【昭和100年記念リレー連載】昭和世代の教師として、20~30代の教師に伝えたいこと ♯2 土作 彰 ~思考停止から脱却せよ! ~


今年は昭和100年。 昭和100年を記念して、2025年8月、昭和世代の、昭和世代による、令和時代に向けてのセミナーを開催することになりました。このリレー連載では、そのセミナーに登壇する有名講師たちから現在教職に就く皆さんへのメッセージをお届けします。 昭和世代の熱い想いをお読みいただければと思います。第2回は熱き硬派の実践者、土作 彰先生によるご寄稿です。
編集委員/堀 裕嗣(北海道公立中学校教諭)

目次
思考停止による指導、4つの事例
昭和40年に生まれ、平成2年に奈良県採用となり、34年間小学校教師を続けてきた。今退職を目の前にして若き先生方に伝えたいことは何か?
それは、思考停止で指導することで、教師がどんな害悪を子どもたちに与えてきているかを自覚せよということである。
その実例を4つ挙げる。
① 特別の教科「道徳」不要論~「道徳」は綺麗事で済む教科だと教えている~
平成30年より小学校では特別の教科「道徳」が行われるようになった。周知の通りこの背景には滋賀県大津市中学校のいじめによる自殺をはじめとする「緊急事態」があった。この事態を改善するためにそれまで領域であった「道徳」を教科に格上げしたのである。それまで「読む道徳」であったものを「考え、議論する道徳」へと転換し、記述式の評価を行うことになった。その頃の文部科学省の面々がそれなりに時間と労力と税金を投入して行った鳴り物入りの「大改革」であった。
さて本稿を書いている令和6年。いじめによる日本の小中高校生の自殺者数はどうなったか?
いじめによる小中高校生の自殺者数が過去最高を記録していることは明白である。同様にいじめの認知件数はどうなっているか。
私はこの「大改革」の「失敗」を実施前から「予言」していた。次の論考である。
週1回の「道徳授業」にあまりに過大な期待はすべきではない。むしろ「道徳」以外の教科領域の授業や授業外活動における「道徳」的指導を心がけることが必要になるだろう。周知の通り、今回の改訂で道徳の教科化が導入された背景にはいじめ問題がある。従来の道徳授業では「読み物資料の登場人物の気持ちを読み取ることで終わってしまっていた」などの反省から、「考え、議論する道徳」授業への転換を「目玉」として打ち出している。
予言しよう。「『考え、議論する道徳』授業をしたからといって、いじめはなくならない」と。なぜなら、いじめは全教育活動のなかに存在するからである。いじめだけではない。「誠実」さの欠如や、「不撓不屈」の精神の弱さなども全教育活動のなかに見え隠れするものだからである。いじめに対しては、それがまだ萌芽のうちに、教師が怒りをもって全力でたたき潰しにいく気概をもち、戦略的に戦術を繰り出して徹底的に戦う以外に道はないのだ。
『教師のチカラ №38号p.13』(日本標準 2018年)
改めて言う。この「大改革」は失敗である。むしろ大きな害を及ぼしている。それは「綺麗事を言っていれば『道徳』の時間はやり過ごせる」という学習を児童生徒にさせてしまっているからだ。こうした「要領の良さ」を教えて「道徳」を指導したと思い込んでいるうちはいじめは決して「減」に転じることはないだろう。
では「道徳」はどうすればよいのか。その一つの代案が②で紹介する「日直・当番活動不要論」である。「人のために自分から動く」子どもを育てる方法である。いわば「心の教育」でなく「行為の教育」の提案である。
② 日直・当番活動不要論 ~人を幸せにする仕事を、いやいややる仕事にしている~
おそらく何の疑いもなく日本国中のほとんどの学級で日直や当番活動が行われていることだろう。しかし、仕事のやり忘れや、サボり、クオリティーの低いいい加減な仕事などに困っている学級の実態を散見する。
なぜそうなるのか? それは仕事に対する価値観がダメだからである。もっといえば「日直や当番活動という仕事は、もともと面倒くさいやりたくない仕事であり、輪番で回ってくるから仕方なくやる」という価値観を持っているからである。だからこの価値観を転換する指導を行わなければ子どもたちはいやいやこれらの仕事を行うことになる。
ではどうするのか? 「日直と当番活動を廃止して、やりたい者がやる」システムにするのだ。
