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【連載】堀 裕嗣 なら、ここまでやる! 国語科の教材研究と授業デザイン ♯5 「ごんぎつね」の主人公は誰か? ~「文脈」を読む力について・その4~

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最も有名な小学校国語科教材の一つである「ごんぎつね」。中心事件を介して成長(=成熟)した登場人物が主人公なのだとすれば、この物語の主人公は「ごん」なのか、「兵十」なのか。今回はこの問いから出発し、筆者の深い教材研究が展開していきます。前奏を務めるのは、村上春樹のあの名短編です。

1.悲しい話だと思いませんか?

村上春樹の初期作品に『四月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて』(『カンガルー日和』講談社文庫・1986.10.15・所収)という短編がある。「四月のある晴れた朝、原宿の裏通りで僕は100パーセントの女の子とすれ違う」という印象的な一文で始まるこの短編小説は、初期の村上春樹ファンには割と人気のあった作品である。もちろん、私も大好きだ。また、この短編が元となって長編小説「1Q84」(新潮社・2009~2010)が生まれたこともよく知られている。

舞台は1981年の4月。晴れた朝だ。原宿の裏通りを女の子は東から西へ、僕は西から東へと歩いている。彼女は僕にとって「100パーセントの女の子」であるわけだから、当然、僕は彼女に話しかけようと思う。彼女の身の上を聞きたいと思うし、自分の身の上を打ち明けたいとも思う。「我々が原宿の裏通りですれ違うに至った運命の経緯のようなものを解き明かしてみたい」と少々大袈裟なことさえ考える。彼女との距離が15メートルばかりになったとき、僕は彼女にどう話しかけるべきかと迷う。しかし、結局彼女に声をかけることはできず、すれ違って何歩か歩いた後に振り返ると、彼女は既に人混みの中に紛れていた。

その後、僕は彼女にどんな風に話しかけるべきだったかを考える。そしていまでは、その科白が確固としたものとして自分の中にある。「昔々」で始まり、「悲しい話だと思いませんか」で終わる、長い長い科白、実用的でない科白である。

その科白は次のような物語として展開される。

昔々、あるところに少年と少女がいた。少年は18歳、少女は16歳である。二人は「この世のどこかには100パーセント自分にぴったりの少女と少年がいるに違いない」と固く信じている。ある日二人は出会い、互いに互いを「100パーセント」の相手だと認知する。二人は孤独を忘れ、時を忘れて語り合う。しかし二人を、「こんなに簡単に夢が実現してしまって良いのだろうか」という疑念が横切る。少年が言う。

ねえ、もう一度だけ試してみよう。もし僕たちが本当に100パーセントの恋人同士だったとしたら、いつか必ずどこかでまためぐり会えるに違いない。そしてこの次にめぐり会った時に、やはりお互いが100パーセントだったなら、そこですぐに結婚しよう。いいかい?

少女も「いいわ」と応じる。しかし、二人を運命が翻弄する。ある年の冬、二人は悪性のインフルエンザを患い、何週間も生死を彷徨った挙句、それまでの記憶をすっかりなくしてしまうのだ。しかし二人は努力に努力を重ね、なんとか社会復帰する。彼らは75パーセントの恋愛や85パーセントの恋愛を経験しつつ、いつしか少年は32歳になり、少女は30歳になる。そして四月のある晴れた朝、原宿の裏通りですれ違うのだ。かつての少年は西から東へ、かつての少女は東から西へ。しかし、失われた記憶のほんの微かな光が二人の心を一瞬照らし出すものの、その微かな光もかき消され、二人はことばもなくすれ違い、人混みの中に消えていく。

「悲しい話だと思いませんか」と、こんな物語である。

2.結ばれたい? 結ばれたくない?

さて、「僕」はなぜ、このような奇想天外な物語を思いついたのだろうか。

それは結論から言うなら、「僕」が「100パーセントの女の子」と結ばれなかったからである。

二人は1981年4月の晴れた朝、原宿の裏通りでことばを交わすことなくすれ違った。「僕」には数十メートルも前から彼女が「100パーセントの女の子」であることがわかっていたにもかかわらず、彼には彼女になんと声をかけて良いのかわからず、彼女は人混みの中に紛れてしまった。

「大好きな女の子」「自分にぴったりだと思った女の子」「100パーセントの女の子」と結ばれなかったとき、人は「もし結ばれていたら……」という可能性のパラレルワールドを夢想する。仮に結ばれていた場合のパラレルワールドを構築するために、いつもとは次元の異なる想像力と創造力が起動し始める。これがもしも結ばれていたならば、二人の間には「現実」が巣食い出し、その「大好き」や「ぴったり」や「100パーセント」は、次第に色褪せていかざるを得ない。そこには常に「現実」が横たわり、想像力も創造力も必要とされない。「100パーセントの女の子」は次第に、96パーセントとなり、88パーセントとなっていく。

しかし、結ばれなかった「100パーセントの女の子」は自分の前に二度と姿を現さない。「僕」の意にそぐわない言動を見せることもない。「100パーセントの女の子」は「100パーセント」のまま、「僕」の記憶にある種の衝撃とともに遺り続ける。それがパラレルワールドを夢想させ、その夢想が想像力と創造力によって彩られ、奇想天外な物語さえ構築させることになる。

結ばれなかったからこそ、物語は生まれたのである。

結ばれなかったからこそ、想像力は起動したのである。

悲しい話だと思いませんか?

3.主人公はいつも成熟する?

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