先師・先達に学ぶ(その4) ー東井義雄先生の教育実践(下)ー【野口芳宏「本音・実感の教育不易論」第53回】

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野口芳宏「本音・実感の教育不易論」
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植草学園大学名誉教授

野口芳宏
先師・先達に学ぶ(その4) ー東井義雄先生の教育実践(下)ー【野口芳宏「本音・実感の教育不易論」第53回】

教育界の重鎮である野口芳宏先生が60年以上の実践から不変の教育論を多種のテーマで綴ります。連載の第53回は、【先師・先達に学ぶ(その4) ー東井義雄先生の教育実践(下)ー】です。


執筆
野口芳宏(のぐちよしひろ)

植草学園大学名誉教授。
1936年、千葉県生まれ。千葉大学教育学部卒。小学校教員・校長としての経歴を含め、60年余りにわたり、教育実践に携わる。96年から5年間、北海道教育大学教授(国語教育)。現在、日本教育技術学会理事・名誉会長。授業道場野口塾主宰。2009年より7年間千葉県教育委員。日本教育再生機構代表委員。2つの著作集をはじめ著書、授業・講演ビデオ、DVDなど多数。


3 『培其根』(全6巻)

ア、根を養えば樹はおのずから育つ。
イ、見えないところが本物にならないと、見えるところも本物にならない。
ウ、根の深さと広がりが、樹の高さと広がりになる。
エ、本物と偽物は、見えないところのあり方でわかる。

などなど、いろんな言い方で根の大切さを説かれた東井先生でした。『培其根(ばいきこん)』とは『其の根を培(つちか)え』ということであり、『培え』とは『養い育てなさい』という意味です。

──以上は、前号でも紹介した村上信幸先生の『東井義雄伝 ほんものはつづく つづけるとほんものになる』(㈱タニサケ刊)からの引用である。もう少し引く。

職員会議や連絡会ではほとんど発言されず、先生方へ要望めいたこともおっしゃらなかった東井先生ですが、提出される週録への指導はとても親切でていねいなものでした。(中略)週録には書く方も少しは手を抜いたり、ごまかしたりもします。点検する教頭や校長も軽く目を通してハンコを押す程度で、形式だけのものになっている学校もあったのです。ところが東井先生は違いました。

以下は東井先生の週録への助言や指導、共感や称賛、感想や感謝などがいかに懇切かつ的確であったかという実例紹介に進んでいくのだが、閑話休題、話題を『培其根』に戻したい。

全6巻として表題に示した『培其根』は、東井校長の最後の勤務校、八鹿町立八鹿小学校でのいわば「校長の実践記録」である。一般的には形だけの「週録」になりがちなのだが、「ところが東井先生は違いました。」という言葉が示すように、一人一人の先生方の提出した週録に、東井先生は心をこめて正対し、思うこと、考えたことを丹念に書きこむので、提出する先生方の方が徐々に感化され、心を入れかえて日々の実践を記録するようになっていく。東井先生は、そのように向上、充実した部下職員の週録に心を打たれ、「『週録』を私一人で読んでいるのはもったいない。書いたものを広く皆さんにも広げたい」と考えるようになり、「東井先生が自分の手でガリを切って『培其根』を作り始められる」ということになったのである。

神戸大学の哲学の教授で「教育界の師父」と仰がれた森信三先生は、東井先生を評して「国宝級の教育者」と述べ、その証拠を見せよと言われれば「一瞬のためらいもなく『培其根』を挙げる」と述べている。その森先生のお奨めで、1年分の『培其根』を和綴じの1冊にまとめ、6年間分で全6冊、積み上げると30センチメートル程になった由だが、これを1000セット作って自費出版したところ大変な好評で、その後も何回か増刷をしたと元・部下職員の米田啓祐先生が述べている。

今ではこの和綴じの本は入手できない。そこで、前にも紹介した寺田一清氏が一念発起し、「培其根」刊行会をつくり、平成10年10月10日に、復刻版全6巻を刊行した。

東井先生が、精魂こめてガリ版を起こした筆蹟がそのままに残る貴重な文献である。この第6巻には、「未完の最終号」と「第6巻について」という2編も収録されているが、この2編のみがガリ版刷りではなく、活字版になっている。「未完の最終号」には東井先生の次の言葉が載っている。

ガリ版に切ったまま、印刷することができず、とうとう発行することができなかった。用務の井田さんが何度も『印刷くらいしますよ』と言ってくださったが、学校を去った私には、どうしてもそれがお願いできなかった。

──と。

この一文にも、東井先生の人柄や人生観が滲み出ている、と切ないまでに敬服の思いが募る。自費出版された和綴じ本も正式には復刻版であるから、刊行会から公刊された箱入りの上製本全6巻は、復復刻版になるのだが、これとても今ではおそらくその入手は困難であろう。

イラスト53

4 『培其根』の思想

冒頭に引いたア、イ、ウ、エの4つの言葉は、いずれも東井先生の生の言葉であろうが、実に味わい深いものがある。

「根幹」という言葉の反対語は「枝葉」ということになるのだろうが、東井先生は「枝葉」「末節」を嫌った人だと私は考える。先生は、常に「根本、本質、原点」に思いを致していた方に違いないと思うのだ。

