教育現場で気になる3つのこと【野口芳宏「本音・実感の教育不易論」第16回】

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野口芳宏「本音・実感の教育不易論」
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植草学園大学名誉教授

野口芳宏
教育現場で気になる3つのこと【本音・実感の教育不易論 第16回】

教育界の重鎮である野口芳宏先生が60年以上の実践から不変の教育論を多種のテーマで綴ります。連載の第16回目は、【教育現場で気になる3つのこと】です。


執筆
野口芳宏(のぐちよしひろ)

植草学園大学名誉教授。
1936年、千葉県生まれ。千葉大学教育学部卒。小学校教員・校長としての経歴を含め、60年余りにわたり、教育実践に携わる。96年から5年間、北海道教育大学教授(国語教育)。現在、日本教育技術学会理事・名誉会長。授業道場野口塾主宰。2009年より7年間千葉県教育委員。日本教育再生機構代表委員。2つの著作集をはじめ著書、授業・講演ビデオ、DVD等多数。


1 名取を許される実力

私事に亘って恐縮だが、現在私は南房総の一角にある千葉県君津市の文化協会という民間団体の会長を務めている。どこの市にも、町にも芸術や文化を愛好する人々の団体はあるだろうから、珍しい会などではない。君津市や市の教育委員会からも若干の助成を受ける準公的な性格も多少はある団体で、40年余りの歴史を持ち、会員は860人程の会である。

その中の日本舞踊部門のさる社中から新しく名取を許された3名の披露を兼ねた、第17回めの「おどりの会」にぜひとお誘いを受けた。詩吟、民謡、書道、絵画、盆栽など、それぞれの喉や腕を競う発表会があるので、なかなか出席できないのだが、都合さえつけば努めて出席をと心がけている。

参加して驚いたのは、1600人を収容できるホールがほぼ満席であったことだ。文化協会の発表会よりもはるかに盛況である。来賓の祝辞も、国会議員、県議会議員、そして4市の市長どまりであり、60ページに及ぶ立派なプログラムの30ページは、協賛企業、商店の祝賀広告である。

会主の挨拶に続いて、新名取3名の写真と言葉が載っている。短いので引用する。

皆様方にはますますご清栄のこととおよろこび申し上げます。
さて、私達三名は、三歳の頃より寿万恭先生、寿万佳代先生の御指導のもと、お稽古を続けて参りましたが、この度寿万佳代先生のお取り立てにより御家元様より流名を許され、名取の末席に加えさせて頂くこととなりました。
まだまだ未熟者ではございますが、これを機会に、一層芸道に精進いたす所存でございますので、今後とも御指導御鞭撻下さいますよう、よろしくお願い申し上げます。

まずは、「三歳の頃より」という年齢である。就学前、幼児教育で言えば年少組である。生まれて3年しか経っていない。その頃から、お二人の先生の「御指導のもと、お稽古を続けて参りましたが」とある。

年少児という早期に、師匠の下で「御指導」を受け始め、学び続けて今日の栄光に至ったということである。因みに、新名取の三方は20代、大学生である。そういう経験のない私どもにとっては途方もない長い期間である。その間、「御指導のもと、お稽古を続けて」こられたのである。「名取」について『広辞苑』の解説を見ると、「②音曲・舞踊などを習う者が、師匠から芸名を許されること。また、その人。一定の技能に達した弟子に流儀名の一字を与え、家元制度の維持をはかるもの」とある。全ての弟子に与えられるものではないし、容易に許され与えられる地位ではないところに大きな意味と価値がある。

1時間程拝見して失礼をしようかと家を出たのだが、引きつけられたままとうとう午前中を過ごした。師匠に学び、芸を磨くひたむきな姿と、到達した高い芸域に魅了されたことによるものであろう。

会を辞していろいろのことを考えさせられた。とりわけ「教育の不易論」に関してである。「本音と実感」に基づいて思うところを述べ、御批判を受けたい。

2 芸道修業は教育の原形

踊りでも、詩吟でも、生花でも、武道でも、およそ芸事、習い事の世界で一応の水準にまで力を高めていく道筋は、そのまま教育の不易の原理を踏まえていると私は考えている。まずは、師匠を求めて弟子入りする。教える者と教わる者とがいて初めて教育という営みが始まる。言うまでもないことだが、弟子は師匠から見れば「未熟、無知、未完」の存在である。反対に弟子から見れば師匠は「模範、完成、憧れ」の存在である。それに少しでも近づこうとして努力、精進が始まるが、その過程でいろいろの課題が与えられる。課題に応えるべく努めるが、師匠から見ればいろいろの「不備、不足、不十分」が目につく。弟子にはそれが見えないし、気づかないのだが、指摘をされれば納得でき、そこを直せば可とされて次の課題が提示される。弟子は新しい課題に挑戦し、自分の努力の成果を評価して貰って長を伸ばし、短を改め、補い、徐々に上級、高段の実力を身につけていく。課題を与えられ、弟子は努力し、師の評価と指導を受けつつより高みに昇り続ける。これが教育の原形、原型である。

弟子の向上の条件は、師の教えを敬い、指導を素直に受容し、教えに従って改め、正し、それを繰り返して習熟することである。師匠は、高い立場から、弟子をより高みに導くべく、指摘し、指導し、時に手本を見せて違いに気づかせる。

師は教え、弟子はそれを受容して学ぶ。この原形は、古今東西を超えて変わることはあるまい。

フィギュアスケートも、碁も将棋も、剣道も、茶道も、絵画も、歌唱も、演奏も、野球も、フットボールも、角力も、そして学問も、人生の生き方も、全てに共通する学びの原理がここにある。

