#1 今年度1年間のテーマは、「すべてはつながっている!」です。【連続小説 ロベルト先生!】
教師という職業を楽しみたい人、そのよさを再確認したい皆さんへ。学級開きから卒業までの日常のなかで、学級経営のヒントや、子供との絆をつくる知恵や技が随所にちりばめられた、連続小説が始まります。
著者は文部科学省初等中等教育局教育課程課の道徳科教科調査官、浅見哲也氏。氏の実体験に基づく、半自伝的小説です。
ロベルト先生と子供たちの、ほっこり、くすり、時々ホロリなエピソードをお楽しみください。
第1話 4月1日、すべての始まり
春
4月1日は新年度の始まり。私は隣町の小学校から、ここ緑ヶ丘小学校に異動してきた。
転勤というのは前任校への未練もあり寂しさも一入だ。しかし、自分自身をリセットして新たな気持ちで教師という職業に臨むことができるチャンスでもある。
どんな子どもたちと出会えるのだろう。私の胸の内は不安よりも期待に満ちあふれていた。
学校へ到着すると、校庭の桜はすでに咲き始めていた。
「桜さん、子どもたちの入学式や始業式まで、どうか満開になるペースを落としてください」
私には、スーツの上着に半ズボン、白いブラウスにチェックのスカートといったおめかしをした子どもたち、そして、流行とはちょっと雰囲気が異なる清楚な洋服に身を包んだお母さん、カメラを持ったお父さんの姿が目に浮かぶ。
桜とともに収められた写真の主役は子どもだが、もう一つの主役は大きな大きなランドセル。おじいちゃんやおばあちゃんに買ってもらったのではないかと思うと、一人の子どもに託された家族の思いがひしひしと伝わってくる。
私は、教師となってちょうど10年目を迎えていた。
初めて教師となって着任したときのことを思い出す。新任の頃は訳もわからずにただがむしゃらに隣の学年主任の先生の見よう見まねで1日1日を何とか過ごしていた。
隣のクラスはいつも教室がきれいに整理整頓されている。しかし、先生が放課後掃除や片付けをしている姿は見たことがない。
いつも私は隣のクラスに負けまいと、子どもたちが帰った後、教室の机を整理したり、落ちているゴミや持ち物を拾ったりしながら明日を迎えるようにしていた。
要するに、子どもをいかにその気にさせるかの違いであり、指導力の違いがこうしたところにも表れていることに後になって気がついた。
私は経験を重ね、それなりに自信もついてきたところではあるが、10年たった今でも、放課後の誰もいない教室で子どもたちの机の整頓や持ち物の後始末をする習慣が身についてしまっていた。
教室を整理しながら明日のことを考えるのが日課の一つとなった。
私は結構妄想の世界に入り込むのが好きだ。放課後からその晩にかけていろんなことを考えては、一人でニタニタしている。
「きっとこんなことをしたら子どもたちは喜ぶだろうなあ。そのために何かできることはないかなあ?」
いつもよいアイディアが閃くわけではないが、実行に移して成功したときのワクワク感はたまらない。
私は教師としてのやりがいをここに感じている。無責任と言われるかもしれないが、私にとって「教職」とは仕事ではなく、私の趣味の世界の延長なのかもしれない。そんなふうに思うこともしばしばある。
異動の春は、教師としてどんなに年齢を重ねても、子どもたちには「新しい先生」と呼ばれる。さて、自分はどんなところを新しくしようか…。
◇
4月1日の午後、職員会議で校長先生から学級担任が発表された。
「 六年一組、○○先生、二組、○○先生、 六年三組、朝見先生」
「 六年生か・・・」
子どもたちにとってこの学校で過ごす最後の1年が、この緑ヶ丘小学校で私に最初に任された学級。私はそのシチュエーションに運命的な出会いを感じ、高鳴る気持ちを抑えていた。
