【連載】堀 裕嗣 なら、ここまでやる! 国語科の教材研究と授業デザイン ♯3 教材解釈における「初動」の大切さ~「文脈」を読む力について・その3~
国語科・道徳科において、理論的裏付けに基づくクリエイティブな教材開発、教材研究、授業実践に定評のある堀 裕嗣先生の連載第3回。モーニング娘。と生成AIに関する話題を枕に、今回もディテールにこだわる教材研究について考えていきます。
目次
1.日本の未来は Wow Wow Wow Wow?
昨夜、YouTubeでモーニング娘。の「LOVEマシーン」の映像を観た。いつのものかよくわからないが、同窓会的な意味合いで初期メンバーが集まり、「LOVEマシーン」を中心としたヒット曲を何曲か歌う、そんな映像だった。「LOVEマシーン」のヒットは1999年だから私は33歳。教員生活としては9年目、札幌市内中央区の伝統校にして研究校に勤めていた(ちなみにこの学校は、当時のメンバー石黒彩の出身校でもある)。モーニング娘。に当時は何の興味も抱かなかったが、生徒たちが大騒ぎしていた記憶だけは残っている。
しかし、それから30年近くが経った現在(いま)になって聴くと、この曲はさまざまな意味で象徴的であり、示唆的であったとの感慨を強くした。そんなフレーズを挙げてみるとこんな感じだ。
どんなに不景気だって 恋はインフレーション
明るい未来に 就職希望だわ
日本の未来は(Wow×4) 世界がうらやむ(Yeah×4) 恋をしようじゃないか!(Wow×4)
モーニング娘。も(Wow×4) あんたもあたしも(Yeah×4) みんなも社長さんも(Wow×4)
1999年というとバブル崩壊から6~8年といったところだろうか。おそらくまだ、「失われた10年」という言葉もなく、だれもがすぐに日本は復活すると信じていた時代だった。しかし、周知の通り、日本は下降線を辿り続け、「失われた10年」は「失われた20年」を経て「失われた30年」に至る。この先だって「失われた40年」「失われた50年」と続くのではないかと思われるほどに復活の兆しは見えない。いや、もう30年が経っている段階で既に「失われた」という形容をつけるのが不遜なのかもしれない。
もうあの当時の空気を肌で感じる経験をもっているのは四十代以上という時代になってしまったが、90年代は「バブルが崩壊した」「不景気だ、大変だ」と言いながら、それは融資や投資の世界でのことであり、国民全体の気運としてはバブル景気で形成されたメンタリティがずーっと残っていた。バブル崩壊は一般に1993年と言われるが各種データがバブルの崩壊を示したのは1991年のことである。バブルの象徴とも言われる「ジュリアナ東京」の開店は1991年、1994年に閉店しているから、実はバブル崩壊後が最盛期である。その後も「ジュリアナ」に代わるディスコがしばらくブームを巻き起こしていたから、間違いなく「ジュリアナ」的気運は90年代を通して継続していたのである。
そんな中、政治・経済の世界では「小選挙区制」の導入、「護送船団方式」の解体、「官官接待」批判などが展開され、これらの改革で日本の未来は明るいと私たちは思い込まされていた。昨夜、「LOVEマシーン」を聴いたとき、私にはこの曲の歌詞がそうした90年代の「錯覚」の象徴のように思われたのである。
2.「失われるもの」を想定できる?