「見える化」「可視化」という言葉が広まっているようだが、「見える所」や「見えるようにする」ことに心が向き過ぎれば、「見えない所」の大切さを忘れがちになる。

前回でも書いたことだが、東井先生の下で働いていた井上和昌先生に語った東井先生の言葉を再び引いてみたい。「井上さん、道はたくさんあるようだけど、一つしかない。自分がどう生きるかの道以外にない。テクニックじゃない生き方の問題だ。」

教育実践者として必要な「指導技術」を磨くことは大切に違いないし、その技術が低いことは望ましくないことも自明である。だが、「テクニックじゃない生き方の問題だ」という東井先生の言葉の重みを改めて考えてみたい。「生き方の問題」というのは、「教育は人である」という時空を超えた哲理と同義の言だと私は思う。

東井先生の書物には子供の作文や子供の日常的な言葉や行動が多く紹介され、それへの対し方や受けとめ方、考え方、あるいは現象的な言動や背後にあるものへの洞察などが多く語られてあり、心を打たれることが多い。

しかし、授業における板書の仕方や発問の仕方、授業や指名の「技術」「テクニック」「方法」「事例」などの記述には出合ったことがない。書物を通じて心打たれるのは、東井先生の人間味、人生観、人となり、眼差し、口振り、語りなどである。これらは、別の言葉で言えば、「教養」あるいは「修養」ということになろうか。──と書いてきて、ふと思い当たるのだが、現今の我が国の教育者、実践者に最も欠けているのが、教育者としての、あるいは人間としての「教養」「修養」という一点ではなかろうか、ということだ。

研修という名で行われている「教え方」や「指導法」の「研究」の内実は、要するに小手先の問題であり、「教養」や「修養」には遠い気がする。成果主義、効率主義に走って、根本的な教育の実が痩せ、細り、薄っぺらになっている。いじめ一つ、不登校一つ、解決、解消できないではないか。

教育行政も、学校現場も、教育学者も、親も、教員も「教員の教養や修養の重要性」という問題には気づいていないように思えて仕方がない。東井義雄教育学への学び直しが必要な時ではないだろうか。

5 東井義雄語録に学ぶ

① 拝まない人も

東井先生の生家東光寺は小高い所にある。先生の教員人生は毎日生家から自転車に乗って坂を下り、帰りには自転車を下り、それを押して坂を上って家路を辿るということであったようだ。ある夕方、いつものように自転車を押して坂を上っている時に掌を合わせている石仏にふと目を止めて驚いた。「私は、拝まれていた!」と気づかれたのだ。その夜すぐに書かれたのが次の言葉だそうだ。

拝まない者も
おがまれている
拝まないときも
おがまれている

この珠玉の詩句は、東井先生の真面目を表したものと私は愛誦して止まない。僧籍に身を置く人にして初めて誦することのできる玉章、名句と感じ入るばかりである。東井先生は、やはり仏に近い立派な方だとさえ思いたい。先生は、他の人を常に、正に「拝んでいた」方ではないか。そういう「根っこ」を持たれていた方だ。「培其根」という文言は、東井先生にして初めて編み出し、紡ぎ出せる重厚な言葉だと思う。

② 夜が明ける

太陽は
夜が明けるのを待って
昇るのではない
太陽が昇るから
夜が明けるのだ

これもまた私の愛誦して止まぬ一編である。謙虚で、控えめで、決して人を押しのけたりはしない温厚な東井義雄先生の、この語に秘めた気魄には圧倒される思いだ。静かな言葉、静かな気魄である。「一隅を照らす、これ則ち国宝なり」と言ったのは天台宗の開祖、最澄の由、これもまた凄い言葉だが、東井先生の「太陽が昇るから 夜が明けるのだ」という言葉も最澄の言に勝るとも劣らない重力が漲っている。

東井先生の代表作『村を育てる学力』は、正に「初等教育の太陽」となったのだ。

③ やんちゃな子からは

先にも述べたことだが、東井義雄先生の最後の勤務校は兵庫県養父郡八鹿町の八鹿小学校である。昭和39年、先生51歳の時から、昭和47年3月59歳までの8年間である。

この間の校長としての実践が『培其根』の発行とともに広く知られるようになり、八鹿小学校を訪ね、見学する人がどんどん増えた。村上信幸先生の『東井義雄伝』には次のように書かれている。

昭和42年度 475名
昭和43年度 677名
昭和44年度 692名
昭和45年度 447名
昭和46年度 543名

これだけの見学者を迎えながら、東井先生は誰に対しても「全く同じ態度で」「普段のままを見てもらってください。」「この学校が作文学校であったり、国語学校である必要はありません。そうなることを警戒しましょう。」「東井流でない考え方をこそ大切にしてください。」「反対意見からこそ学ぶべきものがあるのです。」──という態度を崩されなかったようです。──と、村上先生は書いている。この東井先生の「心の広さ」にまた頭が下がる思いである。

このように東井先生の考え方は、次の一編の詩にこよなく表れていると思う。

やんちゃな子からはやんちゃな子の光
おとなしい子からはおとなしい子の光
気のはやい子からは気のはやい子の光
ゆっくりやさんからはゆっくりやさんの光
正直者からは 正直者の光
男の子からは 男の子の光
女の子からは 女の子の光
教室も
運動場も
光 いっぱい

森信三先生もそうだったが、東井先生も、その指導を受けたすべての人が「私が、一番先生に可愛がってもらっている」「私のことを一番よく理解してくださっているのは先生だ」と思っていたという。合掌。

執筆/野口芳宏 イラスト/すがわらけいこ

『総合教育技術』2022年2/3月号より

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