「差別」「平等」「調和」を考える(下) ー言葉のしくみ、語句の構造ー【野口芳宏「本音・実感の教育不易論」第46回】

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野口芳宏「本音・実感の教育不易論」
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植草学園大学名誉教授

野口芳宏
「差別」「平等」「調和」を考える(下) ー言葉のしくみ、語句の構造ー【野口芳宏「本音・実感の教育不易論」第46回】

教育界の重鎮である野口芳宏先生が60年以上の実践から不変の教育論を多種のテーマで綴ります。連載の第46回は、【「差別」「平等」「調和」を考える(下) ー言葉のしくみ、語句の構造ー】です。


執筆
野口芳宏(のぐちよしひろ)

植草学園大学名誉教授。
1936年、千葉県生まれ。千葉大学教育学部卒。小学校教員・校長としての経歴を含め、60年余りにわたり、教育実践に携わる。96年から5年間、北海道教育大学教授(国語教育)。現在、日本教育技術学会理事・名誉会長。授業道場野口塾主宰。2009年より7年間千葉県教育委員。日本教育再生機構代表委員。2つの著作集をはじめ著書、授業・講演ビデオ、DVDなど多数。


7 「秩序」を支える「差別」

「安心」は人生、日常の最も重要な心の在り方である。「安心」の日々は尊い。その「安心」は「安定」が支え、生み出す。万事が安定していれば万事安心である。その「安定」を支え、生み出すのが「秩序」なのだ。「秩序」があり、その「秩序」が保たれていれば「安定」は崩れない。無秩序の世の中であれば「安定」は望むべくもない。──ということまでを前回の稿で述べたのだが、「秩序」を支えるものは何か、については述べずに終わった。

そこで、まずは「秩序」を支えるのは「差別」であり、従って「差別」は極めて重要な考え方なのだ、ということを言っておきたい。今どき「差別」が「重要」などと言う者はいないし、場合によっては袋叩きにも遭いかねない世相、世情、雰囲気の現状である。だが、「差別」は果たして常に、そもそも「悪」なのであろうか。

『広辞苑』には次のようにある。

①差をつけて取り扱うこと。わけへだて。正当な理由なく劣ったものとして不当に扱うこと。「──意識」
②区別すること。けじめ。「大小の──がある」
③→しゃべつ

参照事項 →の仏教用語「しゃべつ」を引くと、次のようにある。

①〔仏〕万物の本性が平等であるのに対し、それぞれの個物が具体的な差異をもっていること。
②相違。区別。さべつ。天草本 伊曽保物語「人と万物の──を置かずは、鳥類畜類に同前じゃ」
③分別。(文例略)

また、「差別化」という用語もある。

他との違いを明確にして、独自性を積極的に示すこと。「他社製品との──を図る」
(広辞苑)

引用の中では、最初の①の中に「正当な理由なく劣ったものとして不当に扱うこと。『──意識』」という説明が唯一「差別」を「悪」として扱っている。それのみだ。他は「差をつけて別にする」という一般的な説明になっている。企業では、自社製品の優位性を明確に主張するむしろ前向きな言葉として使われている。

これが「差別」という言葉の本来の意味なのだ。

先に私は「秩序を支え保つのは差別だ」という意味のことを述べたが、この場合の「差別」には「悪」の要素は微塵もない。社長と部長、部長と課長、課長と係長、係長と主任という役職には明確な上下関係という「差別」が存在する。その「差別」の共有と実践によって一つの集団の「秩序」が保てて活動が展開するのである。「差」を定め、その「差」にふさわしい「別」を作ることによって初めて「秩序」が保たれるのである。「差別をなくし、平等に」などと言い出したら、会社も役所もその機能を果たせまい。無秩序の集団は崩壊するしかないからだ。

水平な面に水を注げば、水は平面上を広がっていくしかないが、1ミリでも片側を高くすれば水は一定の方向に違うことなく流れていく。片側を「高くする」というのは「差をつけて別にする」ことである。

不当な差別、理由のない差別、悪い差別が「悪」であることは申すまでもないが、正しい差別、価値ある差別は必要な差別なのだ。「平等は善、差別は悪」という言い方は本来成立しないのである。

師弟、親子、夫婦、家族、職場等々およそ人と人とが関わり合う集団においては、然るべき「差」を設け、相互の在り方に「別」をつけてこそ「秩序」が保たれ、「調和」をめざす「協力」が成立するのである。

イラスト46

8 「差別」への過剰対処の問題点

ある時期、ある一部の人たちから、「差別語」や「差別標示」や、様々な慣行の中にある順序や傾向に対して強い指摘や批判がなされたことがあった。「平等」に反するという理由や、慣行の固定化が文化の在り方を歪ませてしまうのだ、というような主張である。

言葉で性別が分かるのも「差別」に当たるとして看護婦、保母、スチュワーデスなどが、それぞれ看護師、保育士、客室乗務員などと言われるようになった。

学校の子供の名簿も男女別は良くないとされ、混合名簿となり、入学式も卒業式も男女別席が廃止された。極端な例では、運動会で1等、2等、3等と「差別」をするのもよくないと言われたそうだ。競争は差別を助長するということらしい。

また、女は赤い服、男は黒い服という傾向も性差を「差別」的に固定しかねないとして、トイレの標示が黒に「統一」され、「平等」化が実現した例もある。

男女同権、男女共同参画、男女差などは全て「男女」と男が先で女が後の言葉だが、これもよくないということで「女男」という言い方にした団体もあったようだが、「冗談言うな」と言いたくなった。

