもたちは、10年後には社会に出て、家族をもつことになります。そう考えると、私たち教師は今、その場のトラブルに「対処」するだけではなく、その先を見据え、その子たちの自己理解力を高めなければならないのではないでしょうか。今後の学校現場では、あらゆる教育活動の中に、メタ認知力を高めることができる機会を設けていかなければいけません。
小学生、ましてや低学年の子どもに「メタ認知なんて無理」と思われる方もおられるかもしれません。しかし、人間のメタ認知力は、1~2歳から備わっていることが知られています。実際、小学1~2年生が取り組んでも、「てつがく対話」はとても盛り上がります。小学1年生の時から自分を深く見つめる――そうした取組が子どもの愛着の課題を修復するための大きな力になると考えています。
そのためには、私たち教師自身のメタ認知力を向上させる技術や、哲学する力(問いの力)がますます重要になってくることでしょう。

坂内智之プロフィール
ばんない・ともゆき。1968年福島県生まれ。 東京学芸大学教育学部卒業。福島県公立小学校教諭。協働学習の授業実践家で「学びの共同体」から『学び合い』の授業を経て、20年以上にわたり、協働学習の授業実践を続ける。近年では「てつがく」を取り入れた授業実践を行う。 共著に『子どもの書く力が飛躍的に伸びる!学びのカリキュラム・マネジメント』(学事出版)、『放射線になんか、まけないぞ!』(太郞次郎社エディタス)がある。
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