私は当時、札幌市内中央区の伝統校にして研究校に勤めていた、と述べた。この学校に赴任したのは1998年4月のことである。
1998年と言えば、1995年に阪神大震災及びオウム真理教地下鉄サリン事件、前年に山一證券と拓銀の破綻、酒鬼薔薇聖斗事件が起き、不穏な空気が漂い始めた時期でもある。事実、私の勤務校には拓銀の社宅があった関係で、北洋銀行に再就職できなかった保護者の子どもたちがたくさん在籍していた。つい先日まで年収1,000万円以上あった保護者が再就職先では250万円前後なんていうこともよく見聞きしたものである。
しかし、こんなにも近くに、こんなにも悲惨な事例があったにもかかわらず、私たちの周りには「浮かれた空気」を戒める言説はほとんどなかった。「小選挙区制」の導入その他の改革がこの度の失敗の反省から生まれ、日本は再び「Japan as No.1」の座に立ち返る。だれもがそう信じていたのだと思う。
しかし、それから30年近くが経って、「小選挙区制」を改めようという主張が高まってきている。「護送船団方式」や「官官接待」は日本的な経済システムとしてよくできたシステムだったのではという懐古趣味的な主張まで現れる始末だ。なぜあのとき、もっと冷静に、この国は変革によって何を失おうとしているのか、この度の改革によって失われ得るものは何かと検討しなかったのか。いまさら嘆いても仕方ないのだが、こうした後悔が私の中には確固とした存在感をもって横たわっている。
この構図は国語教育界においても同じことが言える。それは本連載の第1回で詳説したので未読の方はご笑覧いただきたい。
現在の状況に即して言えば、いま光の速さで進化している生成AIのもと、来るべき「生成AI時代」に便利さや改革の興奮と引き換えに我々が失おうとしているものは何なのかと検討すべきとき、それが現在(いま)なのではないか。私は直観的にそう感じるのだ。それはおそらく「生成AIネイティブ」が教育期間を終え、社会に出始めた頃に顕在化し、それから数十年経ってその世代が社会の実権を握った頃に絶望的な展開を見せるように思う。ちょうど戦争体験者のほとんどが亡くなって語り継ぐ者が時代から去り、戦後生まれが社会の実権を握るようになってこの国にあった思想的前提が失われてしまったように。
しかも時間は不可逆であるから、絶対に元の状態に戻すことはできない。その悪影響に気づき、どんなに後悔しても、その「元の状態」があった地盤(=前提)を既に解体してしまっているので、「元の状態」に回帰することは原理的に不可能なのである。ある意味で、人の営みはこうしたことの連続であったと見ることができる。その悪弊を打開するには、変革の初動で慎重な姿勢で「その改革で失われるもの」を想定し、吟味し、精査するしか方法がない。それが「現在(いま)」だと言っているわけだ。
ただし、その悪影響が目に見えてこの国を脅かす時代、おそらく私は生きてはいまい。私のこの心配が杞憂であることを祈るばかりである。
3.全文読むのに何分かかる?
さて、冒頭の余談が長くなった。
実は、私は今回、教材(=文章)を読む場合にも、何より「初動」が大切なのだと主張したいのである。
例えば、5行の詩があるとしよう。タイトルがあって、作者名があって、本文が5行である。
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こんな詩だ。
少し自分を振り返って考えてみて欲しい。この5行詩を読むとして、これを読むのにみなさんはどのくらいの時間がかかるだろうか。おそらく多くの読者は30秒、長くても1分もかからない、と考えるのではないか。
しかし、私はこの5行詩を教材として初読するのに、少なくとも10分、たいていの場合は30分程度はかけるのである。その原理……というか、段取りを説明して行こうと思う。
例えば、この詩の1行目が「花が散った。」だとしよう。
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花が散った。
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こういうことだ。
さて、この1行目を読んで、この詩の主題を考えてみて欲しい。
どうだろうか。思い浮かぶだろうか。この場合の正解は、「わからない」である。「花が散った。」は、「花」が「散った」という客観的事実が述べられているだけで、この後はどうにでも展開しようがある。正解が「わからない」と言うよりは、今後の展開次第で無数に多様に考えられる、と言った方が正しいかもしれない。
ところが、これが「花は散った。」ということになると、そうはいかない。
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花は散った。
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この場合ならば、この詩の主題の方向性を確定することができる。
前回も述べたが、「は」という副助詞はいわゆる「取り立て提示」であり、「他ならぬ花は」「花だけは」という意味合いを持って、発話内容の外部との関係を表す。「あの人、頭がいい」と言えば「あの人」の「頭の良さ」をシンプルに指摘しているだけだが、「あの人、頭はいい」と言えば、「顔」か「性格」が悪いと思っている発話者の認識が言外に表出されることになる。つまり、「花が散った。」ならば、「花」が「散った」という客観的事実をシンプルに表出しているだけだが、「花は散った。」ということになると、「花は散った」が何かが散っていないことが想定されるわけだ。そう考えていくと、この詩はその「散っていない何か」に重きが置かれ、その「散っていない何か」にこそ主題が存するということが理解されてくるわけである。
更に言えば、「何が散っていないのか」「なぜ散っていないのか」といった、今後を読み進めていくための「課題」も見えてくるはずだ。
私は先に、5行程度の詩を読むにしても、初読で少なくとも10分程度、長ければ30分程度かけると言った。それは、このように第1行(第1文)に対して思考が果てるまで次の文に行かない、第2行(第2文)に対してもあれこれ考え、思考が果てるまでは第3文に行かない、そうした読み方をするからなのである。その中でも第1行(第1文)には、かなり時間をかける。さまざまな可能性を考えるとともに、題名との関係をも深く考えるからだ。
1行目の思考を読者に追体験してもらおうと提示しなかったが、実はこの詩は、題名「仕度」という詩である。北川冬彦の作である。もちろん、第1文は「花は散った。」である。つまり、本来、1行目を読むときには次のようになる。
仕度
北川冬彦
花は散った。
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「仕度」という題名と「花は散った。」という1行目は、大きく響き合っている。「花」は「散った」けれども、何かは散っていない。そしてその何かとは、何らかのポジティヴな事象に対する「仕度」である。題名と1行目を関連づけて考えるならば、こういう結論に至るはずである。
私が初読に、しかも第1行(第1文)の読みに徹底して時間をかけるという意味が少しはおわかりいただけただろうか。
4.総合から分析する? 分析から総合する?
