【木村泰子の「学びは楽しい」#41】「大空20祭」が教えてくれたこと

子どもたちが自分らしく生き生きと成長できる教育のあり方について、木村泰子先生がアドバイスする連載の41回目。今回は、大空小の20周年祭で木村先生が再会した卒業生の姿を通して、子どもとの関わりについて改めて考えていきます。(エッセイのご感想や木村先生へのご質問など、ページの最後にある質問募集フォームから編集部にお寄せください)【 毎月22日更新予定 】
執筆/大阪市立大空小学校初代校長・木村泰子

目次
10年ぶりにくぐった大空小の校門
2006年に開校した大阪市立大空小学校が20周年を迎え、2025年6月7日に20周年を祝う「20祭」が開催されました。
現役のSEA(PTA)のメンバーや地域コーディネーターや学校協議会のメンバーたちが発起人になり、口コミで連絡を取り合ったそうです。
校門に近づくと、中から笑い声や大きな声が響き渡っていました。第1期卒業生から始まり、これまで大空小をつくってきた卒業生やサポーター・地域の人たち・元教職員たち約200人が「みんなの学校」に集まりました。2015年の3月に大空小を去ってから一度も大空小には行っていない私でしたが、さすがに、「20祭」は主体的に参加しました。
開校1年目から悪戦苦闘しながら、「みんなの学校」をつくってきた子ども・サポーター・地域住民・教職員たちです。大空小を去ってから10年目に校門に入った私は、いつになく緊張していました。誰に会ってもみんな言葉にならない声を出し合って、ハグ状態でした。
この子が自分の子だったら
「オレ、もうガマンできるようになったからだいじょうぶやで!」
これは大空小の9年間で一番暴れた子どもが卒業前に残していった言葉です。この子が6年生の時に「みんなの学校」が上映されました。これを観て「オレが1秒も映っていない」と校長室に抗議に来ました。本人いわく、カメラは毎日ずっとオレを映していた。それにどうしてなのか納得がいかないから監督に電話をして聞きたいと言うのです。監督との電話の最後に「俺がいいと言っているから、次につくるときはオレを出してな」と言って電話を切りました。カメラが入った1年間はこの子が4年生の時でした。監督が暴れている姿は使われへんと説明したらしいのですが、「あれは4年生の過去の自分で、6年生の今の自分は違う。使ってほしかった」と言いました。
毎日最低2時間は暴れました。当然、教職員は止めに行きますが、止められると余計に力を出して暴れ続けます。毎日必死で暴れるこの子を見る私たちは「大空小にいることがこの子にとっていいのだろうか……」と、とても不安になったときがありました。教職員のだれもが毎日暴れ続けるこの子を見て、「この子のために……」という言葉のもとに、自分たちの関わりをあきらめかけていました。職員室に集まった誰もが何も言えずに沈黙が流れました。
その時です。一人のベテラン教員が「この子が自分の子だったら大空小に置いてほしい……」とつぶやいたのです。その言葉を聞いた瞬間に、私自身も心の中の鉛が落ちたように、自分の子どもだったら、どれだけ暴れても大空小に置いてほしいと確信しました。「よし! 明日から存分に暴れてもらおう」とみんなの笑顔が戻ったのです。
校長として、コーディネーターとして一人で何とかしなくてはと思うほど、苦しいことはありません。教職員のみんなで困り感を共有し合えたら「なんとかなるさ!」って気持ちになるものです。