教員だからこそできる「自分さがし」~在外教育施設への派遣体験から~

連載
マスターヨーダの喫茶室~楽しい教職サポートルーム~
関連タグ

元山形県公立学校教頭

山田隆弘

教職生活の中で、新しい土地、新しい人、新しい児童たちと出会うことは、人生の素晴らしい財産であると思います。こうした経験は、より良い人生を送ることに繋がっていくと思いますが、その上で、教員だからこそできる新しい経験や、教員の素養を生かすことでより深く経験できることも数多くあると言えます。例えば、在外教育施設派遣、海外青年協力隊、シニアボランティアなどがそうでしょう。
今回ご紹介するのは、パキスタンのカラチ日本人学校に派遣された、ある先生の体験談です。教員ならではの自己実現の方法ではないかと思います。

【連載】マスターヨーダの喫茶室~楽しい教職サポートルーム~

パキスタンの風景 写真AC

1 ある児童との出会いから

○山形県公立学校教諭 Hさん 男性 53歳 教務主任として活躍中

大学を卒業して、育休代の教員として初めて赴任した小学校でのことです。
その学校は、ある大企業の企業城下町として発展した、広大な工業地帯の中にありました。
そこで私は、ある女の子に出会いました。お父さんがこの企業の社員で、インドネシアにある支社に転勤することとなり、この子はジャカルタの日本人学校へ転校することになっていました。
転校が近づいてきたある日、この子に家庭訪問する機会がありました。
この子は転校が決まったときから、事あるごとに家庭で、お母さんに対して、

「Hせんせいがいっしょについてきてほしい、そして勉強をおしえてほしい」

と言っていたそうです。そのことを聞いて、素直に嬉しかったことを覚えています。
彼の地で、この子にはどんな毎日が待っているのだろう。そんなロマンチックな思いを抱いたのが、私が海外赴任を夢見た最初だったかもしれません。
しかしこの子が引っ越した後、インドネシアは政情が不安定となり、動乱が起きるなどして、一家はとても怖い思いをしたのだと伝え聞きました。慣れない異国で、彼女たちが不安な毎日を送っていることを考えると、矢も盾もたまりません。何か自分にできることはないか、と切に思うようになりました。
そしていつの日か、海外の日本人学校に派遣され、現地で児童たちを支えることを本気で考えるようになりました。
幸いにも妻の理解を得ることができ、数々の事務手続きや面接を経て、その希望は叶いました。
そして、担当者から告げられた赴任先は、
「パキスタン カラチ日本人学校です」。
あまり聞いたことがなかった都市です。しかし、政情不安定な勤務地である、ということくらいは知っていました。赴任前の研修でも、特に危機管理について多く学んだことを覚えています。配偶者研修もあり、妻も派遣に備えてくれました。

2 カラチでの生活、生きていることを実感する日々

私がカラチに赴任したのは2002年。アメリカで同時多発テロが起こった翌年のことで、全世界に暴力の恐怖が黒い影を落としていた時期のことです。
しかも当時のパキスタンは、陸軍トップのムシャラフ大統領によるクーデターの直後でした。無血クーデターでしたが、街の至るところに自動小銃を構えた兵士が立ち並び、物々しい雰囲気でした。

カラチは世界有数の金融・商業都市であり、日本の商社や現地で生産をする自動車メーカー、工業製品等をつくる工場などがあって、1000名ほどの日本人が滞在し、日本人会が組織されていました。
カラチの領事館には日本から来た自衛官や警察官が常駐しており、精度の高い治安情報を提供してくれ、現地警察と緊密に連携して、高いセキュリティ体制を実現していました。
そのため、イスラム教の礼拝がある金曜日に外出したり、ことさら危険な区域にでも行ったりしない限りは、日本人は安全に過ごせていたのではないかと思います。
しかし、アメリカ同時多発テロの余波で、欧米人を狙ったテロ行為は頻発していました。私も赴任中に、身近で3回、爆弾の音を聞いたことがあります。
1回目は赴任して間もなくのこと。引越し先の借家が空くまで一時的に滞在していたホテルの目の前で爆発事件が発生しました。ほんの1週間前まで泊まっていた場所です。
私が泊まっていた部屋の窓ガラスは粉砕され、道路には大きな穴が空いていました。付近のホテルに滞在していたフランス人の軍事技術者たちを狙った自爆テロとのことでした。
そして、後に分かったことですが、この地に来て間もない私が知り合った数少ない人たちの中にも、このテロで命を落とした犠牲者がいたとのことでした。
2回目は、学校近くのインド系の建物が狙われた爆弾テロ事件でした。その事件では、ガードマンが1名亡くなりました。
3回目は、学校の校庭でクラブ活動をしていたときでした。近くで、少しの間をおいて2回、爆音が響きました。標的はアメリカの施設でした。最初に規模の小さい爆発を起こし、見物人や後片付けをする人々を集めた上で、2回目の大きな爆発で多くの犠牲者を狙う、という非常に卑劣なものでした。