この詩は、全編を提示すれば、次のようになる。
仕度
北川冬彦
花は散った。
その姿はしよぼしよぼとし、
なんともあはれだ。
あはれなその姿の中で、
美しい實を結ぶ仕度をとゝのへてゐる。
詩集『實驗室』(河出書房/1941年)所収
さて、いま私は全文を提示した。おそらく読者の皆さんは、私がこれだけ1行ずつ時間をかけて検討しながら読むのだと力説したにもかかわらず、最後まで一気に読んでしまったはずだ。そして最後の行を読んで、なるほどそういう仕度か……と思った方が多いことだろうと思う。
しかし、である。
この全文を読んでしまったうえで、第2行「その姿はしよぼしよぼとし、」を細かく丁寧に検討することができるだろうか。一度通読してしまえば、もはやこれまでどおり、授業を想定した表層的な箇所にしか目が向かなくなるのではないだろうか。「しよぼしよぼ」はオノマトペだなとか、「なんともあはれ」と強調してるなとか、「あはれなその姿の中」ってどこだろうなとか、そんな感想じみた思いがぼんやりと浮かんでくるだけになる。最初から一文ずつ、細かく丁寧に、時間をかけて検討するというのは、まさにこの状態に陥らないようにするための構えなのである。
全文を通読すると、人はなんとなくそれなりにその作品を理解したような気になってしまう。なんとなくそれなりの主題じみたものも捉えてしまう。何度読み返そうとも、その「なんとなく理解」や「なんとなく主題」をフレームにしてしか読めなくなってしまう。教材研究において、最も避けなければならないのがその「構え」なのだと私は考えている。
かつて、「児言研」(=児童言語研究会)が「一読総合法」を提唱した。それまでの「三読法」(現在も一般的に実践されている)による「通読」→「精読」→「味読」という三段階の読み方に対して、「一読総合法」は最初から一文一文を精読していき、常に前の文との関係を分析しながら読み進めていくという読み方である。前者が「総合」→「分析」の順で読んでいくの対し、後者は「分析」→「総合」という順で読んでいくという言われ方がなされる。私は限られた教材でしか授業では実践しないが、教材研究においてはほぼすべてにおいて「一読総合法」で読むことにしている。
参考資料としては「一読総合法入門」(明治図書出版/1966年)が基本文献だが、現在でも手に入るものとしては『今から始める一読総合法』(一光社/2006年)があるので、興味のある方は参照されたい。また、「児言研」は現在も多くの支部を持って活動していて、決して過去の研究団体ではないことも併せて確認しておきたい。
5.つぶやいたのは意識的? 無意識的?
