教員の資質向上実践論(補)【野口芳宏「本音・実感の教育不易論」第22回】

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野口芳宏「本音・実感の教育不易論」
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植草学園大学名誉教授

野口芳宏
教員の資質向上実践論(補)【本音・実感の教育不易論 第22回】

教育界の重鎮である野口芳宏先生が60年以上の実践から不変の教育論を多種のテーマで綴ります。連載の第22回目は、【教員の資質向上実践論(補)】です。


執筆
野口芳宏(のぐちよしひろ)

植草学園大学名誉教授。
1936年、千葉県生まれ。千葉大学教育学部卒。小学校教員・校長としての経歴を含め、60年余りにわたり、教育実践に携わる。96年から5年間、北海道教育大学教授(国語教育)。現在、日本教育技術学会理事・名誉会長。授業道場野口塾主宰。2009年より7年間千葉県教育委員。日本教育再生機構代表委員。2つの著作集をはじめ著書、授業・講演ビデオ、DVD等多数。


3 教員の資質向上・私の実践

① 憧れる師を持つ
② 「本」を読むということ
③ 「観」を磨く(承前)

千葉大学の漢文学の大槻信良教授が退官され、新たに東京の大学に教授として招かれた。大槻教授は、千葉大学に歩いて数分の所にご自宅を構えておいでだったので、退官をされてからの東京への通勤はさぞ御苦労なことだろうと私は察していた。

6月に入って少し暑さを感じるようになった朝のこと、駅のホームでばったりお会いした。早速私は、「随分御苦労なことでしょう」と御挨拶を申し上げたところ、先生はにこにこされながら、次のようなことを私に話してくださった。

「年を取るとどうしても運動不足になりがちだが、東京の大学に通うようになってからは、駅の階段の上り下りや、歩く距離もずっと増えた。毎朝、毎夕適度な運動になって、この頃むしろ若返ったような気がする」「加えて、今度の大学は女子大だ。元気一杯の若い女子学生が授業を待ってくれている。それだけでも元気づけられて若返るような気分になる。私は、毎日を楽しんでいるよ」──そうか。成程、そう考えるのか。

私は、大槻先生のこの言葉を今でもよく思い出す。事実や事態は一つでも、それをどのように受けとめ、どのように身を処するか。そこが、実は幸と不幸の分かれめなのかもしれない。悲観的に、マイナスに受けとめれば人生は暗く、辛くなる。楽観的で前向きに受けとめれば、人生は楽しく、明るく、面白くなる。

「観を磨く」──ことによって、人生の在り方が豊かになっていくのである。私は、著書へのサインを頼まれるとよく次の言葉を書く。

  • 教師人生を楽しむ。
  • 教師人生パラダイス!

「大いに、教師人生を楽しんでください。教師という職業は本当に尊く、そして楽しい仕事ですから──」

と付け加える。すると、大方の先生が、にっこりして「有難うございます。頑張ります」と答えてくれる。

④ 「異」に学ぶ

「類は友を呼ぶ」「朱に交われば赤くなる」「似た者同士」などという慣用句がある。いずれも「気の合った者や似かよった者は自然と寄り集まる」というような意味である。人間の一つの通有性とも言える。そして、それはそれでよいとも言える。親しい仲間との歓談は時を忘れさせる。加えてそこに酒でもあれば、その座は一段と盛り上がる。そういう仲間が沢山あることは嬉しいことだ。その点でも、私はつくづく有難い仲間に恵まれたと思い、感謝している。

だが、少し別の角度から考えてみたいことがある。

先に述べた恩師平田先生の「子供というのは廊下を走るものだ」という言葉や、大槻教授の退官後の東京への通勤についての言葉は、ともに私の考えていたことへの「異論」である。換言すればお二人ともに私の考えを否定されたのである。そのことによって、私は、いわば「別の見方」「新しい考え方」に出合うことになったのだ。そして、そのことに気づき、その別の見方、考え方を私が受け容れることによって、私が一つの成長をしたのである。つまり、私は「異に学ぶ」ことをしたのである。

人の向上、成長にとっては、「異」とどのように対するかということが極めて重要だということが言えるだろう。自分にとって同類、同質の人や考えとつき合うのは難しいことではない。それは誰にでもできることである。だが、そこに成長や向上がどれほど期待できると言えるだろうか。ここを考えることが肝要なのだ。

今の学校教育では、次のような考え方が言われ、受け容れられ、広まっている。

ア、なるべく子供の考え方を否定するな。否定をされると子供が傷つくからだ。
イ、子供を叱ってはいけない。長い眼で、温かく見守ることが大切だ。
ウ、一方的に教えこんだり、強制したりしてはいけない。子供の考えを尊重するようにしていくことがよいのだ。

これらのことは、要するに「異」を称えたり、押しつけたりしてはいけない。なるべく「子供のそのまま」を大切にすることが、これからの教育の方向だ、ということなのだ。「ありのまま、そのままでよいのだ」──という現状肯定、現状温存が是とされている風潮である。私はこれに懐疑的である。これらは、要するに「異」の排除のすすめだからである。

「忠言は耳に逆らう」「良薬は口に苦し」という慣用句は、「異に学ぶ」ことの推奨である。注意、叱責、叱り、忠告、禁止、説諭、懲罰、諫言などは、いずれも子供にとっては嬉しいこと、楽しいことではない。いわゆる「口に苦し」「耳に逆らう」ことなのだ。この、子供にとっての「異」に対して、それを排除するのでなく、正対し、受容し、「我が身を省みる」ようにすることが「異に学ぶ」ということなのである。

