個は裂け、団は連なり繫がる【本音・実感の教育不易論 第6回】

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本音・実感の教育不易論
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植草学園大学名誉教授

野口芳宏
個は裂け、団は連なり繫がる【本音・実感の教育不易論 第6回】

教育界の重鎮である野口芳宏先生が60年以上の実践から不変の教育論を多種のテーマで綴ります。連載の第6回目は、【個は裂け、団は連なり繫がる】です。


執筆
野口芳宏(のぐちよしひろ)

植草学園大学名誉教授。
1936年、千葉県生まれ。千葉大学教育学部卒。小学校教員・校長としての経歴を含め、60年余りにわたり、教育実践に携わる。96年から5年間、北海道教育大学教授(国語教育)。現在、日本教育技術学会理事・名誉会長。授業道場野口塾主宰。2009年より7年間千葉県教育委員。日本教育再生機構代表委員。2つの著作集をはじめ著書、授業・講演ビデオ、DVD等多数。


1 子どもらの世界が個人、自分中心に傾く

いつごろから始まったことなのだろうか定かではないが、人と人との繫がりが稀薄になり、それぞれが自分のこと、個人の世界に閉じこもるようになってしまったようだ。思いつくままに気になるいくつかのことを書いてみよう。

①群れなくなった今の子ら

昔は、と言うとそれだけで老化と思われがちだが、今から70年余り前の田舎の子ども達は、学校の勉強から解放されると、群れを作って遊ぶのが日常だった。子沢山の時代だったから、学校に入っていない幼児から5、6年生までが一団になって遊んだ。中には赤ん坊を背負って走り廻る子の姿もあった。これらを束ねるのがいわゆる餓鬼大将であり、餓鬼大将は、それなりに小さな子ども達の面倒を見ていたものだ。

そこには、力関係、年の違いなどから、自ずと上下、強弱の秩序が生み出されていた。指揮、下命する者と、それに従う者、逆らう者も生まれ、小さな争いや、仲直りや、謝罪や言葉遣いなどを、そういう社会なりに学んでいたものだった。

これらの少し組織立った形が天神講で、学校に入学する近所の子をみんなで囲みながら、かなり遠く離れた天神様へ参詣し、夜は輪番で充てられるヤドに集まってご馳走を食べ、遊び、歌や踊りで夜を楽しんだ。懐かしい思い出である。おそらく100年は優に続いてきたであろうこの地域ぐるみの子ども中心の天神講も今はない。一つの群れが消えたのだ。

②輪を縮める今の子ら

異年齢、異学年の幼児から小学校の6年生までが一緒に遊んでいたのが、昔の子らであった。今の子らは、住居がすぐ近くにあっても同学年の子ども、それも同じクラスの子らとしか遊ばなくなっている傾向がある。子どもらの遊ぶ友達の輪が小さく縮んでしまったのだ。

このことによって、立場の違う子どもらとの交流が乏しくなり、人間関係は単純になってしまったと言える。それは、とりもなおさず人間関係の複雑さを学ぶ機会の喪失、激減をも意味するだろう。

子どもの世界から、縦の関係が消え、横の広がりもだんだん狭くなってきてもいる。人間関係の複雑さを学ぶ生きた環境の輪がぐんと狭く縮められてしまったとも言える。

このような「生きた環境の輪」「身近な環境の輪」の縮小という現実を改めることもなく、「多様な価値観の、時に対立がある場合を含めて、それらの価値に向き合い」ということを望むことには無理があるのではないか。体験の貧しい子どもらにとって、多様性の容認は結局のところ観念的、抽象的なことがらであって、屁理屈の言い合いに堕するか、「何でもいい」という考えを助長するだけに終わることにはならないか。

③子ども会、部活動の衰退

同様の傾向は子ども会にも反映されている。子ども会は、地域の母親がよりよい子育てを目指して、子ども達に優良な体験や楽しみを体験させようと活動する自主的団体である。

ある時期は、ある年齢になれば、どの子も例外なく挙って子ども会に入会したものであったが、いつの頃からか、母親の就職事情も手伝ってか、入会する子どもが激減し、もはや成立せず解散に至った子ども会も少なくない。

子ども会活動を活性化し、地域興しの一環とすべく行政もそれなりの力を入れていたにもかかわらず、衰退の歯止めはきかないままになっているようである。

部活動やクラブ活動にもこれらの傾向は影を落としている。縛られたくない。好きなようにしたい。面倒なつき合いは避けたい。──というような風潮、気風が子ども社会に広がっているだろうことは否めまい。

④大人の社会にも

このような子ども時代を経て長じた大人社会にも、「個人中心」の考えは徐々に広がりつつある。

私が在職中にもその兆候は見え始めていたが、学校の若い教職員の間でも職員旅行の不参加者が広がっている。昔は──、とつい口癖になるけれども、どの学校でも夏休みなどを活用して、1泊、2泊にと全員参加で出かけたものだった。その日の為に貯金の積み立てをして備え、日常の多忙さから解放されたその職員旅行では、うちとけてくつろいだ楽しい時間を共有したものだった。古いアルバムを捲るとどの先生も楽しさ満面の笑みを見せている。

