「教育勅語」再考、再読のすすめ(上) ー聖帝・昭和天皇の御人徳形成の軌跡ー【野口芳宏「本音・実感の教育不易論」第42回】

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野口芳宏「本音・実感の教育不易論」
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植草学園大学名誉教授

野口芳宏
「教育勅語」再考、再読のすすめ(上)  ー聖帝・昭和天皇の御人徳形成の軌跡ー【本音・実感の教育不易論 第42回】

教育界の重鎮である野口芳宏先生が60年以上の実践から不変の教育論を多種のテーマで綴ります。連載の第42回は、【「教育勅語」再考、再読のすすめ(上) ー聖帝・昭和天皇の御人徳形成の軌跡ー】です。


執筆
野口芳宏(のぐちよしひろ)

植草学園大学名誉教授。
1936年、千葉県生まれ。千葉大学教育学部卒。小学校教員・校長としての経歴を含め、60年余りにわたり、教育実践に携わる。96年から5年間、北海道教育大学教授(国語教育)。現在、日本教育技術学会理事・名誉会長。授業道場野口塾主宰。2009年より7年間千葉県教育委員。日本教育再生機構代表委員。2つの著作集をはじめ著書、授業・講演ビデオ、DVDなど多数。


1 聖帝・昭和天皇の偉業

昭和天皇は史上初めて64年という最長の在位期間を築いた。しかもこれもまた史上最大の激動の時代とも言い得る中をである。

満20歳で大正天皇の摂政となられ、25歳で第124代の天皇に践祚、昭和と改元される。崩御は満87歳、実に足掛け64年間を天皇の地位にあって我が日本国及び日本国民とその明暗を共にされた。その間の数々の偉業については、本誌の平成27年(2015)12月号から「皇統・皇室の授業を構想する」と題して、連載しているのでそちらを参照願えれば幸いである。

敢えて「聖帝・昭和天皇」と小見出しをつけたのにはそれなりの理由がある。一言で言えば、今日の日本国の、平和、平等、自由、富裕、治安は、正に昭和天皇あっての賜という私見に基づく。無論、国民の努力、精進も大きくその貢献を齎(もたら)していることは言うまでもないが、国運を二分するような一大危機にあっての昭和天皇の御聖断や言動の功は、それらを遥かに超えて偉大であり、偉業であるというのが私の考えである。

二つだけ挙げれば、一つは昭和20年8月14日の大東亜戦争(当時)終結への御聖断であり、二つめは同年9月27日に連合国軍最高司令官マッカーサー元帥を訪問された折のお言葉である。マッカーサー元帥は、昭和天皇の訪問の目的は「命乞い」に違いないと考えていたようだが、そのマッカーサーをして「私は、初めて神の如き帝王を見た」とまで言わしめた昭和天皇の大御心の偉大さである。これらについても先の連載にやや詳述してあるのでここでは触れない。

但(ただ)し、蛇足ながら昭和天皇について一、二、私見ならぬ言葉を引いておきたい。

ア、「ほとんど誰もが、昭和天皇の誠実なお人柄と真摯な御生涯に敬意を払っており、さらに『類い稀な二十世紀の名君』(阿川弘之氏)と高く評価する声さえ少なくない。それは決して日本国内の皇室に好意的な人々だけでなく、むしろ旧敵対国の責任者たちも賞賛していることを確認しておこう。」(所功氏、後述書『教育勅語』の解説)

イ、「神だ。あれだけの試練を受けても帝位を維持しているのは、神でなければできない。」(W・ウェッブ裁判長)

ウ、「こうして世襲の天皇をシンボルと仰ぐ“立憲君主国”日本の再生が可能になった理由は、いろいろ考えられる。しかし、その最大の要因は、前述のマッカーサー元帥やウェッブ裁判長をも感服せしめられたような、昭和天皇の誠実この上ない御人徳そのものであったとみられる。」(所功氏、後述書p.181)