新学期がスタートし、校内は慌ただしく準備が進められる。
連日、校務分掌や年間計画など学校全体に関わる会議に加え、学級担任としての日課表の作成や諸表簿の整理、教材の購入、教科書を含めた配付物の確認など、あっという間に時間は費やされる。
そして、忙しさのあまりにいい加減になりがちなのが、子どもたちとの最初の出会いのための計画である。運命の赤い糸が結ばれる瞬間だ。
緑ヶ丘小学校では、4月8日の午前の前半に新二年生から六年生までの始業式が行われ、後半は新一年生の入学式となる。
しかも、始業式には、校長先生のお話や転任職員の挨拶、学級担任の発表、配付物も多く、クラスでどれだけ子どもと向き合って話ができるかわからない。
そこで、与えられた時間に何ができるかを考える。
まずは私の自己紹介。そして子どもたちの自己紹介。この1年の私なりの教育方針みたいなものも伝えたい。
しかし、子どもたちの座席はどうするか…、使う靴箱やロッカーは…、次の日から始まる清掃当番は…、給食も始まるぞ…、考えれば考えるほど、やらなくてはならないことがたくさん出てくる。するとそこには、実務に追われ、出会いの目的を忘れかけた自分がいる。
「ここは慌てず詰め込みすぎず、ゆとりをもって子どもたちに向き合おう」
私は、とにかく時間を生み出すための工夫を考えた。
朝、子どもたちがクラスに入ったら、廊下側から名前の順に座席についてもらおう。当日の配付物も可能な限りは机の上に配っておこう、靴箱やロッカーは名前のシールを貼っておけばすぐにわかる。
始業式は特別な日。この日ばかりは子どもたちもよい緊張感をもっているので、先生がクラスにいなくても考えて動けるのだ。
1年のスタートに当たって、私は改めて初日の日程と動きを確認した。
◇
出会い
4月8日の朝を迎えた。興奮気味でいつもよりも早く目が覚めた。なぜかと言えば、それはもちろん、子どもたちとの最初の出会いがあるからだ。
もう一つある。今日私が意図したことが計画通りにできれば、おそらく子どもたちの驚きや笑顔が見られるからでもある。
天気は晴れ。いつもだったら8時頃多くの子どもたちは校門をくぐるが、この日は全体が10分くらい早く動いている。進級して新しく登校班の班長になった子の「おはようございます」のはつらつとした声を聞くと、こちらの背筋もピンとしてくる。
昇降口の壁に貼られた新しいクラスやクラスメイトを見て、子どもたちから歓喜の声が上がる。そして子どもたちは思い思いに自分の教室に入っていく。
同じクラスになった友達とおしゃべりをしながらまず目にするもの、それは黒板に書かれた文字である。これは、私が前日に書いておいた子どもたちへのメッセージだ。
おはようございます。
六年生への進級おめでとうございます。
いよいよ今日から小学校生活最後の1年が始まります。
最上級生として、
ある時は先頭に立って下級生を導き、
ある時は後ろに回って下級生を支え、
自分の心を磨き、光り輝かせてください。
今年度1年間のテーマは、
「すべてはつながっている!」です。
そして、この1年間でみんなの心に育ってほしいことは…
「真面目」「努力」「感謝」です。
この出会いを大切にして、みんなで感動をともに味わっていきましょう。
六年三組担任 X(エックス)より愛を込めて…
校内放送が流れ、子どもたちは体育館に集められた。
始業式が始まった。1年のスタートを切るに当たって、校長先生からのお話があった。
私たち学級担任は、校長先生の教育方針、つまり、どんな学校を作り、どんな子どもを育てたいのかという思いを受けて、学級で具現化を図ることが使命である。しかし、正直言って、教職10年目の自分には、それを受け止めるだけの心のゆとりはなかった。