教育における不易の原理は、

①すぐれた指導者のすぐれた導き、と
②学び手の素直な受容と誠実な努力、と
③時宜を得た適切な課題、教材の提示

の三つが、それぞれ、適切な時と所とを得てバランスよく嚙み合うことにある。

3 気になる教育現場の風潮

ところが、この単純この上ない不易の原理が、「大きく変化する社会」に生きていく力をつけるためにとの理由で、いろいろな変化を見せている。それらの変化は、従来の考え方よりも「新しい」という点で、「すぐれて」おり、今の時代とこれからの時代に「ふさわしく」、その故に「正しい」と受けとめられ、広まってゆくことになる。

さて、本当にそれがよいことなのだろうか、という立場から三つ疑問を述べたい。

⑴ 「教える」ことへのためらい

授業研究協議の席上「あそこはぜひ子供に考えさせたかった。教えてしまったのは惜しい」「もっと、とことん考えさせる時間をとるべきだ」というような指摘がよくなされる。そういう場合もあることは否定しないが、このような指摘によって「教える」ということが、何となく悪いことのように思われているようだ。

道徳の授業でも、結論を示さず個々の考えに任せて終わる、オープン・エンドが良いとされているようだ。「考え、議論する」ことが賞揚され、「多様な考え方」「多面的、多角的な考え方」が良しとされている。「何を教えたのかよく分からない授業」がもてはやされているという声をよく耳にする。踊りの世界では見られまい。

教えの否定は一部の学者や指導者の「観念的机上論」で、実践者の「体験的実感論」とは相容れない。次の二つを比べて欲しい。

「今度の先生は本当にいい先生だ。子供にいろいろなことを教えてくれる。今日は何を教えてくれるだろうかと、子供が毎日喜んで学校に出かけていく。有難いわ」

「今度の先生は本当にいい先生だ。何も教えてくれない。どんなことでも子供に考えさせ、子供に決めさせてくれる。明日も、何も教えてくれないだろうなと、子供が毎日喜んで学校に行く。有難いわ」

Bのように考える親が増えるのがよい、と思う読者があるだろうか。あるまい。だが、学校現場ではAのような教師は不評で、Bのような教師がほめられているらしい。踊りの世界とは反対だ。

また、教師の子供の多くは学習塾に通っているらしい。親しい塾経営者から直接聞いた話である。塾の方がよく「教えてくれる」から力がつくと、子供も教師も考えているらしい。何たることか!

⑵ 子供への過信

「子供は無限の可能性を秘めている。子供を軽く見てはいけない」とよく言われる。「無限の可能性」はプラス面だけではない。怠ける可能性、努力しない可能性、悪に走る可能性、不健康なことに積極的になる可能性、それらをも「無限に」秘めているのが子供の正体、実像である。

「悪い子なんて一人もいない」ということもよく聞く。現在の日本の通知表や指導要録の記述を見る限り、我が国には、「悪い子なんて一人もいないこと」がよく分かる。それなら、いじめなんて一件も起こらない筈だが、事実は逆である。昔は、公文書は原則的に開示しなかった。開示が原則となったその日から、日本の子供はひとり残らずいい子になってしまったのだ。滑稽である。

子供の実像、正体、本質は「未熟、無知、未完」ということである。だから教育によって、少しでもよい国民にすべく、教え、導き、正していかねばならないのだ。そうすることが本当の「愛」なのである。芸道や武道の世界には、この伝統的な愛が生きているのだ。

⑶ 否定の否定

「子供を叱らないでください」というのが、非常勤講師として赴任した最初の日に校長から言われたことだった、という記事を読んだことがある。子供を叱ると親がうるさいので、校長は防御策を講じたのだろうが、この傾向は、目下全国一律と言ってもよい。

親がうるさくなった、とよく耳にする。モンスターペアレンツなどという言葉もある。これは一つの社会現象の記述だが、私は、「そのような親に育てたのは、学校教育の成果だ」と考えている。だから、私は親の悪口を言う前に、戦後教育のどこがおかしかったのか、と自問自考することにしている。「叱らない教育」を賞讃し、「叱る教育」を排除する現今の保身的教育体質は、いよいよ非常識な大人を育てることにならないか、と私は危惧している。

叱るべき時には叱るのが正しいのである。そういう教師こそ、本物の尊敬と信頼を得るのである。

⑷ 教育の本質を踏まえて自信と勇気を

「教育の目的」は国民の全て、一人残らずが共有しなければならないことなのに、教育のプロである教師もほとんどそれを知らない。教育基本法第1条に明記されている。

「教育は、人格の完成を目指し、」と始まるので、ここだけ覚えている教師はちらほらいるのだが、後は忘れている。

続いて「平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた」となる。ここが特に重要である。一人一人が、「国家及び社会の形成者」なのだと位置づけられているのである。

そういう「形成者として必要な資質を備えた」「心身ともに健康な」と進んで結ばれる言葉は、「国民の育成を期して行われなければならない」のである。

個性も、多様性も大切だろうが、国家及び社会の形成者として必要な資質を備えさせることによって、「心身ともに健康な国民の育成」を期するのが教育の目的なのである。これを心の底から理解し、そのリーダーとしての教師であることに気づきたい。そうすれば、ようやく教師の名取となれるだろう。ぜひ芸道、武道の世界に学びたい。

執筆/野口芳宏 イラスト/すがわらけいこ

『総合教育技術』2018年7月号より

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