この度改めて考えてみたいのは、昭和天皇がかかる「聖帝」たり得た、あるいは「聖帝」と成り得た根本は何か、という問題である。これらの問題、課題は、教育に深く関わる立場の教員にとってはぜひとも理解しておかねばならないことだと思われるが、敗戦から75年余りの間、学習指導要領ではついぞ一度も触れることなく過ぎて今日に至る。学習指導要領で触れないぐらいだから、教科書でも触れる訳にはいかない。教科書になければ教える訳にはいかないし、その必要もないことになる。かくて、教員自身も大方の場合、昭和天皇の大御心の尊さや偉業についてはほとんど知らないままである。

自分の知らないことは教えられない。教えられたことがないし、教わったことがなければ、それを知らないのは当然である。知らない子供に罪はない。残念な事態であり、看過できない心の疼きに応えてみたい。

イラスト42

2 昭和天皇の教科書

度々引用する私の大好きな格言を改めて紹介したい。「人は人によって人になる」(カント)である。私はこれを「ヒトは教育によって人間となる」と解している。聖帝・昭和天皇もまたすぐれた教育によって「誠実この上ない御人徳」を身につけられたに違いない。

ここに『昭和天皇の教科書 教育勅語』(東宮御学問所御進講掛 杉浦重剛 解説所功 勉誠出版刊 平成14年初版)という新書判の一冊がある。

「解説」を担当した所功氏は、次のように述べている。

それでは、このような昭和天皇の御人徳は、どのようにして形成されたのだろうか。もちろん、二千年近い皇統に代々受け継がれてきた格別な資質を備えておられたにちがいないが、それを引き出し高めたのは、御幼少時からの特別な訓育(いわゆる帝王学)によるところが大きい。(前掲書p.181)

「御幼少時からの特別な訓育(いわゆる帝王学)によるところが大きい」というのがカントの「人によって」の部分と重なる。学習院初等科を終えられた殿下は以後旧制の中学、高校に当たる7年間を「特別教育」を受けられるための「御学問所(ごがくもんじょ)」で学ばれることになる。いわゆる「東宮御学問所」である。ここで満13歳から満19歳までの7年間を5名の御学友と共に特別教育を受けられた。

帝王学の中核をなす教科が「倫理」である。当時の東大総長山川健次郎氏と、京大文科大学長狩野幸吉氏に指導者としての打診があったが、お二人とも「到底その大任を果たし得ない」として固辞する。そこで民間から抜擢されることになったのが、杉浦重剛氏である。

杉浦氏は山川東大総長の強い勧めに従って「東宮御学問所御用掛」に任命される。数え年60歳の折である。

それ以降、この大任を完遂するため、杉浦は全力を捧げ尽くした。(中略)十歳代なかばの皇太子にご理解頂きやすいよう、さまざまな角度から何度も吟味し、毎回テーマを設け興味深い内容構成に工夫をこらしている。(前掲書p.187)

御進講日には、午前三時に起床し、斎戒沐浴して端坐瞑想の後、静かに朝食をとり、六時前に人力車で御学問所へ向かい、七時には控室に入って心を落ちつけ、殿下の御登校を迎えて八時丁度から指導を始める、というスケジュールを七年間守り通した。(同前)

今流に言えば、「気合いが違う」ということになろうか、「大任完遂」への唯ならぬ決意の程が窺われることである。この御進講は通計280回以上に及ぶ由、その全容は『倫理御進講草案』(猪狩又蔵編 B5判、1200ページ、昭和11年刊)の大著に詳しいそうだ。

さて、この膨大な「倫理」の御進講の主眼目は「将来天皇となられる皇太子裕仁親王の御人徳・御見識を育成することにあった」ので、その基本方針として杉浦氏は次の3点を挙げた。

