ページの本文です

恩師との同窓会にて〜未来の大人をつくる学校現場で大切にしたいこと〜

連載
大切なあなたへ花束を
関連タグ

元大阪市公立小学校校長 みんなの学校マイスター

宮岡愛子
大切なあなたへ花束を
バナー

子どもはいつか必ず大人になる。10年後、20年後の社会をつくる大人になる。だからこそ、どんな子ども時代を過ごすかはとても大きいと思うのです。あなたも小学校時代を振り返れば、そのときに受けた教育や、学んだことが、大人になった今も心に残っているのではないでしょうか。今回は、私が教員を目指すきっかけにもなった恩師との同窓会で、当時の教育を再認識することとなった今の私が心から願うことをお話ししたいと思います。

【連載】大切なあなたへ花束を #23

執筆/みんなの学校マイスター・宮岡愛子

私の原点に立ち戻った日

小学校を卒業して半世紀となった今年、当時5・6年を担任してくれた恩師がはるばる福岡から来阪してくれるという、なんとも嬉しいお知らせと共に同窓会が開かれました。

久し振りに会った恩師や旧友たち何人かで連れ立って、懐かしの小学校を訪ねました。あの頃の私たちにタイムスリップです。

私たちの担任の先生は、その当時とても若く、子どもの思いを大切にしてくれる先生でした。
私たちは各教科の中から学習テーマを考え、それを課題として様々な方法で調べ学習をし、まとめては発表する…ということを、授業の中で何時間もやっていました。今でいう総合的な学習の時間のようなものです。

自分にたちで見つけた課題だから、私たちは張り切って取り組み、友だちの家に何度も何度も集まって、楽しくワイワイと学びを進めていたことを思い出します。
誰もがとても主体的でした。

また、みんなが自分だけの学習ノートをつくり、好きなことや得意なことを書いては提出していました。先生はいつも、親身なコメントや励ましの言葉をお返事してくれました。だから、また次もやろうという意欲が湧いたものです。

卒業のときには、先生がみんなに、自分の手形を押した色紙のプレゼントをしてくれました。
同窓会当日、その色紙を持ってきてくれた友だちがいました。
「当時は、先生の手の大きさに驚いたよね」
いま、大人になった私たちは、先生と同じぐらい…中にはそれ以上の手の大きさになっている人もいます。懐かしくて、楽しくて、みんなで大笑いをしました。
「事あるごとに、この手形に励まされてきた」
という友だちもいました。

本当に楽しい小学校生活でした。当時の、たくさんの心に残る授業の経験が、私が教員を目指したきっかけになりました。
先生という仕事は、なんて素晴らしいんだろう。そう感じていたことを思い出しながら、みんなと語り合い、校内を歩きました。

今だから感じ取れること

校内探検の最後には、校長室に案内してもらいました。なんと、その当時の資料や卒業文集を見せてくれる、とのことなのです。
恩師や仲間とワイワイ言いながら、自分たちの卒業文集をめくります。
文集はA4サイズで、私たちは一人半ページのスペースを与えられ、将来の夢や小学校での思い出のことなどを、伸び伸びと書いていました。楽しかった思い出や希望が、ページからあふれ出してきそうです。

しかし、楽しくページをめくる手が、ある箇所でピタリと止まりました。
特別支援学級に在籍している子どもたち3人が、一人分のスペース…つまりA4の半分にメッセージを書いていたのです。

そして、そこに書かれていた言葉にも衝撃を受けました。
「みんなにいろいろ迷惑をかけてごめん」
「体育で教室に行って一緒に授業を受けるのがいやでした」

とあったのです。

「いろいろ迷惑をかけた」という文の方は、大人が書いた文字でした。おそらく担当の先生でしょう。
一体、どんな気持ちでその言葉を書いたのでしょうか。
今となっては想像するより他にありませんが、その子だって、きっと自分のできることを精いっぱいしていたと思います。でも、その子は他の子に合わせて行動することはできなかったのでしょう。
それが迷惑だったと、誰かに言われたのでしょうか。あるいは、迷惑がる態度をとられたのでしょうか。
それだから、この先生は謝罪の言葉を書いたのではないかと思いました。
このような謝罪の言葉を、子どもの心の代弁として語るなど、絶対にあってはなりません。もちろん、そのことは書いた先生自身も、十分すぎるほど分かっていたことでしょう。
だからこそ、この先生は、特別支援の子どもたちをありのままに受け入れてもらえない現実に辛い思いをし、この一言に込めたのではないかと感じました。

もう一つの方は、子どもの肉筆をそのまま載せてありました。
一生残る卒業文集です。そこに「いやだった」という、あまりにも悲しい一言を残すとは…。
こちらにも、当時の先生の決然とした思いを感じます。
体育で何があったかは分かりません。
しかし、もしも、ずっと全部の教科をみんなと同じ教室で一緒に学んでいたら、この子はこんな気持ちになっただろうか? 今の私は、そう考えてしまいます。

私が6年生だった当時、学級は4クラスあり、私は3組に属していました。
私たちの学年には、特別支援学級に在籍している子どもは3人いましたが、3人とも6年1組でした。分離教育であり、クラスも違ったため、その当時の私は、障害のある友だちが同じ学校にいるということすらも分かっていませんでした。

…それにしても、どうしてそんなページにしてしまったのでしょうか。
「みんなと同じ行数を書くのは難しい」という理由でしょうか。その子のことを考えての配慮だった、とでも言うのでしょうか。
「あの頃は、そんな時代だったんかな?」
と、今の私には違和感しかありません。

知らなかったこととはいえ、自分がその差別を容認していたような気持ちにもなりました。
当時、障害のある子どもとは全く別のクラスで学ぶという教育を受けてきた、私たち同年代の人たちからは、
「やっぱり、障害がある子どもは、その子に応じたところで学ぶべき」
「障害のある子と一緒にいたら、こっちも気を遣うじゃない?」
「障害のある子にとっても、みんなと同じクラスにいることはしんどいのでは?」
といった言葉をよく聞きます。
こうした過去の常識がバイアスとなって、今の時代にも続いているのだということを実感しました。

今、学校現場にいる皆さんへ

この記事をシェアしよう!

フッターです。