次に転任職員の挨拶が始まった。私は8人中7番目。先輩の先生方の挨拶が続き、話が長引き、子どもたちもいい加減に飽きてきているのがわかった。
そして、私の番がやってきた。
「皆さん、おはようございま~す。1曲歌を歌いま~す」
半分だらけ始めた子どもたちの目線がこちらに向けられた。
「ブン、ブン、ブン、ハチが飛ぶ~ 隣の町からこちらに来ました、こん、にち、は~、あさみです~。ということで、ミツバチのように、きれいな桜と元気なみなさんに誘われて、この学校にやってきました朝見鉄也です。よろしくお願いします」
挨拶が終わると、子どもたちからも「よろしくお願いします」の丁寧な挨拶が返ってきた。さすがにたくさんの子どもたちの前でいきなり歌うのは恥ずかしかった。頬が熱くなった。
いよいよ、子どもたちが何よりも関心をもっている学級担任の発表だ。子どもたちはざわめき始める。
校長先生は一年一組から担任の先生の名前を読み上げる。名前を呼ばれて、「やったー」と言われれば嬉しいが、何の反応もないとがっかりくる。ある意味、正直な子どもに先生が評価される瞬間だ。
当然、私はこの学校に来たばかりなので、物珍しげな視線を浴びるばかりだった。子どもたちの評価は1からのスタートだ。
しかし、保護者の評価は違う。実のところ、お母さん方の情報網は張り巡らされており、「あの先生はいい先生だよ」とか、「ちょっと心配…」という情報はすでにメールなどで広がっている。たとえ学校が変わったとしても、よほど遠いところからの異動でないかぎりは同じである。
始業式が終わると子どもたちはまた教室へと戻っていく。
さあ、ここからが今日1日の本番だ。企業であれば同僚とチームを組んで動くのかもしれないが、学級担任は大学を卒業したばかりの新任教師であろうと、50歳を超えたベテラン教師であろうと、教室の中に入ってしまえば子どもたちの担任の先生。否が応でも一人でやっていかなければならない。
何をしゃべり、何を指示し、子どもたちをいかに学ばせるか、すべて担任に任されているのだ。
「皆さん、おはようございます」
「おはようございます」
大きな声で元気に挨拶をするお調子者の男の子もいれば、恥ずかしそうに挨拶をするお淑やかな女の子もいる。
「では、はじめに自己紹介をしま~す。先生の名前は…、いや、その前に…」
ちょっと勿体つけて、次の指示を出す。
「皆さん、今から廊下に出て、男女混合で背の順に並んでもらいます。それは、自分の背の高さに合った1年間お世話になる机を決めるためです。但しルールが二つあります。それは、廊下ではひと言もしゃべってはいけないということ、そして、制限時間は2分間ということです。それでは、用意…」
ここまでは普通の声の大きさで。そして、右の手を人差し指一本にして「しーっ!」のポーズをつくり、小さな声で……
「す・た・あ・と!」
子どもたちはひと言もしゃべらずに廊下に出て行く。
ところでなぜしゃべってはいけないのか。それは、他のクラスでも今まさに大事な時間を過ごしているからである。また、そうでなくても授業中に廊下に出るときには絶対に騒いではいけない。
こうした見えない他者への気遣いを教えるチャンスがここにある。
子どもたちは早速無言で背中と背中を合わせて背比べをしたり、二人肩と肩を並べてもう一人の友達に見てもらったりしている。
新しい仲間との最初のコミュニケーションである。
しかし、背比べをするのは同性同士の姿ばかり。そこで、私が出来上がった順番を前から確認して回る。おかしなところを見つけると、まるで、会話をするときに大げさなジェスチャーをする外国人のように両方の手のひらを広げて上にかざし、首を傾ける。子どもも笑いを抑えながら意味を察して男女がなんとかしようとする。