一、三種の神器に則り皇道を体し給ふべきこと。
一、五箇条の御誓文を以て将来の標準と為し給ふべきこと。
一、教育勅語の御趣旨の貫徹を期し給ふべきこと。

それぞれに簡潔な説明を加えたが、「教育勅語」については、明治天皇が「我が国民に道徳の大本を示されたもの」であると同時に、「天皇も亦之を実行し給ふべきことを明言せられたもの」だから「皇位継承者である殿下御自らも之を体して実践せらるべきもの」と、率先垂範の必要性を述べている。単に、高所から天皇が国民に指示したものではないところに注目したい。ここには今も多くの誤解があって残念である。

杉浦御用掛は、「教育勅語」について11回に及んで御進講をし、その全容が『昭和天皇の教科書 教育勅語』に収録されている。

3 「教育勅語」についての私見

①漠然とした悪印象をもつ人が大多数。

②そのマイナス印象は学校教育の中で作られたもので、本文を自分で読んで抱いた印象ではない。大多数が不読者。

③では、本文を読んでみたいか、と問うと大多数が読みたいと言う。そこで実際に読み、解説も加える。

④結果的には「どこが悪いのか分からない」「納得できる」と印象が反転する。

⑤但し、昭和23年6月19日に衆参両議院は「教育勅語」についてそれぞれ排除、失効の決議をしている。法的には、「教育勅語」は排除され、失効されている以上、この決議を撤回しない限り公的に陽の目を見る訳にはいかないことになる。

⑥しかし、歴史上の一つの教育遺産として、教育上の研究、検討、活用を図ることは可能であり、大切なことと考える。

⑦私は、「教育勅語」は立派な「教育の方針」であり、「人間として、国民として、時空を超えて正しい徳育論である」と考えている。

⑧文体は文語体であり、用語に難解なものもあるが、内容としては平明で親しみやすく、分かりやすい。文語体としてのリズムがあり、それが一つの格調を生み出している。

⑨「教育勅語」は、明治23年に渙発(かんぱつ)されているが、その排除、失効の決議がなされたのは昭和23年6月である。GHQは、占領後直ちに「教育勅語」の廃絶を命じてもよかったのにそれをしていない。これは、GHQとして、廃絶を命ずるに足る理由が見つからないからだ、と私は考えている。後に触れるが、「之を古今に通じて謬(あやま)らず。之を中外に施して悖(もと)らず。」という一節は、その内容がまさに「俯仰天地に愧(は)じず」だからであり、GHQもその点をよく了知していたからだと思う。

衆参両議院の排除、失効決議については、GHQは文書による命令はついになさず、口頭でその決議を促したに過ぎない。敗戦国、占領下にあってはGHQの指示を拒否することはできなかったに違いない。このような事情を知れば、この決議自体が「止むを得ざる決議」であったのではないかとも思えてくるのだがいかがなものか。

⑩「教育勅語」を体質的に嫌う向きもあるようだが、冷静に、成心なく、本文起草者の意図を忖度しつつ読めば、その内容の公正、中庸、形式や用語の格調の高さに納得がいくに違いないと私は考えている。先入観や偏りを以て見れば、どんな形の物でも歪んで映る。それは、誤解というよりも曲解と言うべきものだ。

⑪「教育勅語」成立の直接の契機は、明治23年2月、東京で開かれた地方長官会議における「徳育涵養の義につき建議」が、文部大臣宛に提出されたことにある。

明治維新によって欧化思想が急激に広まり、日本古来の美風が失われ、忘れられ、世情紊乱の風が広まりつつあるのを恐れての建議であった。時宜を得た建議であったと思う。

⑫一国の将来の為に、正に「国家百年の大計」となる教育の、そのまた中核である「徳育涵養」の根本を確立明示するというのは、大変な難事である。文部省にそれをせよ、というのである。そして成ったのが「教育勅語」である。

⑬「教育勅語」は、本文僅かに315文字に過ぎない。300字前後で、「教育勅語」を超える内容と格調を備えた文章を作れる者が今の時代にいるのだろうか。いたらぜひ見せて貰いたい。

(次回に続く)

執筆/野口芳宏 イラスト/すがわらけいこ

『総合教育技術』2020年10月号より

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