子ども中心主義への生物学的批判【野口芳宏「本音・実感の教育不易論」第8回】
教育界の重鎮である野口芳宏先生が60年以上の実践から不変の教育論を多種のテーマで綴ります。連載の第8回目は、【子ども中心主義への生物学的批判】です。
執筆
野口芳宏(のぐちよしひろ)
植草学園大学名誉教授。
1936年、千葉県生まれ。千葉大学教育学部卒。小学校教員・校長としての経歴を含め、60年余りにわたり、教育実践に携わる。96年から5年間、北海道教育大学教授(国語教育)。現在、日本教育技術学会理事・名誉会長。授業道場野口塾主宰。2009年より7年間千葉県教育委員。日本教育再生機構代表委員。2つの著作集をはじめ著書、授業・講演ビデオ、DVD等多数。
目次
1 教育は「精神」に向けてこそ
①(物質・肉体に対して)心。意識。たましい。
『広辞苑』(岩波書店)より引用
②知性的・理性的な、能動的・目的意識的な心の働き。根気。気力。
これは、「精神」について『広辞苑』から引いた冒頭二項にある解説である。①は、ごく一般的な概念だが、②は、かなり念入りな解説だと思われる。
「心の働き」について、右のように限定をしている。大胆に約めて言えば、
理性的で積極的な ー 心の働き
としても大きな誤りはあるまい。このような「心の働き」によって我々の日常における「判断」がなされている。「理性的で積極的な心の働き」によって判断がなされ、その判断に基づいて行動が選択されるのだ。
これらは、人間の昔からの行動原理であって今も少しも変わりはない。その意味ではまさに人間の「不易の行動原理」なのである。そうであってみれば、そもそも「教育」の根本は、この「精神」のあり方に向けてこそなされなければならないと分かる。
2 「心で生きる生物」が人間だ
九州大学の名誉教授で医学博士、理学博士の井口潔(いのくちきよし)先生は、「ヒトの教育の会」を主宰されている。この会のキャッチコピーは「『ヒト』は教育によって『人間』になる」というものだ。全く同感である。同会の発行した長い名前の次の冊子がある。
人類が向かうべき進化の方向は
「無の境地」だった!
B5判52ページの小冊子で、私はさる知人から入手したものだが大変に読み応えのある本だ。
この本の中には、現代の教育が抱える様々な問題への解明、改善の糸口が多くあり、大いに私は啓発されている。
「はじめに」の冒頭に井口先生は「人間を生物学で直視せよ……教育・道徳の基盤」と書いている。「人間を生物学で直視せよ」という提言は初耳であり、それが「教育・道徳の基盤」ということになると、これは読まなくてはいけない、と私は思ったのだ。
この中で、先生は次のように書いている。
(略)進化の頂点のように看做されている人間は、生物進化の年月を24時間時計とすると、僅か0.2秒前に現われたことだった。
『人類が向かうべき進化の方向は「無の境地」だった!』井口潔 著
この文の「略」の部分は「その驚きの最たるものは」である。我々人間の誕生が悠久の宇宙史、地球史の中では1秒に満たないついさっきのことに過ぎないというのだ。「その人間の進化を特長づけるのはその巨大脳だ。巨大脳を有するのは人間だけなので、地球上の人間以外の生物は全て『体で生きる生物』であり、『心で生きる生物』は人間だけということを知って、その意外さに呆然とした。」──と、先生は書いている。御自身の発見、気付きに「呆然とした」という書きぶりにも私は心を打たれる。
続けて、重大と私が思う次の文になる。
ヒトは「教育」によってはじめて「人間」になることができる。これが「人間の生物学」だ。ヒトとして生まれた赤ん坊を人間にするのが「教育」だ。これが「教育の生物学」だ。
『人類が向かうべき進化の方向は「無の境地」だった!』井口潔 著
教育とは何か、という問いに対する井口先生の根本理念が明示されている。ドイツのカントは、「人は人によって人になる」という名言を残しているが同義と言えよう。
3 子ども中心主義への生物学的批判
続いて井口先生は、科学者の立場から、また生物学の立場から、現代の教育のあり方について次のように指摘し、批判をする。
それなのに、教育学においては「人間の生物学」を教えていないとは、何という奇妙なことだろう。
『人類が向かうべき進化の方向は「無の境地」だった!』井口潔 著
「心の成長生理の仕組み」も教えない。「子どもは好きなようにさせよ。個性が伸びるから」とトンでもない自由教育思想がまかり通っている。
これは、現代の教育界を根強く支配している「子ども中心主義」に対する科学者としての真正面からの反論である。私はこの反論、批判に全く同感、異議なしである。
我々教員は、専ら「教育学」「教育学者」「教育行政」の情報の中で教えられ、育ち、知見を得、実践者として生きている。それが「教育界」の常識となり、広まり、そうでないものは拒まれ、否定されていく。
そして、さらに「変化の激しい社会」に対応すべく、また、諸科学の進展に遅れをとるまいとして常に「新しさ」が求められ、教育界ではいつでも「新しさ」がもてはやされる。そして、肝腎の「不易」の部分が忘れられがちなのだ。