こうした状況でしたから、学校生活には常に、危機と隣合わせであるという緊張感がありました。
校内には常時、銃を携えた6名ものガードマンが警備に当たり、スクールバスにも同乗して子どもたちの安全を確保していました。
校内には、食料が備蓄され防弾設備も施されたパニックルームがあり、そこへ避難する訓練はもちろん、スクールバスを使って空港などの安全地帯へ速やかに避難するような訓練も行われていました。
そして、こうした緊張感は日本人同士の結束を強めることにも働きました。日本人会の会長が学校運営委員長を兼任してくれたり、お子さんがいない方々も、学校への支援を買って出てくれたりしました。
帰国する駐在員の方が、パキスタンでは手に入らない教材の調達をしてくれたり、駐在員の方々とスポーツ(サッカー・ソフトボール・ゴルフ)を通しての交流をしたりすることもできました。
こうして、職種や世代を超えて培われた絆は、今でも私のかけがえない財産となっています。

3 日本人学校の教育、そして児童とともに考えたこと

① 全員で学び合う

カラチ日本人学校では、小中連携が当たり前でした。例えば、小学校1年生から中学校3年生まで、すべての学年の児童生徒が関わり合い、共に育つ、という意識をもつことができました。
総合的な学習の時間『カラチタイム』で、全校生が同じ課題に取り組み、それぞれの年齢や発達に応じた取り組み方で、互いに学び合う教育を体験しました。全員が一丸となって日本人のコミュニティをつくり、助け合うという風土が、子どもたちの間にも醸成されていたのだと思います。
例えば、『カラチタイム』で、現地の食材を使ってチキンカレーを作ることがありました。みんなで手分けして、食材を購入します。鶏肉は、生きたニワトリを使いました。カラチには日本のように発達した食品の流通システムがありません。露店で生きているニワトリを選び、その場で捌いてもらうのです。その肉を学校に持ち帰り、肉についている血を子どもたちと洗いました。その時……。「肉があたたかい!?」。誰かがそう叫びました。
先ほどまで生きていたニワトリです。肉に残るぬくもりから、命を感じた瞬間でした。

② 本物の歴史

パキスタンと言えばインダス川。インダス川と言えば、モヘンジョダロの遺跡ということで、有志の保護者家族や同僚と一緒に遺跡を訪ねました。そこには、教科書で見た景色が広がっています。日本がまだ縄文時代で、狩りや漁で日々の糧を得ていた頃、すでに水道やゴミ収集システムが整備された都市があったのだ、という事実に改めて驚き、本物を目の前にして心震えたことを覚えています。
また、ガンダーラ美術を収蔵した美術館で見たガンダーラ様式の仏像。目鼻立ちがはっきりした顔とギリシア風の髪型の仏像を前に、西洋と東洋の文化が交わる場所に今いるということを実感しました。

③ 日本で当たり前でも…

私がパキスタンに赴任していたのは3年間です。
それは「日本は何と恵まれた国なのだろう」と感じる毎日でもありました。蛇口をひねれば、当たり前のように生で飲むことができる水が出てきます。スイッチを入れれば、当たり前のように電灯が点きます。スーパーに行けば、様々な商品が所狭しと並んでいます。街にはゴミ一つなく、電車やバスも時間通り到着します。学校に行けば、無償で教科書が配付され、恵まれた環境でおいしい給食も食べられます。
一方でカラチは、日本など比べ物にならないくらい貧富の差が激しく、社会基盤は脆弱かつ未発達で、ストリートチルドレンは実に1万人もいると言われています。カラチの中だけでのことです。
しかし、このような過酷な生活環境の中でも、パキスタンの人々は明るく、たくましく毎日を過ごしていました。その姿を目の当たりにし、自分が当たり前のような顔をして平和や安全を享受してきたこと、生きることに対していかに無自覚であったかということを痛感しました。児童たちとはこういった日本とパキスタンの違いなども常に話し合っていました。

