戸ヶ﨑勤教育長⑵|資質・能力の育成などには、「本時主義」から「単元主義」への転換が必要【教育キーパーソンにインタビュー! 令和の教育課程「その課題と未来」#04】
前回は、中央教育審議会の分科会・部会などの委員を務める、埼玉県戸田市の戸ヶ﨑勤教育長に、多様な教育課題やその改善のための新施策を、どのように学校現場が理解できるようにしていくかといったことを中心にお話を聞きました。今回は、授業づくりを考える上で重要なポイントとなる、単元のあり方などを中心に聞いていきます。
目次
「単元」というメガネをかけて現場の授業を見ているか
最近の授業づくりの在り方で気になるのは、教師が授業づくりをするときに、単元単位で見ているかということです。
現行の学習指導要領の総則には、例えば、「単元や題材など内容や時間のまとまりを見通しながら、児童の主体的・対話的で深い学びの実現に向けた授業改善を行うこと」(総則第3の1の⑴)とあるように、何度も「単元や題材など内容や時間のまとまりを見通し」という言葉が登場してきます。それだけ重要であるということです。資質・能力の育成や学習評価を行うには、1時間の授業単位だけではなく、単元や題材など内容や時間のまとまりで見ていく必要があります。
しかし、大半の学校現場では、「本時主義」から脱することができず、1時間の授業にばかり目が向けられているのが現実でしょう。それにはいくつかの理由があると思います。その一つには、教育委員会の指導主事の多くが、「単元」という視点で現場の授業を指導する時間が少ないことがあります。それは、各学校の教師の授業を見て講評をするのも1時間の授業が中心になってしまうからです。単元を通して授業を見て講評するということは時間の関係もあり、なかなかできないわけですから、どうしても1単位時間の授業の細かいところに目が行くわけです。
そうすると、教師は1時間の授業で、あれもこれも実施しようとしてしまいます。典型的なのは評価の場面で、「主体的に学習に取り組む態度」も「思考・判断・表現」も「知識・技能」も、すべて1時間の中で評価しなければならないと思っている教師は少なくないのではないでしょうか。しかし、その3つすべてを1時間内で育むこと自体無理なわけですから、当然評価をすることもできません。そもそも指導していないことは評価できないのですから。
もちろん、そうした献身的な教師の姿勢自体は決して悪いものだとは思いません。そこには1時間1時間の授業に師魂を込めていく教師の性が表れています。加えて、教育委員会や管理職が「指導と評価の一体化」を繰り返し呪文のように言うため、指導があれば評価があるのだからと、どうしてもすべてを評価しなければならないという思い込みが深まってしまいます。
しかし、学習指導要領の総則では単元を強調しているわけですから、何も1時間で資質・能力をきちんと評価する必要はありません。一つ一つの授業の蓄積である単元を見通して、どう育もうかと考え、単元を見通してどう変容しているか評価すれば、そんなに肩に力を入れなくてもよいのですが、残念ながらそれが多くの現場には伝わっていない気がします(編集部引用=資料1参照)。
【資料1】国立教育政策研究所、「指導と評価の一体化」のための学習評価に関する参考資料(国語)より抜粋
現行の学習指導要領では、これまでの教師が指導する内容(コンテンツベース)の記述から、育まれるべき子供の資質・能力(コンピテンシーベース)の記述へと転換が図られました。子供を主語にした学びへと大きく転換が図られたわけです。そのような子供を主語にした学びは、単元単位で考えるからこそできるのです。もし、1時間単位の授業で考えていたら、「この時間内にこれとこれをちゃんと終えるために、しっかり教えなければ」と教師主導の学習となってしまい、子供が主語の学びにはなりません。
大切なことは、1回1回の授業で全ての学びが実現されるものではなく、単元や題材など内容や時間のまとまりの中で、学習を見通し振り返る場面をどこに設定するか、グループなどで対話する場面をどこに設定するか、児童生徒が考える場面と教師が教える場面をどのように組み立てるかを考え、実現を図っていくものであるということです。