例えば日直。普通日直といえば、「挨拶の号令」、「窓開け」、「電気点け」、「黒板消し」、「プリントを取りに行く」、「配り物」などの仕事をおよそ月に1回行う。年度当初、これら日直の仕事を列挙し「やりたい人はいますか?」と聞いてみる。きっとそれぞれに1人は希望者がいるはずだ。もし希望者が多ければ全員を指名し「代わり交代でやってね。」とだけ言ってあとは任せる。いわゆる「望ましい丸投げ」である。希望者のないいわゆる「空白」の仕事ができたら教師がやればいい。
そうしているうちに「淘汰」が起こり、1学期中ごろにはそれぞれの「職人」が誕生している。仕事を忘れることもなければ人任せにすることもない。その子が「やめる」と言わない限り年間を通じてその子に任せる。折に触れてその頑張りを称賛する。その際に「君に任せて良かった! みんな助かっています。ありがとう。」と伝える。この時点でその子は「これは他の友達の幸せのために自分だけに任された仕事だ」という価値観を持つことになる。人は有用感を感じることで仕事にプライドを持つようになる。人間は「他の人のためなら頑張れる」のだ。
例えば給食当番。これも「やりたい人はいますか?」と募る。この時、いわゆるカフェテリア方式(当番が給仕したおかずなどを自分の分だけ取りに行く方式)は行わない。エプロンを着た子が配膳台に次々給仕していくが、これをエプロンを着ていないメンバー全員で友達の分から次々机の上に置いていく。つまり全員で準備にかかるのである。こうすると多くの場合10分以内で準備は完了する。早いところでは5分台もありえる。さてこうして準備が終わり「いただきます」をする際に次のように言う。「いつもは15分以上かかっていた準備が10分かからずできました。なぜですか?」。
すると「みんなで協力したから。」という答えが必ず出るはずである。そこで、
「そうですね。みんなが自分のことよりも友達のことを優先してやったらこんなに早く終わるのです。時間は人生であり、命でもあります。みなさんは友達の人生=命を大切にしたのですね。」と言って称賛する。そして「今日のエプロンを着たメンバーのみなさんは凄かった! クラスの友達全員を幸せにしてくれたのですから! 明日もお願いしていいですか?」と聞く。おそらく全員の手が挙がるはずである。
読み物資料に頼らずとも「思いやり」「勤労・公共の精神」「よりよく生きる喜び」を行動のレベルまで引き上げることができる実践である。
③ 達成できない「学級目標」~スローガンとの混同で子どもは成長しない~
全国のほとんどの学級に「学級目標」なるものがあるらしい。時には前の壁面などにデカデカと掲示されていることもある。そこに書かれている言葉は例えばこんな感じである。
「いつも全力」「元気 勇気 根気」「チャレンジャー」「レインボー学級」等等・・・。
ところで目標とは何か?
「【目標】行動を進めるにあたって、実現・達成を目指す水準」(goo辞書より)
残念ながら先に挙げた「学級目標」は「目標」ではない。なぜなら「実現・達成を目指す水準」が示されていないからである。それらは「目標」ではなく「スローガン」である。
「【スローガン】団体や運動の主義・主張を簡潔に言い表した語句。標語。」(goo辞書より)
簡潔だから「具体的な行為像」も「達成の可否」も「期日」も示されていない。だから実現不可能である。全国の学校で「目標」と「スローガン」の混同が看過されているのだ。
よってせいぜい掲示物にして貼っておくか、学級通信のタイトルにして「まあ、こんな感じでやろうかと考えています。」くらいのゆるゆるぼやっとした担任の「所信表明」に終始しているのが現状ではないだろうか。「担任には学級に対するそれなりの願いがあるけど、1年経っても何も変わっていない。時には状態が悪化している。」のが現実ではないだろうか。
ではどのような「学級目標」にすればよいのだろうか? それは目の前の子どもたちの成長した「具体的行為像」を目標にすることである。そして「成功の可否」を明確にして達成期日を決めることである。
例えば「いつも全力」をスローガンとして掲げるなら、次のように目標を設定する。
「7月21日までに『授業の感想はありませんか?』と聞いたら学級の9割以上の子どもが挙手をして発言する。」