そこへ、近くにいた女の子が私のジェスチャーを真似して二人の背を比べ始め、うまくいくと指でオーケーサインを出した。きっとこの子は人前でも自分を表現できる子なんだろう。私は思わず彼女の手を取り握手をした。彼女は突然のことでびっくりした様子だったが、照れくさそうな表情に変わった。
六年生にもなれば、女の子は男の子に比べて少々大人である。急に男性の先生に握手されれば、それはびっくりする。
まあ、女の子とコミュニケーションをとるんだったら、ハイタッチかジャイアンツの原監督のようなグータッチくらいがいいのかもしれない。
背の順が完成したところで、先頭の子から高さの低い順に並べておいた机に座らせていく。全員が教室に入り終わり、自分が使う机が決まったところで、最初に座っていた名前の順の位置に、今決まった机といすをもって移動する。自分の荷物も移し替えたところでとりあえず完了。
最後にもう一つ。
「皆さんの席から黒板に書かれた文字が見えにくい人はいますか」
数名の子が手を挙げる。眼鏡をかけても見にくい人はその列の前に移動させる。これでようやく自分の位置が決定した。
なぜ名前の順にしたかというと子どもの名前と顔を一致させるためだ。明日からの学校生活をスムーズに行うためにも、いち早く覚えるのが肝心だ。
ようやくクラスの中は落ち着きを取り戻し、私の自己紹介を始めようとする。
「はあっ(額の汗を拭うポーズ)、お待たせしました。ところで、先生の名前は…」
と言ったところでジェスチャーが始まる。子どもたちは、またかとばかりの呆れ顔と嫌気顔。
私は構わずゲーム機を持って親指を必死に動かすジェスチャーを始める。時折「よっしゃー」とガッツポーズ、そして「あちゃー」と残念ポーズ。
やがて、爛々と輝いていた目がしょぼしょぼしてくる。目を擦りながらもクリアー目指してゲームをやり続ける。そして大きなあくびを一つ。目線を上げてカーテンを開け、窓の外を見る。
「あっ、もう朝だ。まいったなあ~」と言う。そして…
「徹夜をして…朝を見る…そう、先生の名前は、朝見鉄也です。よろしくお願いします」
子どもたちは大笑い。もちろん気を遣って笑ってくれている子もいる。意味がよくわからずにぽかぁんとしている子もいる。しかし、とりあえずつかみはオッケーだ。
「それでは、初めての出席をとりま~す。大きな声で、元気な子は『はい、元気です!』と言ってください。元気じゃない子は『はい、朝ご飯の食べ過ぎでお腹が痛いです』とか『先生に一目惚れして胸が張り裂けそうに痛いです』とか言ってくださいね」
ここまで言うと、子どもたちはハイテンションになる。そして、もうひと言。
「もし先生が皆さんの名前を間違って呼んでしまったら、先生を睨みつけて正しい名前を教えてください」
と言って、順番に名前を読み上げていく。
今の子どもたちの名前をその場で正しく読むのは神業に近い。珍しい名字もあるが、特に下の名前は漢字からは想像もつかない読み方をする。
しかしここは教師の腕の見せどころ。4月1日に渡された児童のゴム印を名前の順に並べて名簿を作ると、8日の始業式までにはすらすらと子どもたちの名前が言えるように特訓しておくのだ。
そして、一人として間違えずに完璧に呼名をする。もちろん特訓していたことは子どもたちには言わない。教師の自慢話ほど子どもたちが嫌うものはない。
無事に出席を取り終えると、いよいよ本日のメインイベント。
私のこの1年の教育方針を伝える時が来た。よく最初が肝心と言うが、今なら子どもたちは緊張感をもって話を聞いてくれる。まるで、幼い鳥が親からえさを口移しでもらうかのように。乾ききった砂が水を一瞬にして吸い込むかのように。今こそおいしいおいしいジュースを子どもたちの口と心に注ぐ時なのだ。
「今日、教室に入って黒板に書かれた言葉を読んだ人はいますか?」
概ね8割の子が手を挙げる。そして、黒板に書かれた文字を改めて読み上げながら、端的な言葉で説明を加える。
