映画「みんなの学校」出演者大集合!座談会#1 学校に行けない子にどう向き合うか

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小学生の不登校対策とサポート記事まとめ

大阪市立大空小学校初代校長

木村泰子

学校へ行けない子、いじめる子、いじめられる子を生まない学級をどうつくるのか。それを考えることは、教師としてのあり方の根幹について考えることでもあります。映画『みんなの学校』の舞台となった大阪市立大空小学校の元教職員と卒業生の座談会から、不登校対応のヒントを探ります。

4年生の時に大空小に転校してきた繁田成士郎さんは、前の学校では特別支援学級に通っていましたが、ある時、学校に行けなくなりました。そんな繁田さんがなぜ、大空小では毎日登校し、みんなと同じ学級で学ぶことができたのでしょうか。

左から大空小学校初代校長の木村泰子先生、大島勇輔先生、卒業生の繁田成士郎さん、管理作業員の山本義人さん、徳岡佑紀先生。

【座談会出席者】(左から)
木村泰子…大阪市立大空小学校初代校長。
大島勇輔…大阪市公立小学校教諭。元大空小学校教諭。
繁田成士郎…大空小学校卒業生。取材時(2019年)高校2年生。
山本義人…大阪市公立小学校管理作業員。元大空小学校管理作業員。
徳岡佑紀…大阪市公立小学校教諭。元大空小学校教諭。

教師の無関心が不登校を生む

木村 セイちゃん(繁田)に聞きますが、不登校という言葉はどういう意味でしょうか。

繁田 教育とか生徒のいじめによって、学校に来られなくなること。

木村 なるほど。セイちゃんは不登校の経験はありますか?

繁田 あります。大空小学校に転校する前の学校で不登校になりました。俺、2回ぐらい脱獄したんです、その学校を。

木村 今、「脱獄」と言ったけど、学校はどんな所だったの?

繁田 牢獄。独房。俺が一番行きたくなかった所

木村 その頃、セイは誰を信用していた?

繁田 誰も信用してない。先生は、俺たちに無関心だった。校長先生は怖かったし、特別支援の先生の目は死んでいた。

大阪市立大空小学校初代校長・木村泰子先生。
木村泰子(きむら・やすこ)●2006年~2015年、大阪市立大空小学校の初代校長を務める。すべての子供の学習権を保障する学校をつくることに尽力。2015年、45年の教員生活を終え、現在は全国各地で公演活動を行う。著書に『「みんなの学校」をつくるために』(小国喜弘との共著・小学館) ほか多数。

山本 なんで、大空小では来られるようになったの?

繁田 俺が脱走した時、大空は止めたから信頼できた。前の学校は止めなかった。

木村 今の言葉は深い。脱走しても止めないということは、前の学校はセイシロウが学校に来なくてもよいと考えていたということ。でも、大空小はセイが来なければいけない学校だった。

セイが家にいたら、お父さんとお母さんは「学校に行きなさい」と言ったでしょ?

繁田 お父さんは言った。お母さんは最初だけ。俺は2年生の一学期からあまり学校に行かなくなった。行く時も、「1時間目で帰ってきます」と言って家を出ていましたね。

木村 我慢して行っていたんだね。セイシロウは4年生で大空小に転校してきましたね。

その年の秋の終わり頃に突然、校長室に入ってきて、「校長先生、僕は毎日学校に来られるようになりました。だから、前の小学校に転校します」って言いました。それを聞いた私が、「そうですか。短い間でした。さようなら」って言ったら、セイが「理由を聞かないんですか?」って言いました。そこで、「聞くのを忘れていました。どうして転校するんですか?」って聞いたら、その時にセイちゃんはなんて言ったか、覚えてる?

