「基礎・基本」の本質は「不変・不動」【野口芳宏「本音・実感の教育不易論」第2回】

連載
野口芳宏「本音・実感の教育不易論」
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植草学園大学名誉教授

野口芳宏
「基礎・基本」の本質は「不変・不動」【本音・実感の教育不易論 第2回】

教育界の重鎮である野口芳宏先生が60年以上の実践から不変の教育論を多種のテーマで綴ります。連載の第2回目は、【「基礎・基本」の本質は「不変・不動」】です。


執筆
野口芳宏(のぐちよしひろ)

植草学園大学名誉教授。
1936年、千葉県生まれ。千葉大学教育学部卒。小学校教員・校長としての経歴を含め、60年余りにわたり、教育実践に携わる。96年から5年間、北海道教育大学教授(国語教育)。現在、日本教育技術学会理事・名誉会長。授業道場野口塾主宰。2009年より7年間千葉県教育委員。日本教育再生機構代表委員。2つの著作集をはじめ著書、授業・講演ビデオ、DVD等多数。


1 本音・実感、我がハート

「本音・実感、我がハート」というのは、私のモットーの一つである。「自分に正直でありたい」「自分に忠実でありたい」と思う。「落飾」という言葉がある。出家して仏門に入る時に、俗世の女のいのちである髪を落とすこと、剃髪することを言う。特に高貴な婦人について言うと解説する本もある。「虚飾を去る」という言葉もある。いずれも好きな言葉である。

この連載では、81歳になった私の教員人生の中で考え、感じ、思ったことを、専ら「本音・実感、我がハート」で、「虚飾を去って」書いてみたい。それは、およそ書誌学的、文献学的な類いではなく、体験的、経験的、主観的なそれに近くなる。

しかし、その方が読者との対話には血が通うようにも思えるのだ。現今、教育の現場、学校の職場ではとかく建前論、観念論、机上論が幅を利かせ、生々しい、本物の肉声が聞こえにくくなっているように思えてならない。肩の力を抜いて、本来の姿で、正直に教育を語り合える場も時に必要ではないか。そんな書きぶりを、どうか許して欲しい。

本音・実感、我がハートを語る以上、批判、反論、叱責は覚悟の上である。率直な御意見を期待している。大いに議論を交したい。

イラスト2

2 賞味期限は10年間の「改訂」

さて、新しい学習指導要領が告示され、その全容がネット上で示された。ざっと10年間は今回の「主体的・対話的で深い学び」が、キーワードとして日本の学校現場を覆うことになろう。そのような名を冠した教育書が書店に沢山並ぶことだろう。逆に、そのような言葉を冠しない本は片隅に追いやられることにもなりかねまい。今までと同様、それはずっと続いている現象である。

だが、10年先を考えてみよう。恐らくは「主体的・対話的で深い学び」と書かれた本は姿を消しているに違いない。ひととき、「アクティブ・ラーニング」という言葉が巷に溢れたが、今では少し潮が引き始めているようだ。何とめまぐるしいことか。

学習指導要領の改訂は、ほぼ10年ごとになされるのだが、つまりそれは、そこでの主義、主張の賞味期限はせいぜい10年ぐらいですよ、ということを意味する。10年後には、次のキーワードが現場を覆うことになる。その繰り返しで戦後の70年が過ぎた。それぞれの改訂によってもたらされた明確な教育上の成果、実り、向上はあったのだろうか。私には、明確なそのような自覚がない。どれも、これもスローガンで終わってきたとしか思えない。残念ながら、それが私の実感であり、本音である。

3 基礎・基本とは、不変・不動が本質

義務教育の期間は9年である。この期の教育の本質を一言で言えば「基礎」「基本」の習得、体得ということである。「三つ子の魂百までも」と言うから、幼児教育もまた「基礎」「基本」を本質とすると言ってよいだろう。

ところで、改めて「基礎」「基本」とは何なのだろうか。その「根本、本質、原点」「正体」は何なのだろうか。私は、ずばりとそれを「不変、不動」ととらえている。時間や空間や状況によって変わり、動くものは枝葉であり末節である。基礎や基本は、いかなる時、いかなる場、いかなる状況にあっても不変、不動、不易をその本質とする。そうであってこそ、いかなる時、いかなる場、いかなる状況になろうとも、応用が自在にでき得るのだ。

このようなことは、むろんのこと文部科学省は承知の上で文部行政をリードしている。もはや少し古い文書であるが、次を引いてみたい。

「変化の激しい社会を担う子供たちに必要な力は、基礎・基本を確実に身に付け、いかに社会が変化しようと、自ら課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力、自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心などの豊かな人間性、たくましく生きるための健康や体力などの『生きる力』であると提言した。」

上は、「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」平成8年7月に中教審が答申した一節である。「基礎・基本を確実に身に付け」と真先に書いてある。しかし、学校現場や指導行政の世界では、その後に書かれている「自ら課題を見つけ、自ら学び、自ら考え云々」の方に大きく軸足を移してしまい、前提の「基礎・基本を確実に身に付け」という件は忘れられがちである。その後の長々と書かれている文章は要するに活用、応用、そして、その際の適用上の留意点である。それらの前にある最も大切な「基礎・基本を確実に身に付け」という文言にこそ、我々は常に戻り、そこからの出発を心がけねばならない。不変、不動、不易の「基礎・基本」が不確実であれば、その後の実り、発展は全て危ういからである。

義務教育の期間の最大、最重要なことは「基礎・基本を確実に身に付け」ることであり、他のことは粗く言えば二義的、副次的なことだ。

道徳で言えば「善悪の弁え」こそが基礎・基本であり、「個性」や「多様性」は二義的、副次的なことである。学力で言えば、「読み・書き・そろばん」こそが基礎であり、「思考力・表現力・判断力」などはそれらの「応用・発展」の力であり、二義的、副次的なことがらだ、と私は思う。

