自治体が提示する「授業の型」にはまる問題点とは?【全国小学校授業実践レポート 取材こぼれ話㉞】
目次
「授業の型」について、多様な先生の声から考える
先日、ある自治体の指導主事の先生と話をしていたときに、過去、その自治体が示していた授業の型の話になったときに、同じ自治体で中堅の先生に授業取材をしたときの、その先生の言葉を思い出しました。そこで今回は、授業の型について、いろいろな先生方の声をつなげて考えていきたいと思います。
授業の型には問題点も一定の意義もある
GIGAスクール構想の実施以降、多くの先生方の目は情報端末の活用方法などにいっているように見えます。しかし、どんなに上手に端末を駆使したとしても、その前提には資質・能力を育むためのよりよい授業づくりがあることが必須だと思います。そのような授業を誰もができるようにするために、これまで多くの自治体が授業の型を示してきました。
こうした授業の型に関しては、複数の専門家が「型にはまってしまう」という問題点を指摘されてきています。以前、少し触れましたが、ある自治体の研究会で地域の授業名人の授業を見た若手の先生が、「今日の授業では、自治体が示している型の授業モデルよりも、課題設定までの時間がだいぶ長かった。しかし、授業の最後にはほとんどの子供が学習内容を理解し、求める力を付けていた。はたして今日の授業はよかったのか、悪かったのか…」という趣旨の質問をしていました。それについては言うまでもありませんが、授業を行う目的は子供たちにめざす力を付けることなのだから、説明する必要もないと思います。しかし、型を示され、その通りに授業を進めることに慣れてきていたその若手の先生は、「型にはまりかけていた」のだと思います。でも、きちんと子供の姿を見て「あれ?」と疑問を感じたのだから、まだまだ本質に引き返すことができたことでしょう。
ちなみにそのとき、授業名人の先生は、その日の学習内容を子供たちがしっかり理解し、課題を捉えるには時間が必要だから長めに時間をとったことを具体的に説明しておられました。
こう説明してくると、授業の型がまるで悪いもののように見えがちですが、必ずしも問題点ばかりではないと思います。授業をつくる側からしても、授業を受ける側からしても一定の意義があるはずです。
例えば(私自身が教育実習に行ったときもそうでしたが)授業づくりに慣れない先生からすれば、一定の型に沿って授業を行うことで、多くの子供に力を付ける可能性を高められるというのはありがたいことだと思います。一方、学ぶ子供の側からしても、認知機能などの偏りによって毎時間違う展開で授業が行われると混乱してしまいやすい子供、あるいは端的にその教科が苦手な子供にとって、一定の型に沿って授業が進んだほうが学びやすいだろうと思います。
しかし、先の専門家の指摘の通り、型に沿って指導し続けることによって、思考停止してしまう危険性も生じます。実際に、ある中央教育審議会の委員であったベテランの先生は、「型はそれをつくった人にとっては意味があるが、型をなぞる者にとっては意味がなくなってしまう」と話しておられました。型をつくった人は、授業を通して多くの子供たちがよりよく学ぶためにはどうすればよいか、を考えて型をつくりあげていくわけですが、その型通りに授業を繰り返す人は、なぜそうするのか意味を考えなくなり、授業の本質が失われると指摘されているわけです。
それは授業をする先生の側だけの問題ではありません。以前、とある自治体で中堅にさしかかった、よい授業者の先生と話をしたところ、次のようなことをおっしゃっていました。その先生は毎時、子供たちの実態に応じて考えて授業をしているのだそうですが、見に来られた指導主事の先生は、自治体の型とは異なる部分を指摘されて帰っていくのだとか。私は子供たちのために授業をしているのであって、型を守るためではないので、そんな指導は必要ないという趣旨のことをおっしゃっていました。
そこで、その自治体でその型を示された先生に取材をしたときには、「子供に力を付けるための授業モデルを示したもので、若手を中心に、すべての先生が一定の質の授業をしていくためには意味があるだろう」とおっしゃっていて、「すべての先生がこの型通りに授業をするようにしたい」とはおっしゃっていなかったことを話しました。すると、「そうだと思うのですが、そう思わない指導の先生もいらっしゃるようで…」と寂しげな顔をされていました。
型を守っているときにその本質を見失ってはいけない
少し話が逸れるように思われるかもしれませんが、現行学習指導要領が告示された後、中央教育審議会のしかるべき立場の専門家に取材をしたとき、その方は「端的に言ってしまえば、めざすのは思考力の育成だ」とおっしゃっていました。しかし、型通りやる、ただ同じものを繰り返すというのは、まさに思考停止状態と言ってよいと思います。思考力育成が大事なミッションであるとするならば、それを行う先生自身が思考停止してしまっては、子供たちに思考力を育むことはできないのではないでしょうか?
「でも経験が少ない自分では、いきなり質の高い授業はむずかしい」と思われる若い先生もおられるでしょう。そうした先生にとって、(これも昔、授業名人の先生から聞いたように記憶していますが)『守破離』という言葉が参考になると思います。 先人から教えられた型を守ることからスタートし、やがてその型を壊したり、離れていったりしてもよいが、本質を忘れてはいけないという意味になるでしょうか。つまりは、型を守っているときにその本質を見失ってはいけないわけで、その本質を自分のなかにもち続けているからこそ、その型を壊したり、別の型を生み出していけるわけです。
そう考えてみると、やはりこれも子供の学びと何も変わりませんよね。例えば算数である計算をするときに、計算の手順、手続きだけを覚えていたのでは、ほかには援用できません。しかし、なぜそういう計算の手順が生まれたのかという数学的な本質を理解していれば、「あのときの考え方を少し変えたら、こんなふうにできるかも?」というように、新しい工夫もできるかもしれません。
そのような学びが求められているのは、子供も先生も同じだし、子供を育てる先生がそれを忘れてしまっては意味がないということだろうと思います。そのためには、型もうまく利用してよい。ただし、その型が生まれた意味は何かという本質を考えていけばよいのだと思います。そうした取り組みを重ねていけば、やがて自分なりの型を生み出せるような、すてきな先生になれるでしょう。
授業取材に同行された大ベテランの先生が感心したこと【全国小学校授業実践レポート 取材こぼれ話㉟】はこちらです。
執筆/矢ノ浦勝之