特別支援学級の担任になって…。私の思う「個別最適な学び」「協働的な学び」の原点を得た、あの頃のこと。

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大切なあなたへ花束を
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元大阪市公立小学校校長 みんなの学校マイスター

宮岡愛子
大切なあなたへ花束を
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特別支援教室には、さまざまな困難さを持った子どもたちがいます。関与する先生方のご苦労は、言葉に尽くしがたいと思います。同じように宮岡愛子先生も、かつて特別支援の担任をし、その経験が「みんなの学校」にチャレンジする原点になりました、と語ります。どんな体験があったのか、少し教えてもらいましょう。宮岡先生は木村泰子先生に師事し、現在は「みんなの学校マイスター」として講演活動や各校の支援で大活躍中です。 

【連載】大切なあなたへ花束を #10

執筆/みんなの学校マイスター・宮岡愛子

29+1ですか? 30分の1ですか?

教員になって5年目ぐらいの頃。
私は自ら進んで特別支援学級の担任をしました。その理由は3つありました。
1つめは、私の母も小学校の教員で、特別支援学級をもっていたこと。
2つめは、産休明けで通常の学級をもつのに自信がなかったこと。
3つめは、配慮を要する子どもたちに、どんなことを教えたらいいのかを知りたかったことからです。
今から思えば、2つめの理由なんて、子どもたちに対してとても失礼な話ですよね。
でも、子育てに追われていた当時、自分に全く余裕がなかったのは偽らざる事実です。
そして、同じ学校の年配の先生が
「今は、目の前の子どものことだけに集中してやったらいいよ。そして私ぐらいの年齢になって時間的に余裕ができたとき、若い先生をサポートしてくれたらいいよ」
と温かい言葉をかけてくださったことで、私の気持ちは決まりました。

こうして、私は特別支援学級の担任になりました。
当時の勤務校では、支援の必要な子どもたちは主に特別支援教室で学び、ときどき通常の学級に戻る、という形でした。
当時、6年生に筋ジストロフィーの子どもがいました。その子は筋力をつける必要があるので、一般の教室では立って授業を受けていました。特別支援教室に来ても、体の訓練が中心となりました。
その子と出会って、まだ日の浅かった、ある日のことです。
帰りの会に出るため、その子は通常学級に戻っていきました。
「さようなら」
元気な声がして、教室から出てくる子どもたち。
それから何分か経って教室の前を通りかかると、その子は座ったままでした。
「あれ? まだ座ってる?」
そう思いながら、私は特別支援学級の教室に戻りました。
でも、何だかその姿が気になって、6年生の教室に戻ると…。やはり、その子は座ったままです。
担任の先生は、教卓の前で、別の子どもと話をしています。その子のことを気にしながらも、声をかけることはありませんでした。当の子どもの方も、ちらちらと先生を見ています。
「先生はあの子のことを放ったらかして、何をしてるんだろう?」
私は、思い切って担任の先生に尋ねました。
「○○さん、帰りの会が終わっても席に座っているのですが、いいのですか?」
と。
そしたら先生は、
「あの子が自分から、『先生、帰るので車椅子に移動させてください』と言ってくれるのを待ってるんやで」
と教えてくれました。
その子は、母親に車椅子を押してもらって登校し、下校のときは担任の先生に送ってもらっていたのでした。
私は、ハッと気づきました。私は、その子のことをどう見ていたのでしょうか。
車椅子に乗らなくては帰られないのだから、先生の方から声をかけてあげるべきだ。そう思い込んでいたのです。
確かに、自分からサポートをしてもらいたい、と言葉にすることは勇気がいることです。
しかし、この子は、いずれ社会に出ていく。
社会では、自分が困っているときに、自分の方から「手伝ってください」「助けてください」と言うことが必要になってくる。そこまで考えておくことが大切なのだ
担任の先生は、私にそのことを伝えたかったのだと感じました。

また、二分脊椎症で手術をした、知的障害のある子どももいました。
その子はとても人懐っこく、愛らしく、人と会話をするのが大好きでした。
私は、特別支援学級でその子に一生懸命に算数のたし算を教えました。
その時間はとても楽しく、ちょっと計算できるようになったと言っては、お互いに大喜びしてました。しかし、学びが定着するのが難しかったのも事実です。
そんな姿を見ていたとき、こんなにコミュニケーションが好きな子ならば、特別支援学級での一人の学びより、通常の学級で他の子とコミュニケーションをとりながら学ぶ方が伸びるのではないか、と考えました。
実際に教室にいる時間を増やし、私がその子のサポートにつくことにしました。
それによって、通常の学級で子ども同士の会話を聞くこと、そして自分に聞かれたことを受け答えすることが、とても大切な学びにつながるのだと実感しました。

次に赴任した小学校では、少しずつ、インクルーシブが進められていました。
そこでは、通常の学級で、特別支援の子どもたちも一緒に過ごしていました。
その学校の特別支援担当(今でいうコーディネーターのポジション)はとても素敵な先生で、私もたくさんのことを学びました。
5年生の国語だったと思います。授業を進める私と、特別支援学級在籍児童につくその先生と二人で授業をすすめていきます。
特別支援在籍児童は、知的障害もあり、その学年の学びは難しい状況でした。
けれども、その先生は、教科書の挿絵から、どんな色があるかを探す、といった手作りの教材で、他の子どもたちと共に学ぶようにしていました。
私も、時にその子の机へ行ったり、その子の学びからクラス全体に対する発問をしたりしました。
また、その先生も
「〇〇ちゃんだけの先生になったらあかんねん」
と、他の子どもが困っていれば、声をかけてくださいました。
T1とT2を入れ替えして授業をすることもありました。
今から思えば、これが、私の「個別最適な学び」「協働的な学び」の原点だと考えています。

あなたの受け持つ学級が30人学級だとして、1人の特別支援在籍児童がいるとします。
あなたは、
それを29+1と見ますか? それとも30分の1と見ますか?
それによって大きく変わるのです。

私は、特別支援学級在籍児童が通常の教室で学んでいるときに、いつも確認している3つの項目があります。
それは、

① その子に応じた学びがあるのかどうか
② 子ども同士のつながりがあるのかどうか
③ 特別支援担当の教員と通常学級の教員がチームになっているのかどうか

ということです。
私は、管理職になったとき、必然的に全員が1チームで子どもを育てていけるよう、特別支援学級の先生にも通常の学級での教科をもってもらうようにしました。
それは各教員の「子どもの見方」の変容をうながし、お互いがチームとなれることにつながります。
子どもにとっては、いろいろな先生と出会うチャンスになります。

ただ、少し残念なのは、今でも特別支援学級の子どもが通常の教室にいるとき、特別支援担当の先生が、その子どもにしか声をかけない場面がたくさんあることです。
通常学級にいる他の子どもが困っていて、特別支援在籍児童は、きちんと学べているにも関わらずです。

「すべての子どもをすべての教職員で育てる」
これは大切な理念です。

イラスト/フジコ


宮岡愛子(みやおか・あいこ)
みんなの学校マイスター
私立の小学校教員として教職をスタートするが、後に大阪市の教員となり、38年間務める。教員時代に木村泰子氏と出会い、その後、木村氏の「みんなの学校」に学ぶ。大阪市小学校の校長としての9年間は「すべての子どもの学習権を保障する」学校づくりに取り組んだ。現在は、「みんなの学校マイスター」として活動している。


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