学校が泣いている【玄海東小のキセキ 第6幕】
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現在、宗像市議会議員を務める北崎正則の前職は教員でした。玄海東小学校を卒業して以来、陸上自衛隊勤務を経て、地元の小学校教員になります。玄海東小で教育実習を受け、教員として同校の教壇に立ち、学力の底上げに尽力しました。2008年当時、北崎は宗像市内の別の小学校に勤務していましたが、玄海東小学校の校長から同校に異動してこないかと誘いを受けます。
目次
視聴覚室での模擬結婚式
ブラウンのタイルが貼られたファサードが印象的な宗像市役所本庁舎の3階には、議会フロアがある。そこの応接室で、宗像市議会議員の北崎正則と面会した。1957年、山口県萩市生まれの65歳(2022年の取材時)。小学4年生のときに両親が離婚し、母親の故郷である宗像市鐘崎(かねざき)に移った。母親の実家は漁師で、自分は「漁師の子」だと北崎は言った。中肉中背で体躯がしっかりしていた。
中学から高校まで野球部に属し、私立山口県鴻城(こうじょう)高校では勝負強いバッターとして鳴らした。野球で大学進学を試みるが、セレクションに受からず、経済的な理由から、働きながら大学に行けるということで、自衛隊に入ることにした。
1976年4月に北崎は陸上自衛隊に入隊し、通信隊に配属された。若林勉教育指導教官のもとで北崎はモールス信号を仕込まれた。若林の指導はスパルタ式ではなく、自分で手本を見せてから隊員にやらせるという丁寧な指導をした。
若林は華奢(きゃしゃ)で真面目だった。自衛隊員と知らなければ、サラリーマンとしても通じるように見えた。北崎よりも2歳年上で、陸上自衛隊少年工科学校(現・陸上自衛隊高等工科学校)出身だと聞いた。
北崎は若林と親しくなった。北崎が大学進学を考えていることを知ると、若林は、「自分の夢は小学校の先生になることだ。玉川大学の通信教育課程で勉強している」と教えてくれた。
そんな道があるのかと興味を持った。その後、陸上自衛隊米子駐屯地の通信隊に配属されていた北崎は、若林が陸上自衛隊を辞し、福岡県で小学校教諭になったことを伝え聞く。指導期間は1年間にすぎなかったが、若林の存在が北崎の胸に残り、自分もそのあとを追いかけようと思った。同じ玉川大学の通信教育課程を受け、同大学文学部教育学科を修了し、1980年3月に教員免許が交付されるとともに陸上自衛隊を辞めた。北崎は23歳になっていた。
母の姉が住む鐘崎の家に間借りすると、北崎はすぐに玄海東小学校に向かった。北崎は玄海東小学校の出身だった。
「ここで先生をさせてください」
北崎が校長にそう言うと、校長が笑った。
「教員採用試験を受けたとか?」
北崎は教員採用試験があることを知らなかった。教員免許があれば教員になれると勘違いしていたのだ。当時の校長の入江喜代人(きよと)は元陸軍少尉で、教育実習を受けたときから北崎をかわいがってくれていた。
「これから教員採用試験があるから、頑張ればよか。受かったら、9月から2年生の担任が産休に入る。おまえ、来んか」
北崎は感激した。しかし、教員採用試験でつまずいた。
北崎は1980年から2年続けて福岡県教員採用試験に落ちた。同年9月から玄海東小学校や神興(じんごう)東小学校などで非常勤講師として働いた。北崎は山口県内で働く母親に手紙を書いた。
「教員採用試験は29歳まで受けられる。それでもだめなら、どんな仕事でもして母ちゃんと一緒に暮らす」
母親から返事が届いた。
「人様に迷惑をかけないなら、おまえの好きなようにしなさい」
北崎は自分の勉強机の前の壁に貼った模造紙を見ることが日課になっていた。玄海東小学校で行った教育実習を終えるとき、2年生の子供たちが各自の似顔絵とコメントを入れた模造紙をプレゼントしてくれたのだ。ある似顔絵にはこう書かれていた。
「早よ、先生になってね。待っとうばい」
北崎は1982年の福岡県教員採用試験に合格した。同年4月から非常勤講師として勤務していた古賀町(現・古賀市)立古賀西小学校で9月から正式に採用された。宗像市から古賀町へはその中間にある津屋崎町(現・福津市)を超えて行くので自動車通勤である。各学年が4クラスあるマンモス校で、北崎は5年4組の担任になった。
その3年後の1985年は記念すべき年になった。同僚で6年1組担任の中元(なかもと)康子との結婚を決めたのだ。北崎がクラスの子供たちに結婚することを伝えると、子供たちが模擬結婚式をやろうと言い出した。すると、それを伝え聞いた6年1組が「康子先生をお祝いしたい。合同でやろう」と提案してきた。クラスはどちらも38人いたから、総勢76人の子供たちが祝ってくれた。
