教科書を開かない子供たち【玄海東小のキセキ 第2幕】

連載
玄海東小のキセキ
教科書を開かない子供たち【玄海東小のキセキ 第2幕】

宗像市教育委員会にいた脇田哲郎は、突然、ツカツカと現われた市会議員から、「玄海東小学校がおかしい」と迫られます。それを機に住民からも同様の苦情が……。教育長や教育委員長とともに小学校に乗り込む脇田。学校訪問団が見たその小学校の衝撃の姿とは!?

悪いシグナルが出始めた学校

校舎から子供と教員の叫び声が聞こえた。
玄海東小学校の前景。玄界灘を望む、さつき松原海岸まで徒歩圏内だ。

2008年度の夏休みが明けた。目立った問題や事故もなく、穏やかな空気の流れる宗像市教育委員会のフロアに一陣の風が吹いた。市会議員の吉田益美が現れたのだ。のちに宗像市議会初の女性議長となる地元の有力議員である。吉田は脇田を目指してツカツカと一直線に歩いた。宗像市教育委員会があるフロアと議場や委員会室などがある議会フロアは、市役所本庁舎の同じ3階にあった。行き来することは簡単でも、吉田市議の歩き方は容易でない事態を示していた。

「玄東(げんとう)がどうなっとるか、知っとうね」

吉田は歯に衣着せぬ言動で知られるだけあって、そう単刀直入に言った。

「どういうことですか」

落ち着いた口調で事情を尋ねる脇田に対して吉田はこう説明した。

「子供たちが授業中に騒いだり、教室を飛び出したりして、まったく授業が成立していないらしい」

そこへ係長が「何か、あったとですか」という顔付きで近づいてきたから、「玄東のことを何か聞いているか」と尋ねたが、係長は首を横に振った。

「すぐにどういう状況か、調べます」

脇田は吉田にそう言ってその場を収めた。

地元の人が「玄東」と呼んでいる福岡県宗像市立玄海東小学校は、福岡市と北九州市というふたつの大都市に挟まれた人口約10万人の宗像市にある小学校で、近くには宗像大社や玄界灘に面した県内有数の水揚げを誇る鐘崎(かねざき)漁港があった。当時の児童数は200名ほどである。

脇田は主幹指導主事として指導主事を統括する立場にあった。実際に学校を巡回し、校長や教員に対して助言や指導を与えるのは指導主事の役目である。吉田は統括責任者である脇田にまっさきに知らせてくれたのだった。

脇田にとってそれは寝耳に水だった。当時の城月(しろつき)カヨ子教育長は、「教育の宗像市」を標榜し、安心・安全な学校づくりとして小中一貫教育を導入することを視野に入れていた。脇田や部下の指導主事は、その導入に向けた下地づくりに動いていたのである。玄海東小学校を含む地域を担当する指導主事は、小中一貫教育に関する件で校長とたまに会っていたが、学校の授業が成立しないほど荒れているという情報をつかんではいなかった。

その後、地域の住民から苦情の電話が立て続けにかかってきた。

「学校から叫び声が聞こえるが、大丈夫か」

「授業ができないようだ。教育委員会は何をしている」

それだけではない。玄海東小学校から教員の病気休暇の申請が届いた。さらには、保護者が市教委を訪れ、「うちの子がいじめられている」と訴えてきた。

学校から悪いシグナルが出るようになった。吉田の知らせが風雲急を告げたのかもしれないと脇田は思った。玄海東小学校の視察から戻った指導主事から脇田は、特に3年生のクラスで授業が成立していないという報告を受けた。

「学校訪問の時期を前にずらそう」

その考えが脇田の頭に浮かんだ。無理は承知のうえだ。しかし、他の学校の訪問時期を変更するわけにはいかない。学校訪問の一団には教育長や教育委員長が参加するので、日程の調整がつく必要がある。しかも、玄海東小学校の運動会の実施は9月下旬。運動会の練習に向けて子供や教員が集中する時期だから、9月中の訪問は避けたい。

市教委は、市内すべての小学校を対象に年1回、学校訪問という名称で視察に訪れることが定例になっている。玄海東小学校の学校訪問は10月末に予定されていたが、日程の前倒しに動いた。各部署に頭を下げて回り、どうにか学校訪問の日程を10月上旬にずらすことができた。

脇田は福岡教育事務所時代のことを思い返していた。福岡教育事務所は福岡県教育庁の出先機関のひとつで、県の指導主事だったときの話だ。そこで中学校の荒れが問題になったことがあった。授業中に生徒が教室にいなくなる。生徒が学校を飛び出しては買い食いをする。学校の荒れの鎮静化を求められた脇田の上司は、全教科・領域の指導主事15、6人が集結して学校訪問することを決めた。1週間続けて毎朝、指導主事がすべてのクラスに入るのである。

「本気を見せろ!」

そのとき、上司は脇田ら指導主事たちに向かって、そう発破をかけた。そのときのことを思い浮かべながら、脇田は学校訪問の日を待った。

4年生のクラスはどこ行った?