これは、教師対子供の間にのみ必要なことではない。上司と部下の間にも、あるいは同僚相互の間にも、親子の間にも、夫婦の間にも必要なことである。

だが、若者や子供の「異に学ぶ」謙虚さは徐々に、確実に低下している。異論、反論をされると「むかつく」者や、注意や叱責をされると出社しなくなったり、甚だしい場合には反抗や反撃に及ぶことさえある。これは「異」に出合うと、排斥、排除、攻撃に出ようとする表れであり、本人の成長、向上を阻む態度だと言える。これは望ましくないことだ。

更に言えば、現今の学校教育の風潮は、このような傲慢、自己中心、世間知らずを助長させる方向に向いてはいないか。それが、どうも私には気がかりで仕方がない。

実は、「異」に出合うことこそが、成長や反省や向上のチャンスなのである。「異に学ぶ」態度によって、人はいくらでもその資質を向上させることができるのである。「異に学ぶ」場合に最も大切な「謙虚さ」の教育を学校に取り戻さねばならない。私は強くそのことを思う。

⑤ 「仲間」を選ぶ

「朱に交われば赤くなる」という慣用句は、一般的には「友達の選択の重要性」を表していると解されている。人は、交わる相手によって、善人にも、悪人にもなる、ということである。「麻の中の蓬」は、良い環境が善い人をつくることのたとえである。

私は、常に良友を選んで交わり、その交友は今に続いて幸せである。私は、教育学部の中学校課程で国語科教育を専攻した。2年生の折に、同期の国語科専攻生15人に呼びかけて同人誌『うもれ木』を発行した。卒業するまでほぼ年に2、3回ずつ発行し続けた。仲間を広く募りもしたので、最盛時には80人もの同人が集まって活動したのだが、卒業によって終了した。この発行作業を通じて、国語科専攻生の絆は他のどの教科よりも強くなり、就職してからも年に1、2度の集まりはずっと続き、実は今も続いている。春は日帰りの旅、秋は1泊の旅がずっと続いているが、他界した者もあり、体調の不良、老化などで参加者は女性2名、男性4名になってしまったのは淋しい。

もう一つ、誇りにしていることがある。60歳で全員が定年退職したが、それを契機に、学生時代の同人誌『うもれ木』の復刊をしようということになって、すでに20号を発行した。発行部数は15部である。全員83歳前後の高齢者である。

寄る年波には勝てない。20号をもって最終巻としたが、それほどの仲間だから、ほぼ全員が前向きで、読書好きで、探究好きであり、会う度に相互に刺激し合って生産的な交流が続いている。

「良き師、良き友、良き書物」の3つが、資質向上、自己研鑽の要諦だと言われるが、全く同感である。

我々は、互いに仲間を誇りに思っている。互敬、互譲、互学を心がけているので、自ずと他に友達を持つ場合にもそういう仲間を選ぶようになる。

現在の私の交友は、大きく言えば、教員仲間、モラロジー研究所の仲間、幼児教育にかかわる仲間、宗教団体の仲間、出版業界の仲間、学会の仲間ということになるが、どの仲間も、前向き、プラス志向、努力好きという点で共通している。「朱に交われば赤くなる」ので、絆をいよいよ深め合って仲が良い。単なる遊び仲間ではない。

ざっと80年の来し方を省みて、つくづく「良い仲間」と出会ったと、感謝をしている。

イラスト22

4 教員の資質向上実践論・総括

教員の資質向上は、常に重要な課題であるが、それは、本人にとって何よりの楽しみであることがポイントになる。「しなければならない」というような、他律的な義務感に基づく研究と修養では、本当の喜びには繫がらない。およそ、自分が向上し、自分が高まることほど嬉しいことはない。自分自身の向上的変容が自覚できることほど嬉しいことはない。それを楽しめたとき、教員人生は大いなる生き甲斐になってくる。

「知好楽」という言葉がある。「知ることは好むに如かず」は、「知る喜びも嬉しいが、それは好きになることには及ばない」の意である。但し、「好むことは楽しむに如かず」である。「好きになるのは嬉しいが、それも楽しむ喜びには敵わない」というのである。人生の最上の喜びは、それをしていることが「楽しみ」になることにある、という意味だ。自分の資質を自らで向上させるべく努め、自分自身の成長を自ら自覚でき、そのことが楽しいと実感できたときにこそ、「学ぶ楽しみ」を本当に身につけたことになる。

試験を受けなければならない勉強には苦痛が伴うが、試験のない勉強ほど面白く、楽しいことはない。だから、是非聞きたいという人の講演会には、何百人もの人が押しかけて耳を傾けるのである。その人々の中には、かなりの時間と旅費と参加費を払って参加する人も多い。「何物にも代え難い楽しみ」を、その人は、そこに見出すからこそ、そのように行動するのであろう。

資質向上の「総括」としては、学びを「楽しむこと」をもって最上としたいということになる。その方策、具体策として私は次の5つのことを挙げた。

  • 「憧れ」る師を持つこと
  • 「本」を読むこと
  • 「観」を磨くこと
  • 「異」に学ぶこと
  • 「仲間」を選ぶこと

この5つは、私の体験に基づく実感的帰結であるが、聞き流し、読み流してしまわないで欲しい。この5つを軽んずるような軽挙は慎んで欲しい。この5か条、5点はいずれも時空を越えた人生充実のポイントとも言えようと思っているからだ。

あるいはすでにお気づきの方があるかもしれない。あこがれ、ほん、かん、い、なかまの頭音を繫ぐと「アホカイナ」となる。そう言われないよう重視、精進を望みたい。

執筆/野口芳宏 イラスト/すがわらけいこ

『総合教育技術』2019年1月号より

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