かかる「職員旅行」がなくなったり、日帰り旅行になったり、希望者による有志旅行になったりしているということだ。何とも淋しく思うのは老いの繰り言であろうか。

これらは一つの現象であり、結果であるが、現象や結果には必ず原因や理由、経緯がある。これらの現象や結果は何を意味しているのか、別項によって少し考えてみたい。

⑤地域社会にも

私は先祖代々続く農山村に生まれ育ち、今もその中にある。小学校の4年生の終戦を挟んだ80年の間に地域の人間関係も、その姿も大いに変わってきた。これも100年以上は続いていたであろう伊勢参りの為の伊勢講が消えた。旅行が誰でもできるようになり、人間関係が稀薄になった人らとの旅は現代の地域事情では却って煩わしく思われるようになったのかもしれない。

だが、それとともに曾ては村里の楽しい共通の話題であった伊勢講の思い出話も消えていった。共通の関心、共通の話題を欠いた地域の団結は難しい。団結そのものを望まない人もふえている。

貧しい時代の農村の人々は、繁忙期にはお互いに労力を提供し合う「手間借り」という制度があり、この制度によって家族の規模や貧富の差を超えて協力し合い、繁忙期を乗り越え続けたのであった。

今は戸別戸毎に農機を購入し、それぞれの家が自立して営農するので、相互協力という形もほとんどが見られなくなり、それとともに里人の心も関心もばらばら、別々になってしまったようである。無理もない、とも言えるのだが、昔を知る者にとっては何ともうら淋しい思いになる。

イラスト6

2 人間は社会的、協力的、互恵的存在

①人間は本来社会的存在

言うまでもないことだが、いかに優れた人であっても全く一人で生活をすることはできない。現代社会は、この人間の存在特性を見事に実現して人類は快適に生活をしている。このペンも、紙も、インクも全ては他の人が作ってくれた物であり、それらのお蔭でこうして文章も書けるのだ。衣、食、住どれをとっても私以外の人の恩恵を蒙りつつ私は生活をしている。学校の本質は教育にあり、家庭の本質は安らぎにあり、社会の本質は協力にある、と私は常々言っている。社会における人々の協力によって、私達はそれぞれの生活を全うできるのである。

このような合理的、組織的分業によって協力し合い、より良い文化を生み出しつつ、生活を向上発展させ得るのは動物の中でも我々人間だけである。

人々は複数で力を合わせること、つまり規模の大小を問わず団結し、連携し合うことによって夢を叶え、相互の積極的扶助によって日々を快適に過ごしてきたということができるのである。このように考えてくると、さて最初に述べたような「人々の繫がりが稀薄になり、自分のこと、個人の世界に閉じこもるようになってしまった」状況を我々は見過ごす訳にはいくまい。

②個、孤、独は裂に走る

人との繫がりを絶ち、自分の好きな世界に閉じこもり、思うがままに暮らしていけるというのは、一見気楽で幸せそうに見えるのだが、さて本当にそうだろうか。

人間の本質は社会的存在にある。他の人々との繫がりを前提とした自己実現でなければ、人間としての本物の楽しさの具現とは言えまい。そうであるとすれば、現代の個や私や、孤、独という方向への精神的な移行傾向は、憂慮すべき重大な事態だとは言えないか。

仮にこのまま現在の風潮が広まっていけば、その行く手にはどんなことが待ち受けていることになるか。それを私は「裂」という一文字でまとめている。裂とは、裂けることである。ばらばら、別々でまとまらない。烏合の衆、ただの寄り集まりということになる。協力もしない。団結もしない。いわんや全体で一つの目的を持つことなど思いもよらない。

愛国心も、愛郷心も持てず、人間としての生き方の共有も覚束ない。ばらばら、別々の単なる寄り集まり、というのでは何とも淋しいことではないか。

3 団結し、連なることの大切さ

現代社会は、多様な価値観、多様な生き方、多様な考えが存在する複雑な構成を持っている。そして、一つの方向に向こうとすることを極度に嫌い、そうはさせまいとする風潮が強い。

だが、それは現代の一つの流行現象に過ぎまい。教育関係者は、かかる動きを冷静な眼で見据え、本来の人間としての在り方について思惟すべきではないか。

結婚は「幾久しく」と誓い合って出発する。昔は離婚は滅多にないことだった。だが、今は非常に増えている。これは、決して「良いこと」「尋常なこと」ではないのだが、そうも言えない雰囲気が強い世相である。

生活保護も、それを受けずに暮らせるのが本来望ましいのだ。しかし、それを言うのも何となくはばかられる世相である。すべては個々の自由なのだ。

つまり、「人によっていろいろあるから」という「多様性への寛容」が物の善悪の判断を曖昧にし、徐々に「何でもあり」という方向へ向かいつつあるのだ。「何でもあり」というのは、つまり「無規範」「混乱」「無法」に限りなく近い。その行く末、進む先は極めて不透明かつ不安定である。

一つの国家、一つの民族、一つの自治体、あるいは親族、家族、家庭という「団体」の内実が、ばらばら、別々、それぞれ、何でもあり、ということで良い筈がない。

「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ德器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」という教育勅語の文言は、国民の誰にとっても大切な不易の望ましい価値である。反対する者はまずあるまい。

その故にこそ「之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス」と胸を張れたのである。

現代の「多様な価値観」による混乱を見据え、我々教育者はやがて長い時が流れ歴史によって裁かれる時が来ても、「やはり間違ってはいなかった」と言えるよう、不易の善、不易の悪を見分けられる見識を持たねばなるまい。

執筆/野口芳宏 イラスト/すがわらけいこ

『総合教育技術』2017年9月号より

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