「12月24日までに給食の準備が3分を切る。」
「3月24日までに学級の子どもの9割以上が自学ノートを3冊以上終わらせている。」
いずれの目標も子どもたちが全力で取り組まなければ達成できないものである。しかもその数値目標に達しなかった場合は、その指導は失敗だったとフィードバックできる。
担任教師はこのように朝子どもたちが登校して下校するまでの全ての「瞬間」で子どもたちがどのような「全力の具体的行為像」を見せるのかを明確に持つべきである。
もし「抜け落ちた」瞬間があれば、その間教師は子どもたちに何の「全力」指導も行っていないということなのだ。
④ 惰性だけの音読カード~音読ってこの程度のものだと錯覚させる~
これもかなり多くの学校で取り入れられているものではないだろうか。多くの場合日々の宿題となっているようだ。家で指定された文章を保護者の前で読む。終わったらハンコを押してもらう。中には「声量」「姿勢」などを評価してもらう欄があるものまである。
教師は提出されたカードを毎朝チェックして返却する。忘れていた場合は当然指導をすることになる。押しているハンコが無い時や、手書きのサインがどうも「怪しい」時も指導することになる。「ごまかしただろう?」「嘘をつくな! 卑怯だ!」などという疑いと怒りの言葉で子どもたちをなじる。
子どもにしてみれば「こんなん言われるのダルいから、親からハンコ借りて押しとけばいいや。」と言って切り抜ける。教師もそこまではチェックしようがないから咎めない。子どもにしてみればチョロいもんである。親も「ハンコこここにあるからね。勝手に押していきや。忙しいねん!」という感じではないだろうか。
さて、この音読カードの本来の目的は何か? おそらく「音読を上手にする」ことであるはずだ。しかし私が見たほとんどの学級での音読(国語以外でも)は、あまりにお粗末なものだった。蚊の鳴くような声で辛うじて聞こえるくらいの声量。独り言? 誰に聞かせてるの? (笑)
何せ音読カードを宿題に課す教師自身が「適切な音読の声量」を知らないから、授業をしても子どもたちはどんどん音読が下手くそになっていく。でも音読カードはとりあえず出すべき宿題として課し続けていく……。
子どもが張った大きな声でスラスラと間違えずに音読できるかどうかを指導するのは教師であり、授業中に力を伸ばすべきものである。そのためには教師は音読の評価規準を確固として持ち、それに満たない子どもに対しては乾坤一擲の指導を入れて音読の力を伸ばしていくべきなのだ。学級全員に対してそれができるのなら音読カードは不要である。というか「紙の無駄遣い」である。やめよう。
とはいえ、学年団でそろえなければならない場合もあるだろう。その時は出す側として実りのあるものにする工夫は必要である。例えば私は音読カードのハンコがいっぱいになったらテストを受けさせる。その際には次のような評価規準がある。「教師から3メートル離れた場所で音読して音量計で90dB以上をマークしたら合格」というものである。休み時間の喧騒の中で90dBというのは結構きついが、子どもたちは自分の声量が数値化されるのでゲーム感覚でチャレンジしてくるようになる。そんな子が増えていくと授業中の音読の声も個人、全体ともに大きくなっていく。
カード提出を目的とした音読カードを宿題にするのはやめよう。それよりも教師が子どもの音読の力を伸ばせるだけの力量を身に付けよう。
以上、「思考停止」が子どもに害悪を与えている例と代案を示した。実際にやってみればよい。どちらの方が子どもを伸ばし、育てるかは実感として分かるはずである。
教師は今行っている指導が本当に子どもたちのタメになっているかを今一度点検すべきだ。思考停止から脱却し、今こそ教師自身が主体性を持って実践を創出していこう。

執筆者プロフィール
つちさく・あきら。1965年生まれ。元・奈良県公立小学校教諭。現在は島根県公立小学校の教壇に立つ。「学級づくり」改革セミナー主宰。著書に『マンガでわかる 学級崩壊予防の極意: 子どもたちが自ら学ぶ学級づくり』(小学館)、『知っているだけで大違い! 授業を創る知的ミニネタ45」(黎明書房)など多数。
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※主催/研究集団ことのは