繁田 「俺が学校に行かないことが理由で、親が離婚した」って言った。

大阪市立大空小学校の卒業生、繁田成士郎さん
繁田成士郎(しげた・せいしろう)●2012年、4年生で大空小学校に転校。前の学校では特別支援学級に通うも不登校気味。大空小では卒業まで休まず、みんなと一緒に学んだ。取材時(2019年)、高校2年生。

木村 そう。セイちゃんは「僕のお父さんとお母さんは、けんかをしてお別れをしました。お別れをした原因は、僕が学校に行かなかったからです」と言いました。

セイちゃんは、「学校に行け」と言われることが苦しかった。お母さんはそのことを理解したから、ある時から「無理に行かんでもいいよ」って言うようになった。でも、お父さんは「周りの子は行っているのに、何でおまえは行けない」と、セイちゃんだけじゃなくお母さんにも怒りました。

セイがなぜ転校すると言ったかというと、「僕は学校に行けるようになりました。だから、僕が(お父さんがいる)前の家に戻って学校に行けば、お父さんとお母さんはもう一度仲良くなれます」ということだったんです。

それで、私はセイに「お父さんとお母さんがお別れしたのは、セイが原因じゃない。男と女の関係はもっと深い」って言いました。セイが「どういうことか、僕には分かりません」って言うから、「セイが大人になって、好きな人ができたら、私の言ったことが分かるはずです。それまで考えなくていい」って言いました。

続けて、「要するにお父さんとお母さんがお別れしたのは、あんたなんか全然関係ないからね」って言ったら、セイの表情がふっと変わって、「じゃあ、転校するのはやめます」って校長室から出ていきました。

山本 木村先生からその話を聞いた後、すぐにセイシロウが管理作業室に来て、「僕はもう前の学校に戻らなくていいので、ここで好きなことをすることに決めました。手始めにこの学校を爆破します」って言うんです。それから、しょっちゅうやって来ては、「爆弾を作ります。ハサミでこれ(材料の段ボール)を切ってください」って言うから、「分かりました」って手伝いました。

元大阪市立大空小学校管理作業員の山本義人さん。
山本義人(やまもと・よしと)●1979 年、大阪府生まれ。2007年~2012年、大空小学校管理作業員。校内の環境整備のみならず、子供たちと密に関わった。現在は大阪市内の小学校に管理作業員として勤務。

繁田 後になって爆弾の仕組みを考えてみたら、火薬が足りないことに気付いた……(笑)。

木村 火薬が要ると分かったのは、いつ?

繁田 中1の頃。

木村 この話、最高(笑)。あの時は本気で段ボールで爆破できると思っていたんだね。

山本 転校してきたばかりの頃、セイシロウは「お母さん、すぐ帰るからね。ちょっとだけ行ってくる」と言っていましたよね。それが、「今日は1時間だけ」「2時間だけ」と延びていくにつれ、毎朝送ってくるお母さんと別れる場所も、少しずつ学校から遠くなっていきました。

木村 大空小は子供、教職員、サポーター(保護者)や地域住民、みんなが自分でつくっている学校です。それなのに私はお母さんに「学校には入るな」と言いました。なぜでしょうか。その話はセイちゃんのお母さんからどうぞ。

繁田の母 転校して間もない頃に、「午前中に迎えに来ます」と言ったら、校長先生に「この子は大丈夫やから、もういいよ。お母さんも子離れしいや」って言われました。その時、「この子は絶対大丈夫」という木村先生の言葉が、私の中にすっと素直に入ったんです。それで、少しずつ子離れするようになりました。

左がら繁田成士郎さんの母親、徳岡佑紀先生、木村泰子先生、繁田成士郎さん、大島勇輔先生、山本義人さん。
一番左が繁田成士郎さんの母親。

まだ教室に入れなかった5月に、みんなと遠足に行けた理由

木村 セイ、4年生の5月に遠足に行ったことを覚えている? その頃はまだ教室に入るのが不安で、職員室に椅子を並べて寝たりして1日を過ごしていたセイが、みんなと一緒に遠足に行けた。その理由は何だったでしょう? いつもセイの横にいた大人は誰でしたか?