東西、南北、上下、白黒、晴雨、長短、大小、高低、成否、正誤などの言葉は、それぞれ反対の語の組み合わせから成る二字熟語である。これらがどんな経緯や理由からこのような形に「安定」したのだろうか。不明にしてその実情を知らないが、長い長い時の経過の中で変えられることなく、「安定」して今日に至っている事実は重く受けとめたい。先のいくつかの言葉は、明るく、喜ばしく、耳当たりの良いような言葉を先に置いているように思われる。黒白、細大、女夫などという逆の言い方もない訳ではないが、例外的に少ない。

東西も南北も男女も長幼も、その語順あるいは字の配列順位にはそれなりの道理、根拠があるのではないか。それを認めてそれに従うのが、素直ということにも、伝統尊重ということにもなり、安定と秩序をもたらすのだと考えたい。

「男女」の語順が示す暗黙の思想、あるいは哲学、道理とさえ呼んでもいいそれなりの理由を考えてみたい。

古来男性と女性とでは、やはり男性の方が女性よりも力が強く、危機や災難に遭った折には、力の弱い女性や子供を守る責任者たるにふさわしい。このような理由から、男性は大黒柱とも、戸主とも呼ばれたのであろう。敗戦に至るまでの大日本帝国に女兵はいなかった。男女同権ではなかったのだ。このような考えによって「万世一系の男系天皇」が連綿と続いてきたのである。これが世界一長寿の君主国家、日本国の伝統なのである。

看護師、保育士、客室乗務員と呼称が変わったので男女の別が分からなくなり、必要な都度その性別を確かめねばならなくなった。教科書の中からは「○○君」という敬語が消えたので、登場人物や発言者の性別が絵を見ないと分からなくなった。絵を見ても服装や髪型からすぐに男女の判定ができにくくもなった。それらは我々の日常生活をややこしく、不便にこそすれ、積極的にどんなメリットを生み出すことになったのか、私は首を傾げる思いである。

選択的夫婦別姓の推進については、政府の第5次男女共同参画基本計画案の文言を巡って2時間半に及ぶ議論がなされ、結論は「見送り」となったと報じられている。メンバーの18人が推進意見を述べ、19人が慎重意見を述べた由だがどんな結論になるのだろうか。家族問題も家族関係もややこしくなっていくのではないかと考えると、「別姓推進」に与する気はないというのが私の思いだ。

もし別姓社会になったとすると、「野口家」とか「野口さんのお宅では」という言い方は、妻の姓を使わないから「差別」ということになってくる。「野口・河野家」と言うのだろうか。「野口が先か河野が先か」は「選択的に」なるのだろうか。さらにその子供となると「家」や「家族」は関係なく、「個人」として扱うことになるのだろうか。随分ややこしいことになってくるが、「法治国家」なので、そのややこしい状況に見合う法律が新たに数多く必要になってもくるのではないか。

「国際社会において、夫婦の同氏を法律で義務付けている国は、日本以外に見当たらない」という記述が、先の「基本計画案」にあることについて、「国際社会は関係なく、日本は日本だ。家族単位の福祉も税もある」と述べたのは高市早苗前総務相(当時)の由だが同感だ。「日本だけ」とか、「国際社会では」と言われると何となく日本が例外で、遅れているような印象を与えるが、冷静かつ慎重な判断が必要であろう。

9 「差別」「平等」そして「調和」

神は「自然」の造物主とされる。神の造られた「自然」は多種、多様、無限の差異を孕んで地球上に存在するが、それらが地球という一つの宇宙の中で相互に調和を保って存在、生存している。この自然の存在や営みはまことに偉大であり、その故に人間は、「自然」を「大自然」とも称えている。その伝に従えば、その「調和」の営みはまさに「大調和」と呼ぶにふさわしい。

大自然の実体、実態は、多種、多様、千差万別、およそ「平等」な存在はない。相互に比べ合えば「差別」に満ち満ちている。「差別」そのものが「大自然」の本質だとさえ言えるのではないか。差異を造り、差異を生かし、差異を個別化しながら、そして全ての営みを調和させているのが大自然の営みであり、大自然の在り様であり、神の采配ということにもなる。

人間の存在も営みも大自然の中で、神の恵みによって動かされている。神の意志に逆らい、大自然の営みに逆らうことはできない。自然科学は神の意志、自然の法則の発見とそれへの従属の歴史を辿って発達してきた。

少し大風呂敷を広げすぎたようで、汗顔の至りである。人間の営みに目を向けよう。

「平等は善」「差別は悪」というのは一つの思いこみだ、とこの頃考えるようになった。「苛めは悪」「盗みは悪」「親切は善」「看護は善」というのはいずれも正しい。主語自体が善悪を内包しているからだ。

だが、「平等」や「差別」という言葉自体は、本来、善悪を内包してはいない。どのような「平等」か、どのような「差別」かによって「善か悪か」「正しいか否か」が分かれてくるからだ。職階、職位の「差別」は善であり、そこに「平等」を主張し採用すれば乱脈、混乱という「悪」を生むことになる。

夫婦別姓、夫婦同姓の問題も、単に「平等」や「差別」という言葉の上だけの裁きには委ねきれない。「差別」の善なる面に注目すれば、「調和」という安定の世界も生まれてくる。性急に「平等」を求めて採用すれば、乱脈、混乱の渦中に迷いこむかもしれない。

教育の世界では、いつでも「変化する社会に目を向けて」という言葉が用いられ、「改訂」「改革」が求められ、その新しさに目を奪われがちだ。新しいことが「善」であり、古いことが「悪」だと、簡単に割り切れないものがあることにも十分に心を配りたい、と考えるのだがいかがであろうか。

執筆/野口芳宏 イラスト/すがわらけいこ

『総合教育技術』2021年2月号より

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