昭和52年の学習指導要領の改訂の折に「新国語科はいかにあるべきか」というテーマの下に、小田原で全国大会が開かれた。輿水実、飛田多喜雄両巨頭を迎えての大きな会だった。私は発表者の一人として下命され率直な提言をした。その反響は大きく、輿水先生は予定の講演を取り止めて私への反論を含む解説に切り換えられた程だった。
私の提言は、一言で言えば、次の通りだ。
新国語科ではなく、真国語科を求めよ。
新しくなんかなくていい。不易、不変、不動の本物の国語科教育こそを我々は求めるべきだ。新しさなんて、本当にそれが良いのかどうか分からないではないか。長い時間をかけて築かれ、裁かれ、改められつつ今に続く、無難かつ真っ当な教育こそが、とりわけ義務教育機関には求められ続けねばならない──と私は主張したのだった。40歳そこそこの血気盛んな頃の懐かしい思い出である。私は元来「不易」尊重派なのだ。
4 軽んじられている「人間教育」
井口先生は「心で生きる生物」が人間なのだと言われる。心こそが人間に固有の天与の特長なのだから、教育は「心のあり方」つまり「精神の教育」に最大の力を注がなければならないのだ。私は強くそう思っている。
人間以外の動物は本能で行動しているので、無意識に「体の自動調節」がなされている。だが、地球上で初めて「自意識」を賦与された人間は、「自分の力で心の自動調節を行うすべを身につけねばならないのだ」と井口先生は説く。ここで言う「自分の力で」については次のような説明がある。
教育によって人間として生きる道「道徳」を学び、実践することだ。これは「人間の生物学」が示している真理だ。人間はこの真理を伝統で受け継ぎ、実践してきた。ところが、現代人は物質文明と現代思想に目がくらみ、「人間教育」を弊履のように捨てた。教育は荒廃して未熟な人間が溢れ始めた。
『人類が向かうべき進化の方向は「無の境地」だった!』井口潔 著
右の文は、文中の「ところが」で前半と後半に分けられるが、いずれも熟読玩味すべき発言である。
このような考えに立って井口先生は次のように言う。これも全くその通りだと思う。
「人間教育」「道徳」を素朴に受け入れれば人類の道は明るい。道徳が道を照らしてくれるからだ。しかし、これを拒めば、人類はふしだらになり、自律不全に陥り、折角の人生を完結できない。(中略)
『人類が向かうべき進化の方向は「無の境地」だった!』井口潔 著
今からでも遅くない。「人間の生物学」を直視して、「生物学からの教育」に目覚めよう。
以上の引用は、全て「はじめに」の部分からである。私がこれまで考えてきたこと、主張してきたこと、実践していることに誤りはなかったと、井口先生の御著書によって勇気づけられ、背中を押されたような思いになった。
5 教育の根本は「人間形成」にある
いろいろな所で書いたり、話したりしてきたことだが、この頃、改めて思うことがある。それは、「教育」というのは、要するに「そのままにはしておかないこと」、つまり、「より良く変え続ける営為だ」という一点である。
学校現場の授業を見たり、それらの実践発表を聞いたり、あるいは私自身が授業をさせて貰ったりしてつくづく思うことは、今の教育は「そのままにしておく」「そのままでいい」「そのままを尊重する」という空気が強く、私に言わせれば「教育不在」の教室や学校が多すぎる。しかも「それでいいのだ」「それがいいのだ」という非常識とも言える「常識」が教育界を覆っている事実がある。
これらは、「主体性」「自主性」「個性」を尊重して、「押しつけるな」「詰めこむな」「教えるな」「考えさせよ」「話し合わせよ」「自分達で解決させよ」というような「新しい教育観」「子ども中心主義」に大きく毒され、汚染されている結果ではあるまいか、と私は考えている。
井口先生は、同書の巻末で次を紹介する。
科学は人間が従うべき法則を発見するためのものだ。最高の研究は服従にある。
『人類が向かうべき進化の方向は「無の境地」だった!』井口潔 著
──マイケル・ヤング──
これもまた極めて重い言葉である。現代では「服従」という言葉は、一つの忌み言葉とさえなっているのではなかろうか。少なくとも教育界で「服従」を説く人など見たことも聞いたこともない。代わって王座を占めているのが主体性、自主性、自発性、個性、その人らしさなど一連の子ども中心主義的な考え方である。子どもを未熟ではなく、完成的存在と見做す現代の子ども観を私は、子ども天使観と名付けて警戒を呼びかけている。
上記のマイケル・ヤングは、イギリスの社会学者であり、先の引用言に対して井口先生は「その著書『メリトクラシー』の中にこの文句を見つけて、思わず快哉を叫んだ」と書いている。
世界四大聖人の一人、中国の孔子は『論語』の「述而篇」で「述べて作らず」(述而不作)と言っている。「私は自分が考えたことなど伝えてはいない。全ては先哲、賢者の考えたことを述べ伝えているだけだ」というほどの意味である。その故にこそ不易の価値を持って『論語』が現代に生きるのである。「新しさ」への警戒、懐疑もまた重要であろう。
執筆/野口芳宏 イラスト/すがわらけいこ
『総合教育技術』2017年11月号より