繁田 誰だったかな。

木村 義人さんです。職員室で「セイが安心して遠足に行けるために、セイの横にいるべき大人は誰だろう」と話していた時、養護教諭の筒井(元子)も、特別支援教育コーディネーターの南都(芳子)も、「義人さんしかいない」と言いました。だって、「爆弾を作りたい」と言ったら、手伝ってくれる人ですよ。前の学校で言ったら、どうなる?

繁田 多分、追い出されますね。

木村 義人さんは、なんて言ってくれた?

繁田 「作ろう」って言った。そこで、初めて信頼した。

木村 セイが大空小に来て、初めて信頼できた大人は、義人さんだったんです。義人を信用したから、そこから連なって私たちのことも信用してくれるようになっただけなんです。

セイが一番信頼できるのは義人。でも、管理作業員の義人は、教員と違って出張はできない。だから、「年休を取って、遠足に行き」と言いました。ひどい校長です。

繁田 やっと思い出した!

山本 思い出してくれて、ありがとう。みんなと一緒に電車に乗って、服部緑地公園に行ったよね。お昼ご飯までは楽しく過ごした。でも、帰り道で「重たいリュックとはここでお別れします」って言ったの、覚えてないかな。

繁田 あった、あった。

山本 それで、僕が「お母さんに買ってもらった大事なリュックやん」と言って、「どうにかして持って帰ろう」という相談をした。妥協できるところを探して、「半分ずつしようか」って、リュックのベルトを片方ずつ持って歩いたな。

木村 「リュックが重いです。せっかく買ってもらったけど、リュックさん、お別れします。さようなら」って、リュックを道に置いて、セイが歩き出したんだそうです。学校に帰ってきた後で、義人が泣きながら報告してくれました。

山本 物を大事にしたいという気持ちはあるんですね。でも、それ以上に疲れていて、持って帰りたいのにそれができないという気持ちが伝わってきたんです。

大阪市公立小学校教諭・大島勇輔先生
大島勇輔(おおしま・ゆうすけ)●1983年大阪府生まれ。大阪市公立小学校教諭。株式会社リクルートに入社した後、母子生活支援施設で学習指導員をしながら大空小でのボランティアを経て、教員に。2011年~2016年度まで大空小に勤務。現任校では教務主任を務める。

木村 義人からその話を聞いて、教職員のみんなが学ばせてもらった瞬間でした。
徳岡と大島に聞きます。義人ってどんな存在だった?

大島 教員になって1年目、「先生になったんだ、先生として頑張らなければならない」という固定観念があって、空回りばかりしていました。「先生」として子供と関わっていた僕に、義人さんは、「人」として関わればいいんだと気付くきっかけをつくってくれました。義人さんはいつも自然体で、子供と関わる時でも、僕たち大人と関わる時でも姿勢が変わりません。

義人さんは、僕らが授業をしている間、廊下を掃除しながら、さりげなく教室を見てくれ、「あの子大丈夫かな。こんなことしていたよ」とか、僕に見えていないことを教えてくれました。

木村 せやねん。掃除なんかカムフラージュやから。

山本 ちゃんと掃除もしていますよ(笑)。

大阪市公立小学校教諭・徳岡佑紀先生
徳岡佑紀(とくおか・ゆき)●大阪市公立小学校教諭。2008年に教員となり、2012年~2018年度まで大空小に勤務。スポーツ好きで学生時代はラクロス選手として活躍。

木村 教師がいい授業をしようとすると、子供の実態は見えづらい。教員1年目ってそんなもので、教室にいても何かつらそうにしている子たちを見落としがちです。義人はそういうところを見てくれていた。今の大島は違いますけどね。

徳岡 大空小に転任してきて、管理作業員の義人さんがこんなにも子供に関わってくれることに驚きました。私自身もちょっと困ったら、よく義人さんに子供を見てもらっていました。大空小では「肩書」は関係ありません。みんなが「人」として働いていると感じました。

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取材・文/長昌之 撮影/西村智晴

『教育技術 小一小二』2019年12月号より

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