4 忘れられない津波の被災地

親しい校長の案内で、3・11の大津波の被災地を訪れたことがある。「ここには沢山の人が住み、賑わっていた」と説明されたのだが、その面影は跡形もなく、寒々とした光景が広がっているばかりだった。息を呑む思いで、私は語を絶した。大自然の猛威を思い知らされたと言ってよい。

やがて落ちつきをとり戻した私は、その中からあるものに気づき、新たな感動を覚えた。全てを奪い去ったかに見えた荒涼たる光景の中に、私は、不変、不動、いささかの揺らぎも見せないある物を見出したのだった。それは、当時の、まったくそのままで厳然としてそこに存在していたのだ。

それは建物の「土台」である。一戸一戸の家を支えるために、真っ先に地中に打ちこんだコンクリートである。全ての建物はこの上に建てられたのだ。そのいわゆる「上物」は跡形もなく消えてしまったのに、上物を載せていた土台は巨大津波にさえびくともせずに確実な姿をとどめていた。「これこそが基礎なのだ」と私は思った。義務教育である初等、中等教育はこうでなければならないのだ。

3・11のあの大津波の大天災の中で、被災者が整然と列を作って水を待ち、食物を待ち、支え合い、労り合い、励まし合っている秩序は世界を驚かせた。日本人の公徳心の高さと確かさは世界の人々をして驚嘆せしめ、称讃を呼んだ。争い一つ、暴動ひとつ起こりはしなかったのだ。

この、日本人の公徳心、礼儀、作法のDNAは、あのような混乱の状況下にあっても揺るぎなく発揚されたのであった。「疾風に勁草を知る」という語があるが、「勁草」こそが「基礎」の正体なのである。

義務教育の9年間に、本当に叩きこまなければならない「基礎・基本」とは何なのか。改めて考え合ってみたいことである。

5 古典の「不変、不動、不易」

たかだか10年の後にはさらに改訂をする学習指導要領の構造に目を向けてみたい。粗く言えば、改訂される部分と改訂されない部分を比べると、「大方は改訂されない」「改訂されるのはごく一部だ」ということになる。前者を不変部、後者を変化部と呼んでおけば、大部分は改訂されない不変部である。変化部はごく一部分だというのが、学習指導要領の改訂の構造的実態である。

それは当然のことであって、基礎教育を本質とする義務教育期間のカリキュラムが、がらりとまったく変わるなどということはあり得ない。また、あってはならないのである。そうなると、「改善」あるいは「改訂」と言われる部分は、たとえてみれば「三日月部分」であり、そこは「変えてもさしつかえのない可変部分」だということになる。つまり、大部分が変えてはならない不変部なのだ。

そこで改めて考えてみよう。大部分の不変部Aと、三日月部分の変化部Bと、一体どっちが小、中学校では重視されるべきなのか、という問題である。当然それはAであろう。

ところが、鉦や太鼓で喧伝されるのは三日月部分、変化部、つまり「新たに変わった部分」なのである。実践者の意識も、指導行政の意識も「どこを、どのように変えなくてはいけないか」というところに大方の関心を向けてしまう。かくて、結果的に、不変、不動の「基礎・基本」が軽んじられ、枝葉の「新しい流行、新しい潮流」のうねりが大きくなるということになる。

根本、本質、原点、根幹という「不変、不動の基礎・基本」ということよりも、たかだか10年しか持たない「枝葉の流行」が現場を振り廻すことになるのである。結果として、子どもらの学力も徳性も、改善、向上もないままに、空しく時が移り、流れていくのである。

『聖書』は永遠のベストセラーだと言われる。『論語』や『徒然草』に代表される古典も、時代を超えたロングセラーであり続けている。般若心経は、最も親しまれている経文のひとつである。これら一群の「古典」の「改訂版」は出たことがない。何百年、数百年、二千年を超えてさえ一字一句変える必要がない。大古典は、大昔の言葉や思想が一字一句改められることなく21世紀の人々の生きる鑑として親しまれている。改めて考えてみるとなんとも凄いことだ。
学習指導要領は、改訂の度に「変化の激しい社会を担う子どもたちに必要な力は」という前提を打ち出している。このように言われると「変わらねばならない」「新しくせねばならない」「旧来はよくない」という考え方に方向づけられそうである。

義務教育の内実は、本来的には「いかなる時代が来ようとも」「自信に満ちて生きて行ける信念や知見」を与えることでなければならない筈だ。

「新しい」ということは、そのまま「時代の裁きを受けていない」ということである。だから、新しいことは危うく、脆く、当てにならないのである。「流行」「ブーム」は、基礎教育期にあっては本来的にタブーでなければならないのだ。

いじめや子どもの自殺や学級崩壊、校内暴力、モンスターペアレンツなど、学校が難題を抱えて悩み、先生方に元気がなくなっている。疲れている。これでは日本の教育はよくならない。──という訳で「教育と笑いの会」を岐阜聖徳学園大学の玉置崇教授と立ち上げ、名古屋、東京、小樽、会津若松などで開いている。毎回満席大好評で、みんなにこにこして帰っていく。その中で演ずるプロの落語はいつも「さすが!」と膝を打つ。その落語はちっとも「新しく」なっていない。不変、不動の古典の技をきっちりと守り続けて滅法楽しめるのだ。新しさと共に、古典の価値にも注目したい。

執筆/野口芳宏 イラスト/すがわらけいこ

『総合教育技術』2017年5月号より

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