「教科書は教師に指導裁量の余地を残すべき」
そこには教科書の存在も大きく影響しているでしょう。日本の教科書は、各教科書会社のご努力により、教育関係者の多くの方々が言うとおり国際的にも高く評価され、確かによくできています。しかし、よくできているがゆえに、教師は「教科書をしっかり教えなければいけない」という思いが強く、そこを脱することができないのです。学習指導要領の目標および内容の実現であって、教科書はこの目的遂行を支える手段としての「主たる教材」です。「教科書のことだけ教えれば、それでよいわけではありませんよ」「育むのは学習指導要領に示された資質・能力ですよ」「資質・能力が育めていれば、教科書をすべて細かく教える必要はありませんよ」「そこは子供の実態を見ながら柔軟に考えてくださいね」と繰り返し言われても、なかなかそこを抜け出せません。
実際に学校の年間指導計画を見てみると、各教科の年間指導計画や単元計画が、教科書会社が示しているとおりに書いてあるものが少なくありません。特に小学校などでは、学校独自の年間指導計画、単元計画を作成しているところは多くないのが現実ではないでしょうか。そこには、「教科書会社が作ってくれた年間指導計画、単元計画どおりにやらないと、教科書が終わらない」という教科書至上主義による強迫観念があると思います。それくらい教科書呪縛の力は強いため、いかにしてその「教科書をしっかり教える」という呪縛を解き放ち、教師が単元単位の中長期で考えていけるようにするかが課題なのです。
ですから、中央教育審議会などの場でもお話をさせていただいているのは、「学習指導要領は薄くする必要はないけれども、教科書は薄くして、教師に指導裁量の余地を残すべきだ」ということです。文部科学省からは、昭和46年以降、標準授業時数は減少している一方で、教科書のページ数は小学校で約3倍、中学校で約1.5倍になっているという資料も示されています。このように教科書を厚くすればするほど、先にお話ししたような呪縛は強まるのです(編集部引用=資料2参照)。
【資料2】文部科学省作成、標準授業時数と教科書ページ数に関する資料
そうした課題解決のため、標準授業時数も減らして全教師に余裕をもたせることができればよいのですが、過去の学力低下論や教育への批判を考えれば、それは現実的にはむずかしいでしょう。ですから、何としてもまず各教師の子供や教材と向き合う時間を増やすことが必要だと思っています。そのためのポイントとなるのは、ビッグアイデア(中核的な概念や方略)です。そこさえしっかり体得すればよいと言える中核的な概念を理解し、そこから派生する単元を基に見とることができれば、教師の創意工夫を凝らした授業づくりの時間が生まれ、日々の授業はもっと自由で楽しいものになるのではないでしょうか。
What to や Why を考えられるような教師に育てる
残念ながら今も昔も教師が好む書籍は、How toものが大半です。本来なら、指導主事などが「学習指導要領は大綱だから、内容と目標をしっかり押さえれば、方法はもっと自分の裁量で自由にやっていいんです」と言ってあげられればよいのです。しかし、現実は独自に考えることがなかなかできず、ついつい「〇〇法」といった方法論ばかりに目が向いてしまっています。
もちろん経験の浅い教師も多いため、「一刻も早く他の先生に追い付きたい」と思い、よい方法があればすぐにでも真似したいと思う気持ちも分かります。内容や目標を押さえて、自分なりの方法で勝負し、子供たちが生き生きと学ぶようにしようとしても、簡単ではありませんし、時間もかかります。そのため、「明日からの指導に役立つ指導法」といった How to の部分に目が向いてしまうのでしょう。しかし、What to(何をすべきか)や Why(それはなぜか)についても、同じくらいしっかり考え、目の前の子供たちの実態を見詰め抜き、深い教材研究を通して、確固たる子供観や教材観に基づいた授業づくりができるような教師に育てていくことが必要だと思っています。
執筆/教育ジャーナリスト・矢ノ浦勝之