5、6年生の代表が模擬結婚式実行委員会を結成し、式の段取りを決めた。「結婚式の乾杯をするためにジュースが必要だ」とみんなでお小遣いを出してお菓子とジュースを買った。出し物では、フォークダンスをしたり、北崎が歌を披露したりすることになった。
場所は放課後の視聴覚室。デコレーションリングが飾りつけられ、黒板には「結婚おめでとう」と書かれていた。実行委員会から北崎と中元は「黙って入場してください」とだけ指示された。
「北崎先生、康子先生、結婚おめでとうございます!」
入場すると、子供たちの声に包まれ、紙吹雪が舞った。北崎と中元はふたつ並べられた椅子に座った。
北崎はハウンド・ドッグの『ff』(フォルティシモ)を歌った。「愛がすべてさ」という歌のサビの部分を北崎が叫ぶように歌うと、子供たちがいっせいに歓声を上げた。カラオケでもこんなに気持ちよく歌ったことがない。
歌い終わると、几帳面な性格の中元から「音程がはずれていましたね」と突っ込みが入ったが、北崎のいい気分は壊れなかった。教員採用試験の実技試験を無事に通過できたのは中元のおかげだった。音楽実技試験ではピアノ演奏をクリアしなければならない。中元は指定曲の『たきび』の練習をつきっきりで教えてくれたのだ。
北崎にとって『ff』(フォルティシモ)は、お別れに模造紙をプレゼントしてくれた子供たちや結婚を祝ってくれた子供たちに対する感謝であり、中元に対する感謝でもあった。
「子供たちから受けた恩を返していこう」
その気持ちが北崎の教師としての原点になった。
おらが町の学校の教壇に立つ
時を経て、北崎の教員生活は3校目になっていた。1992年から福岡県津屋崎(つやざき)町(現・福津市)立津屋崎小学校に勤務した。同校で4年目を迎えた1995年、北崎は母校の玄海東小学校の評判を耳にする。学力が定着しない傾向が続いているらしいのだ。近ごろでは少々荒れ気味だという。
「おれは漁師になるんやけん、勉強せんでよか」
子供たちのなかには、そう言い張る子がいるらしい。
その年度末になって玄海東小学校に異動することが決まった。いずれ母校で教鞭をとることが北崎の夢だった。ひ弱だった自分を成長させてくれたのは故郷の鐘崎だと思っていた。萩市にいたころの北崎は引っ込み思案で勉強をするわけでも、友達と遊ぶわけでもなかった。しかし、鐘崎に引っ越して来たら、博多弁には戸惑ったけれども、友達ができ、野原を一緒に駆け巡った。逆上がりもできるようになった。
「ここがぼくの故郷だ」
北崎はさつき松原の浜辺で遊んだときの潮の香りをいまでも憶えている。
しかし、自分の夢がかなってうれしい反面、母校への異動に不安がなかったといえば嘘になる。それまで教員としての地歩を固めることに注力してきたつもりだったが、教員の年数を重ねるほど、人を教えることや導くことの難しさを感じていたからだ。地元の期待に応えなければいけないという重圧が迫ってきた。
そんなとき、思いがけず当時の横山有(たもつ)教育長から北崎に声がかかった。行きつけの食事処に来いという。何事かと思って行くと、こう激励された。
「玄海東小学校を立て直すのはおまえだ。地元の子の学力をつけてやってくれ」
横山が「おらが町の学校は、おらが町出身の先生が頑張らないといけない」という信条を有することを北崎は知っていた。それでも先輩から直々にそう言われると、北崎は意気に感じた。
1996年4月、北崎は玄海東小学校に赴任し、3年生担任になった。当時の玄海東小学校のトップは広渡三千代(ひろわたり・みちよ)校長といった。広渡校長の学校経営方針は、国語の力がつくと算数の力もつくという宗像市の学力テストの調査に基づき、長崎大学の安河内義己教授の指導を仰いで国語とりわけ音読重視の取り組みを行うというものだった。国語の時間以外にも、朝の会では音読タイムを設け、音読発表会を催した。
北崎は音読の重要性を改めて認識するとともに、それを超えてまったく別の効果もあることを実感した。音読によって声を出させることが、子供たちのエネルギーをうまく発散させることにつながったのだ。1年もしないうちに子供たちは落ち着きを取り戻していく。
結局、北崎は1996年度から2004年度までの9年間玄海東小学校に勤務し、母校の子供たちの学力を底上げするために尽力した。
北ちゃん、来てくれないか
次に北崎が赴任したのは、宗像市立吉武(よしたけ)小学校だった。同校は宗像市東部に位置し、田畑に囲まれた環境にある。そこで教務主任に就いた。教務主任とは、学校の教育課程を年間指導計画に従って進行・管理する、いわば学校の司令塔といっていい。2007年度末になって上司である吉武小学校の校長が玄海東小学校の校長へと異動することになり、北崎は「母校をよろしく」という気持ちで校長を見送った。