子どもたちには、最上級生としての自覚、そして何よりも夢や目標に向かって諦めずに努力することの大切さを伝えたかった。
そのためのキーワードがある。それは…
「すべてはつながっている!」という言葉だ。これは、この1年間の私の学級経営の柱となる言葉だ。
また、「真面目」「努力」「感謝」は、将来を担う子どもたちに育てたい大切な心である。
1学期は真面目さを追求し、2学期には努力を積み重ね、卒業を間近に控えた3学期には、人生の一つの区切りとして親をはじめ周囲の人に感謝をする、私にはこのような考えがあった。
子どもたちには到底そこまでの意図はわかるまい。きれいごとの言葉でしか伝わっていないだろう。
しかし、いずれ子どもたちが今日の話の意味を理解する時が必ず来る。いや、そのために私はこの1年をかけて努力していこうと、子どもたちに話をしながら心に誓うのであった。
今日の与えられた時間の中でできることはここまで。最後に1枚プリントを配る。これは我がクラスの学級通信、名付けて「BOYS&GIRLS」。
学級通信の最大の目的は、子どもたちの学校の様子を家庭に伝えること。まさか初日に出るなんて誰も予想していないだろう。だからいいのだ。
最初の通信の内容は、私の保護者向けの自己紹介。そして、朝、子どもたちを迎えた黒板の写真。これは前日に撮っておいたものだ。今はパソコンにデジカメの写真を取り込んで簡単に加工できるのでとても便利だ。
さらに、今日の配付物と、時間がなくて連絡帳を書くことができないので、明日の持ち物のお知らせ。最後にとっておきの工夫がある。それは、学級通信の何も書かれていない空白のスペース。
「みなさん、今配った学級通信の右下を見てください。何も書かれていない空白の部分がありますね。では、残りの時間で今から先生の似顔絵をここに描いてもらいま~す。その下の四角の中には、見た目の先生の年齢を入れてくださいね」
そう伝えると子どもたちからは一斉に「えーっ」という声が上がる。しかし、本当にいやだという「えーっ」ではないことはすぐにわかる。私の顔の特徴を楽しそうに絵で表現する子どもたち。日焼けした肌の色を色鉛筆を使って塗り出す子もいる。
さて、年齢はというと20歳台から50歳台までいろいろだ。子どもが大人を見る感覚とはそんなものか?
もちろん、その場では、いや、その後も私の年齢は明かさない。担任に一つや二つくらいミステリアスな部分があってこそ楽しいものだ。
この学級通信を子どもたちがそれぞれの家庭に持ち帰り、何と言って親に伝えるのだろう。今日の転入職員の紹介の歌のこともあるかもしれないが、子どもが描いた似顔絵と年齢を見て、親子の会話が生まれるのはほぼ間違いなし。そう考えるだけで、今日の始業式の目標は達成できた。私は心の中でまたニタニタと笑う。
その後行われた入学式では、校長先生に提案したことが一つあった。それは記念撮影用のスペースを作ることだった。入学式用の立て看板が後ろに映るところに、チューリップの鉢を丸く囲むように並べておいたものである。
案の定、入学式が始まる前と終わった後には、そのスポットに列ができており、記念写真を撮る家族の姿が見られた。テーマパークのスタッフならば、写真も撮ってあげるところだが、準備や片付けでそこまで手が回らなかったのが心残りだ。
こうして、初日の子どもたちとの出会いは終わった。
執筆/浅見哲也(文科省教科調査官)、画/小野理奈
浅見哲也●あさみ・てつや 文部科学省初等中等教育局教育課程課 教科調査官。1967年埼玉県生まれ。1990年より教諭、指導主事、教頭、校長、園長を務め、2017年より現職。どの立場でも道徳の授業をやり続け、今なお子供との対話を楽しむ道徳授業を追求中。