子供のけんかが絶えなかった。

10月上旬、玄海東小学校の学校訪問の日が来た。城月教育長以下総勢10人の関係者が学校に乗り込んだ。3階建てコンクリート造りの校舎に向き合う形で学校の駐車場がある。そこに止めたクルマから降りると、晴れた空の下で子供の奇声と教員の怒声が飛び交うのが聞こえた。「かあーちゃーん」と叫ぶ声が耳につんざく。1年生だろうか。脇田は嫌な感じがした。重苦しい空気が学校に漂っていた。

校長と挨拶するのもそこそこに脇田は、特に荒れていると報告のあった3年生のクラスに向かった。3年生の教室に着くと、授業中だというのに担任の姿が見えない。

「どこに行ったの? 先生は」

脇田がそう尋ねると、クラスの子は教室の後ろを指差した。何かを囲むようにワイワイとはやしたてている子供の視線を追うと、担任の女性が取っ組み合いのけんかをしているふたりの子供を必死に引き離そうとしていた。すると、それを見物している子供同士でけんかが始まったので、脇田は慌てて止めに入った。

子供は学校や教室にいつも見かけない大人がいると静かにするものだという教師の経験則が通用していなかった。こうした学校訪問があるというときには、あらかじめ担任が子供に、「今日は教育委員会からたくさんの先生方がいらっしゃるから、クラスを見学している時間だけは静かにしておいてね」とでも言い含めておけば、子供はたいてい「はい」と担任の言うことを聞くものだが、それすらも子供たちは無視した。大人の存在が子供の眼中にないというのは、まったく異様な光景だった。

脇田のメモによれば、3年生のクラスには、授業中に勝手に立ち歩く、授業中に私語が多い、教師の指示を聞かない、教室全体が騒がしい、落とし物やごみが散乱している、机や椅子が並んでいない、棚の上やロッカーが整理されていない、奇声を発する子供がいる、子供の目がきつい、言葉遣いが乱暴である、けんかが頻繁に起こる、といった言行が見られた。このような状況では、教科書を開いている子供がクラスにひとりもいなかったのは当然かもしれない。

学校訪問団が3年生のクラスを見終わったとき、不思議なことに気づいた。校舎の1階には1、2年生のクラスが、3階には5、6年生のクラスがあり、2階には3、4年生のクラスがあるはずなのだが、3年生のクラスしかないのだ。

脇田が思わず校長に聞いた。

「4年生のクラスはどこですか?」

「3年生が騒がしくて授業ができないということで3階に移動しました」

急いで脇田が3階に上がる。3階の廊下にたどりついたときに聞こえてきたのは、4年生担任の怒声だった。

「静かにしなさい!」

「何、しよるか! そんなことをしてはいけません」

別の担任が廊下にいる子供に諭している姿も目に入った。

「早く教室に戻りなさい」

学校訪問団の一行は3年生に限らず、すべての学年のクラスを見て回った。1、2年生のクラスが大人しいのは、まだ子供たちが幼いせいであったが、3年生から上の学年になればなるほど、荒れの深刻さが増していた。

3年生のクラスでは、教科書を開いていないだけで机の上に教科書を置いている子供が多かったが、6年生のクラスでは、机の上に教科書が置かれていればいいほうだった。好き勝手さを比べると、3年生がグループ単位の行動であるのに対して、6年生のクラスでは、てんでばらばらに個人単位で好き勝手なことをしていたのである。

どのクラスも授業中の私語が絶えないことは共通していた。これでは担任の指示が通るはずがなかった。

「どうしてこれほどまでに荒れるのか」

日ごろ、なかなか動じることのない城月教育長の表情が当惑の色に変わったのを脇田は見た。学級崩壊というよりも学校崩壊といってよかった。脇田から見れば、子供たちの目が釣り上がっていることが一番の気がかりだった。

学校訪問の締めくくりには、教育委員会と学校の間で協議会が開かれる。校長が学校運営のあり方とその計画を語り、教頭は校務運営について述べ、教務主任は教務運営の具体化策を話して協議会は終わった。

特に学校の荒れについての状況説明はなかった。協議会という名ばかりで別に協議するわけではない。学校訪問を受けた学校は通例に従って型通りのことをすればよかった。

脇田としては、学校運営が校長の裁量権の範囲にある以上、学校訪問の段階では学校を見守るほかない。

それにしても、なぜ校長は学校が荒れているということを説明しなかったのだろうか。それが露見すれば、校長の学校運営能力や指導力不足が指摘される。しかし、学校の荒れを隠し通すことなどできないことくらい校長はわかっているはずだ。そもそも荒れているという認識がないという可能性もある。

学校に対して聞き取り調査を実施し、助言や指導を行う指導主事の手腕が問われることになった。

「玄東」と脇田哲郎の長い付き合いが始まった。

ライター/高瀬康志 イラスト/菅原清貴 ※文中の敬称は省略させていただきました。

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