ところが、2008年のゴールデンウィークが過ぎたころ、吉武小学校にぶらりと玄海東小学校に異動した元上司の校長がやって来た。職員室に現れ、北崎の顔を見るなりこう言った。
「北ちゃん、うちの学校で教務主任をしてくれんか」
北崎は面食らった。「北ちゃん」というのは北崎のことで、またタッグを組もうと持ちかけられたのである。
そういえば、久しぶりに会った保護者の荒井かおりが、「玄海東小が騒々しいみたいよ」と噂を知らせてくれた。玄海東小学校の子供たちは安定していると思っていた北崎は荒井の言葉を半信半疑に受け取っていた。しかし、元上司の校長に誘われたことで、北崎は玄海東小学校がまた荒れ出したのは間違いないと思った。それから何度も元上司の校長は北崎のもとを訪れ、同じように北崎を誘った。
北崎の自宅からは玄海東小学校の校舎が見えた。毎朝起床すると自宅の2階の窓を開け、その姿を眺めることが日課になっていた。しかし、それでは飽き足らず、北崎は久しぶりに母校を見に行くことにした。
新緑の時期に草が生え放題の校庭が目の前に広がっていた。校庭はいつもきれいに整備されているはずだった。
「いったいどげんした。親はなんも言わんのやろか」
北崎は玄海東小学校に勤務していたころの運動会の情景を思い出した。ここの運動会は地域ぐるみなのだ。家族代々卒業生という家庭が少なくなかった。だから、祖父母は孫の活躍を見たい。親は子供と一緒に競技に出たい。家族総出で運動会を楽しみにしていた。それだけでなく、保護者同士の綱引きがあり、本気で運動会の競技をするのだ。
「1本目の綱引きでは向こうが勝ったが、2本目はうちらが勝つ」
漁師と農家の熱い闘いが繰り広げられた校庭が荒れているのだ。校庭の草を刈らないのかと保護者が文句を言ってもおかしくない。
確か、PTA会長を務めたことがある地元の土木会社の社長がボランティアで校庭の草むしりや地均(なら)しを行ってくれていたのではなかったか。北崎はその会社と懇意にしている知人に連絡をとってみることにした。すると、その会社の担当者は次のように返事をした。
以前は教頭が来社して清掃ボランティアの依頼をしにきたそうだ。ところが、教頭が代わると、挨拶がなく、会うことがなくなってしまった。だから、こちらとしては動きようがないということだった。
別のPTA会長経験者とばったり会ったときも、「なんか、こんどの教頭は。草刈りもせんで」と非難を口にした。
「学校が閉じとうと」
何かしら学校に貢献したいという地域の企業や人がいたとしても、学校と企業の関係が切れていたり、学校が閉鎖的であったりすればどうしようもできない。
「地域との交流がなくなると、校庭も荒れるんか」
北崎は苦々しく思った。
その年の夏休みが明けた。少年野球チーム「玄海サンジュニア」の練習が終わると、所属する少年から北崎は思いがけない話を聞いた。その少年は玄海東小学校に通う6年生だった。夕暮れのなかを北崎と少年は並んで歩く格好になった。
「友達が校長のことを好かんと言いよると」
少年が北崎につぶやいた。
「なんで、そんなこと言うん?」
「学校にそんな格好をしてきたらいかんと校長から叱られた。担任や親はなんも言わんのに、と言うとった」
北崎はその少年に、友達はどんな服装をしていたのかと聞いてみたが、そこまではわからなかった。だが、何となく想像はついた。北崎はその少年の友達や親の顔を見知っていたからだ。おそらく派手な服装をしていたのだろう。
その友達の母親はヒョウ柄などの服を好むタイプだった。もしわが子が派手な服装をしたとしても、母親がそれを問題にするはずがない。北崎の過去の経験では、金髪染めの染料が余ったのでもったいないからと子供の髪を金髪に染めた母親がいた。担任にしても、そんな家庭の事情を把握しているから、ことさら取り上げて注意することがなかったのだろう。
北崎は校長の心情が手にとるようにわかった。子供たちの騒がしさは一向に収まらない。校長はそれが気になるからクラスを見回りに行く。静かにするように指導してもそうならないから、ふだんは物静かな校長も叱らざるをえない。しかし、叱って効果があるのは一時だけで、すぐにもとに戻ってしまう。そんなとき、ある子の派手な服装が目に留まってきつく注意したというところではないか。ただ、当の子供にとっては、担任から叱られていないのに校長から叱られたという矛盾が残る。校長はさぞ大変だろうと同情した。
季節は秋が深まり、11月になった。朝、雨が降っていた。いつものように自宅の2階の窓を北崎は開けた。
「学校が泣いている」
校舎を眺める北崎の気分は重かった。
翌年、北崎は母校に戻ることになる。
ライター/高瀬康志 イラスト/菅原清貴 ※文中の敬称は省略させていただきました。