この教材研究の原理は、物語・小説教材でも同じである。
一例を示そう。光村図書の中学2年教材に「盆土産」(三浦哲郎)という小説がある。長く採択されてきた教材だが、残念ながら今回の教科書改定で消えることになっている(ほんとうは個人的にあまり好きな教材ではないので、それほど残念だとは思っていないけれど……)。しかし、今回の事例としてはわかりやすいので、この教材を例に挙げる。冒頭の一文は次である。
えびフライ、とつぶやいてみた。
皆さんはこの一文から何を読み取らなければならないと考えるだろうか。少し先を読むのを休んで考えてみていただきたい。
まず、この一文からピンッと来て欲しいのは、「みた」という補助動詞である。「~してみる」という表現は、「ためしに~する」という意味である。そうすると、主人公は「ためしにつぶやいてみた」わけだ。「ためしに~する」ということは、その主体者としては「意図的」「意識的」にその行為をおこなっている。これがもし、「えびフライ、ふと口についた」であったなら無意識に言ってしまったということになろうが、「つぶやいてみた」ということになると、主人公は間違いなく意図的・意識的につぶやいたのである。
とすれば、主人公はなぜ、「えぴフライ」などとつぶやこうと意図したのか。この問いが後の文章を読んでいくにあたって解き明かさなければならない課題として意識されてくる。
次に「つぶやく」とはどのような行為か、ということだ。小声で言ったことは確かだろう。だが、ただ小声で言ったという理解だけで良いだろうか。「つぶやく」と似たようなことばに「ささやく」があるが、「つぶやく」と「ささやく」とはどう異なるだろうか。
そうである。「ささやく」は小声で他人に伝えることだが、「つぶやく」は小声で独り言を言うことなのである。とすれば、この「つぶやいてみた」という意図的・意識的な行為の「意図」や「意識」は、自分自身に向けられているということが見えてくる。こうなってくると、先の課題も、主人公はなぜ、「えびフライ」などとつぶやき、自分にどんな思惟・思考を呼び起こそうと意図したのか、というような問いとなろう。
さて、この文にはもう一つ、重大なポイントがある。それは、なぜ、「えびフライ」のあとに読点があるのかという問題である。この文は次の三つのどれもが成立するはずなのに、この文では「えびフライ」のあとの読点が選ばれているわけだ。
1) えびフライ、とつぶやいてみた。
2) えびフライと、つぶやいてみた。
3) えびフライとつぶやいてみた。
いかがだろうか。三者を音読してみて欲しい。音読してみると、その違いが一目瞭然となるはずだ。
1)は明らかに「えびフライ」が最も強調される読点の打ち方ということになる。これに対して2)は、「えびフライ」と同等、或いはそれ以上に「つぶやく」という動詞が強調される。3)は一文のすべてが「地の文」化するわけだから強調箇所が薄くなる。謂わば、事実を述べたシンプルな文になってしまうわけだ。
ここにも、主人公(或いは「語り手」)の「えびフライ」への強いこだわりが見えてくるのである。
この後、この作品はこう続いていく。ご自身で一文ずつ考えてみて欲しい。
足元で河鹿が鳴いている。腰を下ろしている石の陰にでもいるのだろうが、張りのあるいい声が川に漬けたゴム長のふくらはぎを伝って、ひざの裏をくすぐってくる。つぶやくにしても声にはならぬように気をつけないと、人声には敏感な河鹿を驚かせることになる。
えびフライ。発音がむつかしい。舌がうまく回らない。都会の人には造作もないことかもしれないが、こちらにはとんとなじみのない言葉だから、うっかりすると舌をかみそうになる。フライのほうはともかくとして、が、存外むつかしい。
註 河鹿 … 山間の清流にすむ小さなかえる。カジカガエル。
6.こだわりを持って読んでみたい?
冒頭でも述べたとおり、物事は「初動」が大事だ。しかも、時間は「不可逆」だから、一度経験してしまったものは、決して「元の状態」に戻すことはできない。
教材研究も同じだ。初読において、一文一文、詳細に検討しながら読んでいく。しかも、第一文は作者渾身の一文であるはずだから、特に時間をかけて検討する。私が本稿で言いたいことはこのことに尽きる。ほんとうはここで言っているのは、「教材研究」というよりも「教材解釈」を施す営みのことではあるけれど。
さて、中学校教材でおそらく最も有名な教材は、「走れメロス」だろう。その冒頭の一文は次である。
メロスは激怒した。
また、小学校教材でおそらく最も有名な教材「ごんぎつね」の冒頭文は次である。
これは、わたしが小さいときに、村の茂兵というおじいさんからきいたお話です。
「走れメロス」の第一文はよく授業で扱われるものの、「ごんぎつね」の第一文は単なるリード文として扱われ、よく検討されずに読み誤りを招いてきた経緯がある。読者諸氏には是非、ご自身で検討されたい。読者諸氏にも、こうした第一文へのこだわりを持ち、ディテールを読む、文脈を読むという「教材研究」「教材解釈」への道を歩んでいただけることを切に望む。
※ この連載は原則として月に1回公開予定です。次回もお楽しみに。
【堀 裕嗣 プロフィール】
ほり・ひろつぐ。1966年北海道湧別町生まれ。札幌市の公立中学校教諭。現在、「研究集団ことのは」代表、「教師力BRUSH-UPセミナー」顧問、「実践研究水輪」研究担当を務めつつ、「日本文学協会」「全国大学国語教育学会」「日本言語技術教育学会」などにも所属している。『スクールカーストの正体』(小学館)、『教師力ピラミッド』(明治図書出版)、『生徒指導10の原理 100の原則』(学事出版)ほか、著書多数。
写真/西村智晴
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