④ 教育の大切さ…

勤務した3年間の中で、選挙がありました。日本と同じように選挙ポスターが町中に貼られているのですが、そのポスターを見ると、1枚1枚違ったマークが印刷されていました。太陽や月、星……。一体何の意味があるのだろうと話を聞いてみると、投票所で投票する時に、字が書けない人のために、候補者を識別するためのマークを印刷しているとのことでした。驚きでした。
当時のパキスタンは、識字率が50%だったと記憶しています。
教育は社会や国家の基盤である、ということを、このような実例として見ることができ、質の高い教育を平等に受けられることは尊いことなのだと感じました。同僚たちと日本の教育の姿を再考しました。

4 今を大切に

帰国してからは、常に現実的な視点に立つ必要性を感じるようになりました。常に危機管理意識を持ち、現場主義を高めつつ学校運営にあたり、教育課程を構想したり、児童の教育に当たったりしています。学校だけでなく、少年自然の家の研修企画にも携わり、カラチでの経験を生かすことができました。

パキスタンでは、常に貧困やテロを抱える厳しい環境にあり、現地の人々は、日々の生活の中で「今」を大切に生きていました。価値観が変わったのです。「今を大切に」という感覚は、現在の日本の児童の心を豊かに育む教育をつくろうという原動力になっています。

Hせんせいの体験談はいかがでしたか? わたしは他にも様々な日本人学校派遣経験者のみなさんにお話を伺ったことがありますが、皆さんに共通して言えることは、見識と人脈が広がったということでした。一定人数の日本人がいるところには、ほぼ日本人学校や補習校があります。つまり世界中に行くことができる可能性があるわけです。
これは教員だからこそできる学びです。海外経験はその後の教職生活に生かせるだけではなく、人生そのものの基盤づくりになるとも言えるでしょう。

日本人学校に赴任するには、現在の生活を整理し、捨てる物を捨て、新たな出発をするという思い切った考えが必要です。同行する家族だけでなく、親族の理解があり、しかも家族介護などが必要がないという生活環境や家庭環境に左右されますので、すべての方ができるというものではありません。それなりの条件が整わないと難しいようです。でも、こういった課題がクリアされ、条件を整えることができれば、チャレンジしてみてはいかがでしょうか。一度きりしかない人生ですから…。

イラスト/フジコ


  こんな問題を抱えているよこんな悩みがあるよ、と言う方のメッセージをお待ちしています!

その他にも、マスターヨーダに是非聞いてみたい質問やアドバイス、応援メッセージも大募集しています! マスターはすべての書き込みに目を通してますよ!


マスターヨーダの喫茶室は土曜日更新です。


山田隆弘(ようだたかひろ)
1960年生まれ。姓は、珍しい読み方で「ようだ」と読みます。この呼び名は人名辞典などにもきちんと載っています。名前だけで目立ってしまいます。
公立小学校で37年間教職につき、管理職なども務め退職した後、再任用教職員として、教科指導、教育相談、初任者指導などにあたっています。
現職教員時代は、民間教育サークルでたくさんの人と出会い、様々な分野を学びました。
また、現職研修で大学院で教育経営学を学び、学級経営論や校内研究論などをまとめたり、教育月刊誌などで授業実践を発表したりしてきました。
『楽しく教員を続けていく』ということをライフワークにしています。
ここ数年ボランティアで、教員採用試験や管理職選考試験に挑む人たちを支援しています。興味のあるものが多岐にわたり、様々な資格にも挑戦しているところです。



学校の先生に役立つ情報を毎日配信中!

クリックして最新記事をチェック!
連載
マスターヨーダの喫茶室~楽しい教職サポートルーム~
関連タグ

学級経営の記事一覧

雑誌『教育技術』各誌は刊行終了しました